1.はじめに
拙稿「岐阜キリシタン小史 (68) イエズス会文書に見る織田信忠とキリスト教」では、イエズス会の『日本年報』および宣教師書簡を手がかりに、信忠が岐阜において示した信仰の歩みを検討した。
今回はその続編として、同じくイエズス会文書に記された織田秀信の動向に目を向けたい。信忠と同様、秀信についても断片ながら重要な記述が残されている。
秀信については、これまでにも幾度となく触れてきた(拙稿 「岐阜キリシタン小史(2)、(56)、(57)、(58)、(59)」を参照されたい)。あらためて詳述するまでもないが、簡単に織田秀信について記しておく。
織田秀信について
秀信は1580(天正8)年に、織田信長の嫡孫として生まれた。父は本能寺の変で討死した織田信忠であり、秀信はその遺児として織田家嫡流の血統を受け継ぐ唯一の存在となった。幼少期に父を失ったものの、豊臣政権下では「岐阜中納言」と称され、織田家嫡流として相応の家格を保ち続けた。これは単なる名目上の待遇ではなく、信長の後継としての象徴性を秀信が帯びていたことを示している。
本能寺の変当時、秀信はまだ3歳にすぎなかったが、成長すると岐阜城を継ぎ、同城の最後の城主として美濃国の要衝を預かる立場に置かれた。形式上の所領は13万石とされるが、岐阜城という政治・軍事の中心地を任されたことを踏まえると、この石高は単なる数字以上の意味を持ち、織田家嫡流としての権威を体現する地位であったと考えられる。
1595(文禄4)年、秀信は16歳で受洗し、キリシタンとなった。若年の大名がキリスト教を受け入れることは当時としては異例であり、豊臣政権下の禁教政策を踏まえると、政治的危険を伴う大胆な選択であった。にもかかわらず秀信は信仰を選び取り、以後、岐阜城下におけるキリスト教共同体形成の中心人物となっていく。彼は織田家嫡流としての象徴性と、若きキリシタン大名としての精神的指導力を併せ持つ存在となった。
やがて1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦が勃発すると、秀信は西軍に属して戦った。しかし西軍敗北により所領は没収され、秀信は高野山への蟄居を命じられる。織田家嫡流としての地位も、岐阜城を中心に形成されつつあったキリシタン共同体も、この敗戦によって一挙に崩壊した。
蟄居生活の中で秀信は病を得て、1605(慶長10)年、わずか26歳でその短い生涯を閉じた。信長の嫡孫として生まれ、若くしてキリスト教に帰依し、岐阜城を中心に独自の領国統治とキリスト教信仰に基づく共同体形成を試みた秀信の人生は、戦国から近世への転換期における織田家嫡流の最後の光芒として位置づけられる。
以下に、イエズス会文書のうち秀信に関する記述を、同朋舎出版・松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(1987~1998年) から抜粋して掲げ、後にその内容を検討する。 ( )内は引用文に付された補足、[ ]内は本稿筆者による補足である。
2.史料引用
(1) 史料1:1595年10月20日付 長崎発信 ルイス・フロイスの1595年度年報(出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻、家入敏光訳、同朋舎出版、1987年、77-78頁)
(引用開始) 600人の異教徒が洗礼を授かったが、その中には多数の重立った人々や有名な人々がいた。彼らの中の第一は、(織田)信長の孫で、その正統の嗣子なる(秀信)三郎殿がいたことである。(織田)信長とその息子 [信忠] すなわち三郎殿の父親が死去した時に彼は[3歳]であった。彼は現在、美濃の国のほとんど全領国の国主であるが、(中略) この国主(三郎殿)は今年16歳で、稀に見る才能を有する若者であり、そのために大いなる期待がもてる。(中略) 彼らはまず、彼をカトリック宗門に近づけ、教理に耳を傾けさせ、最後に3名の重立った国主たちといっしょに洗礼を受けさせようということになった。しかし(実際に)このようにされたことは、もし太閤様が聞知したら、以前からの迫害が再び残虐にされることを恐れて、現在は秘密にされている。(引用終わり)
