岐阜キリシタン小史(71) 再び、コンスタンチノのこと②

 前回に続き、尾張のキリシタン黎明期に登場する人物コンスタンチノを取り上げる。今回は、ルイス・フロイスの『日本史』に記されたコンスタンチノの記述について見ていきたいと思う。フロイスの『日本史』については、以前に拙稿「岐阜キリシタン小史」で触れたが、あらためてその概要を整理しておく。

フロイス『日本史』 História de Japam
1. 成立と性格
 フロイス『日本史』は、1560年代から1590年代にかけてフロイスが継続的に執筆した大規模な叙述史料であり、戦国期日本の政治・宗教・社会を宣教師の視点から記録したものである。彼は各地での宣教活動に従事しながら、為政者との接触、仏教諸宗派との論争、地域社会の慣習、信徒共同体の形成などを詳細に観察し、それらを長期にわたり書き留めた。本書は、同時代の日本を比較的近い距離から捉えた点に特徴があり、記述の具体性と量的な豊富さから、戦国期日本研究において不可欠の史料とされている。
2. 全巻構成
『日本史』は、一般に以下のような大きな構成を持つ。
第1部:日本の風俗・宗教・社会の概説
日本の宗教状況(仏教諸宗派の特徴)、社会慣習、政治制度、地域差などを概説する部分。フロイスの日本理解の基礎が示される。
第2部:宣教活動の開始と展開
ザビエル以降の宣教の歩み、各地での布教、信徒の増加、仏教側との論争、領主との関係などを叙述。
第3部:戦国大名との関係
織田信長との接触、安土での活動、信長の宗教政策、京都・畿内の政治情勢などが中心。
第4部:豊臣政権期の動向
秀吉政権下の宗教政策、伴天連追放令、九州の情勢、キリシタン大名の動向など。
第5部:地域別の詳細な記録
九州・畿内・東国など、地域ごとの社会状況や宣教の実態を詳述。
3. 写本の系統
 フロイスはポルトガル語で『日本史』を執筆したが、自筆原稿は現存しない。原本は18世紀までの間に失われたと考えられており、現在伝わるのは複数の写本である。
代表的な写本には次のものがある。
① エヴォラ写本(Évora Manuscript)
 ポルトガルのエヴォラ公共図書館(Biblioteca Pública de Évora)に所蔵される写本で、現存する『日本史』諸写本の中でも最も重要なものの一つである。日本語訳『完訳フロイス日本史』(中央公論社・中央公論新社)は、この写本を主たる底本とし、他の写本とも比較・校訂している。
② ローマ写本(Roman Manuscript)
ローマのイエズス会歴史文書館(Archivum Romanum Societatis Iesu:ARSI)に所蔵される写本。エヴォラ写本と比較すると、、本文に語句の違いや脱落などの異同が認められ、本文校訂の重要な資料となっている。
③ ラテン語訳・抄訳
 17世紀以降、『日本史』の一部はラテン語に翻訳・抄録され、ヨーロッパで利用された。ただし、原著全体を忠実に翻訳したものではないため、本文研究では補助資料として扱われる。
※写本段階での異同が多いため、研究では「どの写本系統に依拠するか」を明示することが重要となる。
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岐阜キリシタン小史(70) 再び、コンスタンチノのこと①

1.はじめに 

 拙稿「岐阜キリシタン小史(17)」では、尾張キリシタン黎明期の人物コンスタンチノを取り上げた。その際は、尾張キリシタン研究の二人の泰斗の著作、森德一郎氏の『尾濃切支丹年表』と横山住雄氏の『尾張と美濃のキリシタン』を参照し、両氏の記述を整理するかたちで紹介した。
 その後、イエズス会の「日本年報」や宣教師書簡、およびフロイス『日本史』を読む機会が増え、これら一次史料に描かれたコンスタンチノ像を、あらためて自分自身の視点で整理してみたいという思いが強くなった。
 洗礼名コンスタンチノ(Constantino)はラテン語の Constantinus に由来し、もともとの意味は「変わらない」「揺るがない」といった安定した性質を表している。そのため、この名は「揺るがぬ人」「忠実な人」「堅固な人」といったイメージを持つ名前として受け継がれてきた。キリスト教の世界では、信仰にしっかり立つ姿勢を象徴する名として親しまれている。
 今回から二回にわたり、宣教師史料に記されたコンスタンチノの姿を紹介していきたい。まず今回は、イエズス会の「日本年報」と宣教師書簡に現れる彼の動向を取り上げる。参照した資料は、同朋舎出版・松田毅一監訳の『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(全十五巻)であり、まずはこの報告集に記されたコンスタンチノの記事を抽出するところから始めたい。( )内は引用文に付された補足、[ ]内は本稿筆者による補足である。また、引用文ではコンスタンチノを「コンスタンチイノ」と表記していたため、原文表記をそのまま維持して採録した。

