聖書箇所:ヨハネの福音書 11章25節
鴨下直樹牧師

聖書箇所:ヨハネの福音書 11章25節
鴨下直樹牧師

聖書箇所:ルカの福音書3章7-14節
小林剛男牧師
1.思いやりの心を持つ
2.貪欲は人を満足させられない
3.新しい生き方することを神様は願っている

突然だが、奈良商工会議所主催の「奈良まほろばソムリエ検定」(通称:奈良検定)という検定をご存知だろうか。いわゆるご当地検定である。
2013(平成25)年1月に実施された「奈良まほろばソムリエ検定」で、次のような問題が出た

(問)ルイス・フロイスの『日本史』に記載されている、松永久秀の多聞城を絶賛した書簡を差し出した宣教師は誰か。
「ア」.ドン・ジュスト 「イ」.ルイス・デ・アルメイダ
「ウ」.ミゲル・ミノエス 「エ」.ベルナール・プティジャン
多聞城は奈良市法蓮町(東大寺の北西)に築かれた松永久秀の城で、南蛮風の館や庭園を備えた壮麗な居館。正解は「イ.ルイス・デ・アルメイダ」であるが、選択肢の中に「ミゲル・ミノエス」の名前が含まれていることに驚いた。
“岐阜キリシタン小史(62)―ミゲル・ミノエスのこと―” の続きを読む聖書箇所:ルカの福音書1章8-20節
小林剛男牧師

飛騨高山に刻まれた信仰の最期
これまで岐阜のキリシタンについて書いてきたものの、飛騨地方については触れる機会がなかった。正確に言えば、書くための材料を見いだせなかったと言うべきだろう。図書館などで飛騨のキリシタンに関する資料を探したが、ほとんど見つからなかった。(実のところ、東濃地方についても状況は同じである。)
そうした中で、小西マンショを調べる過程で、思いがけず飛騨との接点を見つけることができた。前回触れたように、マンショが飛騨高山で殉教したのではないかという説がある。あくまで「そのような説もある」という程度で、伝承に近いものではある。しかし、わずかでもキリシタンと飛騨との関わりを示す手がかりを得られたことは、筆者にとって大きな喜びであった。その思いで本稿を書き始めた。
小西マンショの最期の地については、現在も飛騨高山にまつわる伝承が残されている。複数のサイトでは殉教地「音羽」を摂津国の音羽とする説が紹介されているが、高山を流れる宮川周辺にも、かつて「音羽淵」と呼ばれた場所が存在し、古くからこの地こそがマンショの最期の地であったと語り継がれてきた。確証となる史料は乏しいものの、飛騨高山殉教説は地域に根付いた伝承として位置づけられている。
本稿は飛騨高山殉教説を確証するには至らないものの、当時の歴史的状況を踏まえて組み立てた一つの仮説(歴史的想像)としてお読みいただければ幸いである。
笠松キリスト教会は、聖書信仰に根ざすプロテスタントの教会です。
1957年、今から66年前、ドイツのジャーマン・アライアンス・ミッション(GAM) から派遣された宣教師によって建て上げられ、以来、生ける神さまのみことばをこの地の皆さまにお伝えしてまいりました。
私たちは礼拝や聖書を通して、私たちを造ってくださった神さまの愛と救い主イエスさまの恵みをいただいています。
あなたにもぜひその恵みを受け取っていただきたいと願っています。
主日礼拝 毎週日曜 10:30-11:30
教会学校 毎週日曜 9:45-10:20
聖書の学びと祈り会 毎週水曜 19:30-20:30
毎週木曜 10:30-11:30
(水・木曜日ともにZoom併用)
当教会はバリアフリー対応です。
車椅子ご使用の方もぜひお越しください。駐車場が教会の隣にございます。
当教会はエホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。





禁教下の最後の司祭
小西マンショという人物をご存じだろうか。天正遣欧使節の伊東マンショとは別人である。実を言えば、私自身は小西マンショの名を知ったのはごく最近のことである。加賀乙彦氏の小説『殉教者』―殉教者とはペトロ岐部カスイのことである―を読んだ際、作中に登場する人物として初めてその存在を知った。「マンショ」とは、「温和な」「柔和な」を意味するラテン語 Mansuetus(マンスエートゥス)に由来すると考えられている。
最近、直木賞作家・川越宗一氏の小説『パシヨン』を読み始めたのだが、本作ではこの小西マンショが主人公として描かれている。川越氏の作品を手に取るのは、『大日の使徒』以来であるが、同作はフランシスコ・ザビエルを日本へ導いたヤジローを描いた歴史小説であった。『パシヨン』は『大日の使徒』に先立って書かれた作品であり、川越氏にとって初のキリシタン小説である。

聖書箇所: マルコの福音書 9章14節~29節
梅澤愛伝道師

1.邪悪さからの救いという恵み
2 .不信仰に気づく恵み
3.祈るという恵み
1581(天正9)年、織田信忠の次男として誕生した織田秀則は、兄の秀信より2歳年少であった。兄同様に、1582(天正10)年の本能寺の変により祖父・信長と父・信忠を同時に失ったとき、彼はわずか1歳であった。その後の清洲会議において3歳で織田家の家督を継いだ兄・秀信とは異なり、次男である秀則は、家督を背負う兄を支え、一族の血脈を守る補佐役としての道を歩むこととなった。
秀則の資質を物語る記録が、宣教師ルイス・フロイスの日記に残されている。フロイスは秀則を「素性を知らずに話せば、その品格からドイツの貴族と判断してしまう」と記した。この評は、彼が武将としての勇猛さだけでなく、当時の支配層に求められた洗練された教養と立ち居振る舞いを、若くして身につけていたことを示しているのではないだろうか。秀信が織田家の家督継承者として周囲から強い制約を受けていたのに対し、秀則は一族の実務を担いつつも、制約を受けることは兄ほどではなかった。

1600(慶長5)年、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、秀信は石田三成らの誘いを受け西軍に加わった。これに対し、徳川家康率いる東軍は岐阜城攻略を目指し、木曽川を渡り美濃へと侵攻した。この前哨戦となったのが、現在の岐阜県笠松町で行われた「米野の戦い」である。秀信は自ら軍を率いて米野
の堤防に陣を張り、木曽川を渡河しようとする福島正則や池田輝政らの軍勢を迎え撃った。激しい戦いが繰り広げられたが、数に勝る東軍の猛攻の前に秀信軍は敗走し、岐阜城へと退却を余儀なくされた。この敗北は岐阜城陥落の決定打となり、秀信は改易(領地没収)の憂き目に遭うこととなった。



岐阜中納言となった秀信は、祖父・信長が築いた岐阜の町をさらに発展させるべく、内政にも力を注いだ。彼は楽市楽座の精神を引き継ぎ、商人の活動を保護するとともに、城下の道筋を整えるなどの整備を行った。特に金華山の麓から長良川に至る区域の整備や、寺社への寄進、検地の実施などを通じて、領国経営の基盤を固めていった。城下には宣教師を招き入れるための居住区も設けられ、軍事拠点としての岐阜城は、信仰と文化が交差する都市へと変貌していった。
しかし、当時の豊臣政権下における秀信の立場は、極めて微妙なものであった。秀吉という巨大な勢力の陰に隠れ、織田家という過去の遺産を背負わされた彼は、常に周囲の期待と警戒の目にさらされていたであろう。そのような状況下で、彼が心の拠り所を求めたのは、力による支配が全てであった戦国大名の価値観ではなく、キリスト教の教えであった。