(2) 史料2:1596年12月13日付 長崎発信 ルイス・フロイスの1596年度年報(出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻、家入敏光訳、同朋舎出版、1987年、217,224-226頁)
(引用開始)太閤の政庁には(織田)信長の2人の孫が住んでいるが、(中略) 年上の方は三郎(秀信)殿と呼ばれ、美濃の国の大部分の国主である。年下の方は於吉丸(秀則)殿と呼ばれ、14歳になっていて、(中略) 彼は何ヶ月もの前からキリシタンになりたいと望んでいるが、(中略) 或る夜に自分の兄三郎(秀信)殿の邸へ赴いた。(中略) 兄の同意を得ると、夜半に我らの司祭を訪れた。(中略)それから(信長の孫の)三郎秀信殿の乳母が重病になった。(中略) 彼女はそれを聞くと洗礼を授けてもらうよう求めたが、(中略) 年老いて経験がある我らのヴィセンテ修道士は、(中略) 「婦人よ、もしよかったら私が或る儀式によって、人類の敵(なる悪魔)を追い払い、敵があなたに害を加えることができぬようにしましょう」と。(中略) 唱えながら水を(彼女の)頭に注いだ。(中略) ついに彼女はイエズスの御名を唱えてその魂をデウスの御手に返したが、(中略) 彼女の幸福な死に方は、(中略) 特に彼女の側を決して離れなかった(織田)三郎(秀信)殿に対して信じ難いほどの喜びを与えた。(引用終わり)
(3) 史料3:1599年10月10日付 日本発信 巡察使アレシャンドロ・ヴァリニャーノのイエズス会総長宛1599年日本年報(出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻、同朋舎出版、1988年、家入敏光訳、143頁)
(引用開始) (織田)信長の孫(秀信) (彼は17歳で、今から少し前の日に受信した)が、(領国の)君主である美濃の国では、この君主自身の好意によって聖堂が建てられたが、その費用にキリシタンたちは400金 [1 スクードは3~5日の賃金に相当]を費やした。この聖堂は大勢の人を入れる能力があり、日本の建物と同じようにした立派なものである。(中略) 我らは美濃の我らの居所を非常に高く評価している。なぜならそこは領主の保護下にあるだけでなく、また都からはわずか20里 [1レグアは約5km、約100㎞] しか離れていないからである。(引用終わり)
(4) 史料4:1599~1601年 日本諸国記(フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集、出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻、田所清克・住田育法氏・東光博英共訳、同朋舎出版、1987年、235-236,238-239頁)
(引用開始)同じ司祭はまた美濃の国の首都岐阜にも赴いた。(中略) この若殿は美濃の国の大半を有し、17歳でキリシタンとなったが、(中略) 中納言から供与された市内の立派な敷地に一教会を建てることを決意した。
(中略) 幾人かは教理問答を聞き始め、よく理解し、86人が洗礼を受け、その中には幾人かの貴人もいる。中納言殿は、(中略) キリシタンの貴族の嘆願で、貧者を収容するための一軒の大きな家、すなわち養生所オスピタールを市に造ることを命じた。(中略)数日前、中納言は、70歳をはるか越えている妾を蓄えているとの理由で、この市に居住する一人の重立った仏僧に死を命じていた。ところが、(中略) 彼の命を赦し、流罪に処して彼の仏寺の一つを焼き払うよう命じた。(中略)修道士が彼に告白について説いている時に、彼は一度、このように述べた。「イルマン殿は、予はただ単に伴天連様に告白したいとは思わず、直接にデウス様に告白するようにしたいのだ。(中略) 予は(デウス様に告白する)ためよく準備をしたい」と。(引用終わり)