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岐阜キリシタン小史(69)イエズス会文書に見る織田秀信とキリスト教

1.はじめに 

 拙稿「岐阜キリシタン小史 (68) イエズス会文書に見る織田信忠とキリスト教」では、イエズス会の『日本年報』および宣教師書簡を手がかりに、信忠が岐阜において示した信仰の歩みを検討した。
 今回はその続編として、同じくイエズス会文書に記された織田秀信の動向に目を向けたい。信忠と同様、秀信についても断片ながら重要な記述が残されている。
 秀信については、これまでにも幾度となく触れてきた(拙稿 「岐阜キリシタン小史(2)(56)(57)(58)(59)」を参照されたい)。あらためて詳述するまでもないが、簡単に織田秀信について記しておく。

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岐阜キリシタン小史(68)イエズス会文書に見る織田信忠とキリスト教

1.はじめに 

拙稿「岐阜キリシタン小史(55)織田信忠と岐阜のキリスト教」では、信忠時代の岐阜におけるキリスト教の動向を扱い、その中でイエズス会の「日本年報」にも触れた。今回は、その「日本年報」および宣教師書簡にあらためて焦点を当て、これらの史料がもつ性格と史料的価値について検討したい。
イエズス会による日本宣教の実態を理解するうえで、ルイス・フロイスの『日本史』は欠くことのできない基本史料である。しかし、同時代に作成された「日本年報」や宣教師書簡もまた、これに劣らぬ重要性をもつ一次史料である。
「日本年報」は、各地の宣教師が毎年ローマ本部へ送った公式報告であり、布教状況・政治情勢・迫害・戦争・信徒数などを、出来事から大きな時間差なく記録した一次的な“現場報告”である。叙述的・文学的性格を帯びるフロイス『日本史』とは異なり、速報性と事実性を重視した点に特徴がある。
一方、フロイス『日本史』は、イエズス会の命により体系的に編纂された大部の歴史叙述であり、日本文化・人物像の描写に優れ、信長・秀吉期の政治史研究において不可欠の史料として利用されてきた。ただし、その叙述には伝聞や判断が混じる部分もあり、物語的構成力と引き換えに一定の脚色が入りうる点が指摘されている。

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岐阜キリシタン小史(67)美濃の禅宗勢力と初期キリシタン― 山田庄左衛門を中心に ―

 16世紀半ばの美濃では、禅宗が地域の宗教生活を大きく形づくっていた。妙心寺派や南禅寺派の寺院は、守護土岐氏の保護を受けて発展し、町の成り立ちとともにその存在感を増していった。寺院は学問や儀礼、葬送、教育といった日常に深く関わる営みを担い、寺檀関係を通じて地域社会の秩序を支える場でもあった。禅宗は単なる信仰の場ではなく、人々の暮らしを包み込むような基盤として働いていた。
 美濃で禅宗が重んじられた背景には、土岐氏の存在がある。土岐氏は室町幕府の有力守護として足利将軍家と縁戚関係を結び、将軍家が保護した京都五山とのつながりが深かった。五山は将軍権力の文化的な象徴でもあり、臨済宗は武家社会の精神的な支柱とみなされていた。こうした事情から、美濃でも臨済宗寺院が自然と重んじられる土壌が育まれ、妙心寺派や南禅寺派の寺院が地域に根を張っていった。

崇福寺(岐阜市) 臨済宗妙心寺派の古刹。信長が保護した寺として知られている。
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岐阜キリシタン小史(66)『あかしする信仰』(カトリック名古屋教区)のこと

 前回の小史(65)では、カトリック名古屋教区が作成した『美濃・尾張キリシタン巡礼マップ』(カトリック名古屋教区宣教司牧評議会殉教者顕彰委員会編、2022年2月)をご紹介した。このマップは、名古屋教区のホームページ内にある「資料室」から無料でダウンロードできる。地図としての使いやすさに加えて、各史跡の背景を簡潔にまとめた解説が添えられている。初めてキリシタン史跡を訪ねる人でも、どんな場所なのか、どのような歴史があったのかがひと目で分かるよう工夫されており、手元に置いておくと役立つ資料ではないだろうか。