(5) 史料5:1601年2月25日付 長崎発信 ヴァレンティン・カルヴァーリュのイエズス会総長宛書簡(出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻、家入敏光訳、同朋舎出版、1987年、313頁)
(引用開始)まず、美濃の国から始めよう。この領国の国主はキリシタンである中納言(織田秀信)であったが、この国の諸侯が彼の模範に心を動かされて少なからぬ武士がキリシタンになった。(中略) 中納言殿は自分の領国を追われ、また財産を没収されて、(中略) 高野という地へ、追放刑になった。また日本人の法律は、或る国主が自領を没収されることになった場合、そのすべての諸侯と貴人たちは、俸禄と自分の全財産を没収されることになっていた。そこで美濃の国で聖主キリストを礼拝していたすべての貴人が、多くの患難に遭うよう強いられたことは疑いない。(引用終わり)
3.史料の検討と考察
(1) 政治的リスクを承知での受洗と織田家嫡流としての期待
1595(文禄4)年のフロイス年報(史料1)は、秀信を「600人の洗礼者のうち第一」と記し、彼の受洗が単なる一個人の信仰選択ではなく、織田信長の嫡孫としての象徴性を帯びた重大な出来事であったことを強調している。織田家嫡流の後継者として期待されていた秀信が、豊臣秀吉の禁教政策下という極めて危険な政治状況の中で受洗したことは、イエズス会にとって計り知れない意味を持った。年報が秀信を「稀に見る才能を有する若者」と高く評価している点は、彼が単なる名門の後継者ではなく、将来の布教において中心的役割を担い得る人物として見なされていたことを示すものだろう。秀信の受洗は密かに行われたが、これは禁教下の大名が洗礼を受けることが政治的生命を危険にさらす行為であったためであり、秀信自身がその危険性を理解したうえで信仰を選び取ったことがうかがえる。イエズス会側も、岐阜という地理的に畿内に近い拠点を秀信が掌握していることを重視し、彼の受洗を通じて美濃を中央布教の戦略的拠点として位置づけようとしていた。秀信の受洗は、禁教下の情勢の中で織田家嫡流の若者がキリスト教を選び取ったという点で、当時の布教活動に少なからぬ影響を及ぼした出来事であった。
(2) 家中におけるキリシタン共同体の形成と波及効果
1596(慶長元)年の年報(史料2)は、秀信の受洗が家中における信仰の急速な広がりをもたらし、岐阜城下に実質的なキリシタン共同体が形成されていった過程を生々しく伝えている。弟の秀則(於吉丸)が秀信の同意と家中の信徒家臣の仲介によって受洗したことは、秀信の信仰が家族関係や家臣団の内部構造にまで影響を及ぼしていたことを示している。年報が「家族の多数の人々がキリシタンである」と記すように、秀信邸は美濃における信徒共同体の中心的拠点となり、政庁や屋敷を中心に信仰が自然発生的に広がっていった。特に秀信が母のように慕った乳母の病床での受洗と臨終の場面は、家中における信仰の浸透が形式的なものではなく、深い情緒と人間関係を伴っていたことを象徴している。異教徒(仏教徒)の目を避けながら洗礼が行われ、秀信がその臨終に立ち会って感謝を述べたという記録は、家中の信仰が儀礼的な形式にとどまらず、日々の関係や生活の場面に深く入り込んでいたことをうかがわせる。
(3) 領主としての庇護と美濃布教の重要性
1599(慶長4)年のヴァリニャーノ年報(史料3)は、秀信の庇護によって岐阜に壮麗な教会が建設されたことを伝え、その規模と意義を詳細に記録している。教会建設には400スクードもの巨額の費用が投じられ、日本の伝統的建築様式を取り入れた大規模な聖堂が整えられた。これは単なる宗教施設の建設ではなく、領主秀信が自らの権力と財力を用いて布教を支援したことを示す出来事であった。ヴァリニャーノは美濃のレジデンシア(常住拠点)を高く評価し、その理由として秀信の手厚い保護と、都から約20里という地理的近さを挙げている。美濃は畿内に近接し、中央政治への影響力を持ち得る地域であったため、イエズス会はここを最重要拠点の一つとして位置づけていた。秀信の庇護は、個人の信仰にとどまらず、領内に教会を整え、宣教師の活動を支える具体的な措置を伴っており、美濃での布教を進めるうえで重要な支えとなった。
(4) 領国統治へのキリスト教的倫理と社会事業の適用
『日本諸国記』(史料4)は、秀信が領国統治においてキリスト教的倫理を積極的に適用しようとした姿を極めて具体的に記録している。秀信は宣教師に居住地や物資を提供し、家臣たちに説教を聞くよう促すなど、領主として布教を支援するだけでなく、自らも異教の僧侶との対比を通じて教理の妥当性を説き、信仰の正統性を家中に示そうとした。また城下には貧困層や病者を収容する養生所(オスピタール)を設置し、領主の権限を用いて領内に救済の仕組みを整備した。これは単なる慈善行為ではなく、領国全体にキリスト教的倫理を根付かせようとする制度的試みであった。さらに妾を蓄えていた仏僧を厳しく処罰した記述は、秀信が領内に独自の規律と倫理観を適用し、宗教的腐敗を正そうとした姿勢を示している。秀信の統治は、信仰を個人の領域にとどめず、領内の規律や施策にまで及ぼそうとするもので、禁教下の状況にもかかわらず、宗教的価値観を実際の政治運営に反映させようとした点に特徴があった。
(5) 内面的な信仰の深まりと姿勢
史料4には、秀信の内面的な信仰の深まりを示す記述が多く残されている。秀信は「直接デウスに告白したい」「一時的な安全のためではなく、十分な準備をして臨みたい」と述べ、儀礼的形式主義に陥らず、信仰の本質を理解しようとする深い宗教的洞察を示している。彼は聖遺物やロザリオを常に携え、戦場に向かう家臣たちにも授けて送り出すなど、信仰を日常生活と政治行動の中心に据えていた。また「莫大な金子を与えられてもキリシタンであることをやめない」と語ったとされ、信仰を政治的利害や物質的利益よりも優先する姿勢を明確に示している。こうした秀信の信仰態度は、一般的な戦国大名の行動とは異なり、信仰を日常の判断や振る舞いの中にまで持ち込もうとする特徴が見られる。
(6) 関ヶ原の戦いによる崩壊と歴史的意味
1601(慶長6)年のカルヴァーリュ書簡(史料5)は、関ヶ原の戦いが岐阜のキリスト教共同体にもたらした壊滅的な影響を伝えている。岐阜城は東軍の最初の攻撃目標となって落城し、秀信は高野山へ追放され、領地と財産をすべて没収された。当時の慣例に従い、主家に仕えていた家臣や武士たちも俸禄と領地を失い、秀信の庇護のもとで形成されつつあった美濃の信徒共同体は組織的基盤を一瞬にして喪失した。イエズス会が期待した「領国全体を信仰共同体として形成する」という構想は、政治的動乱によって突如として終焉を迎えた。秀信の信仰と統治が示していた可能性は、関ヶ原という歴史的断絶によって途絶したが、その歩みは禁教下の日本におけるキリスト教布教の一つの到達点として、歴史的に大きな意味を持っている。
- まとめ
織田秀信は、単なる一人の帰依者という枠にとどまらず、自らの領国である美濃においてキリスト教の存在を認め、その価値観を地域社会や家臣団のあり方に反映させようとした人物であった。
その取り組みは、個人的な祈りや個人の受洗にとどまるものではなかった。司祭の滞在支援、教会の建設、さらには城下での養生所設立といった具体的な施策を通じて、領内の公共的な領域にもかかわる試みとして展開された。家臣団や家族が次々と受洗し、戦場に向かう武士たちがロザリオや十字架を身につけていたことは、秀信の姿勢が周囲へ少なからぬ影響を与えていたことを示している。
また、関ヶ原の戦いによって所領を失い、高野山へ配流されるという厳しい境遇に直面しても、彼の信仰姿勢が揺らぐことはなかった。政治的立場や財産を失うことになっても自身の意志を保ち続けた記録は、彼が抱いていた思いの強さを物語っている。
岐阜城の落城と秀信の追放によって、美濃における組織的な試みは終わりを告げた。しかし、秀信のもとで試みられた取り組みや残された記録は、濃尾地域における歴史の歩みを捉え直すうえで、現在も重要な意味を持ち続けている。
織田秀信略年譜