 今回は、そのマップの基礎資料となった書籍『東海・北陸のキリシタン史跡巡礼 あかしする信仰』を取り上げたい。発行元はマップと同じくカトリック名古屋教区宣教司牧評議会で、刊行は2012年。教区内の信徒や関係者向けに作られた書籍のようで、全256ページのフルカラー版である。写真や図版も多く、読み物としても資料としても充実している。現在の入手方法ははっきりしないが、私は古書店の通販サイトで偶然見つけることができた。関心がある方で入手できない場合でも、同じく名古屋教区のホームページ内にある「資料室」から全ページを閲覧することができるため、内容を知るうえで困ることはないだろう。

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岐阜キリシタン小史(65)江南・前野家屋敷跡とキリシタン一族の痕跡

 愛知県江南市前野町に「前野家屋敷跡」がある。ここは、戦国時代に木曽川の川並衆として活動した前野将右衛門長康一族の屋敷跡である。
 カトリック名古屋教区の『美濃・尾張キリシタン巡礼マップ』 (カトリック名古屋教区宣教司牧評議会殉教者顕彰委員会編 2022年2月)には、次のように記されている。
(『美濃・尾張キリシタン巡礼マップ』は、カトリック名古屋教区のHP内の「資料室」から無料ダウンロードできる)

豊臣秀吉に仕えた前野将右衛門一族の屋敷跡。前野将右衛門はキリシタンと伝えられ、遠藤周作が彼をモデルに小説を書いたことがある。また、戦国時代の一族の物語『武功夜話』を筆記した吉田(前野)千代もキリシタンであり、1667(寛文7)年10月12日、夫と姉妹2人と共に名古屋の千本松原(現在の栄国寺付近)で処刑された。
前野家屋敷跡(江南市前野町)
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岐阜キリシタン小史(64)可児塩・犬山五郎丸のキリシタン摘発と濃尾崩れ

 岐阜県可児市帷子から愛知県犬山市五郎丸へと続く国道41号線沿いは、江戸期に多くの潜伏キリシタンが暮らした地域である。木曽川左岸の段丘と浅い谷が重なり合う地形に広がり、段丘が幾層にも折れ重なり、その間を可児川や小河川が浅い谷を刻むことで、谷ごとに生活圏が分かれ、江戸期には小規模な集落が段丘の縁や谷底に点在していた。深い山間部ではないものの、視界が折れ曲がるような起伏が続き、外部からの目が届きにくい土地柄である。

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岐阜キリシタン小史(63)  等安と如安―高山右近をめぐる二人のキリシタン―

 村山等安と内藤如安は、戦国末期から安土桃山、そして江戸初期へと至る激動の時代に、それぞれ異なる道を歩みながらも、高山右近と深く関わったキリシタン武将である。彼らが生きた時代、キリスト教を信じるという選択は、単なる宗教的関心ではなく、政治的立場や家の存続にまで影響を及ぼす重大な決断であった。信仰を選ぶことは、しばしば人生の方向を決める行為であり、家族や一族の運命にも関わることでもある。

村山等安の生涯と長崎キリシタン社会

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岐阜キリシタン小史(62)―ミゲル・ミノエスのこと―

突然だが、奈良商工会議所主催の「奈良まほろばソムリエ検定」(通称:奈良検定)という検定をご存知だろうか。いわゆるご当地検定である。
2013(平成25)年1月に実施された「奈良まほろばソムリエ検定」で、次のような問題が出た

(問)ルイス・フロイスの『日本史』に記載されている、松永久秀の多聞城を絶賛した書簡を差し出した宣教師は誰か。
「ア」.ドン・ジュスト 「イ」.ルイス・デ・アルメイダ
「ウ」.ミゲル・ミノエス 「エ」.ベルナール・プティジャン

 多聞城は奈良市法蓮町(東大寺の北西)に築かれた松永久秀の城で、南蛮風の館や庭園を備えた壮麗な居館。正解は「イ.ルイス・デ・アルメイダ」であるが、選択肢の中に「ミゲル・ミノエス」の名前が含まれていることに驚いた。

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