主日礼拝メッセージ「バベルの塔 ー言葉の届く喜びー」2026/03/15

聖書箇所:創世記11章1-9節
鴨下直樹牧師

創世記11章1-9節 「バベルの塔 ― 言葉の届く喜び― 」

2026.03.15

 私ごとではじめて大変恐縮なのですが、私たち夫婦がドイツに住むようになったのは今から20年ほど前のことです。以前日本で短期宣教師をしていた友人のドイツ人の家を間借りすることになったこともあって、ついてすぐに彼の通っている教会に、私たちも出席することになりました。はじめの頃は本当にまったくドイツ語が理解できませんでした。少し勉強していったつもりでしたが、こんなにも分からないものかと愕然としました。けれども、そんな私たちにドイツの教会の方々は親しく語りかけてくださって、毎週日曜日になると、いろんな教会の方の家に招かれて食事を共にしました。私たちは、当時常に電子辞書を持っていて、単語を調べながらなんとか会話らしきものをするといった具合です。
 その度に、みなさんが言われたのは、「バベルの塔のせいで私たちは今お互いに会話ができないけれども、天国にいったら思う存分会話ができるんだから楽しみだね」と言われるのです。


 これは、日本とはまったく違う感覚だなと思いました。ドイツの方々は毎年6週間の休暇をとることができます。日本のように有給休暇を一日ずつ小分けに取るというのではなくて、6週間まるまる取ることもできるのです。そうすると、その期間に多くの人たちが旅行に出かけます。今は、スマホのアプリの翻訳がかなり使えるようになってきましたから最近は比較的身近になりましたが、それでも別の国の言葉を身につけるということは、大陸に住んでいる人たちは島国の私たちに比べて積極的だという印象を持っています。こういうことがあるので、言葉が通じなくてもコミュニケーションを取ろうという気持ちが、私たちよりも大きいのかもしれません。 


 私は神学生の頃から説教の学びをするために、数年前に亡くなられましたが加藤常昭先生が主催しておられた「説教塾」という学びに毎年参加しておりました。そこで加藤常昭先生は神の言葉は出来事となる」というドイツの神学者カールバルトの言葉をよく引用されていました。この「出来事」というのは、「何かが起こる」ということです。神様が語りかけられるとそこで「何かが起こる」たとえば、神が「光よあれ」と言われると、その通りになる。それはまさに、神の言葉の働きであると言うことをいつも語っておられました。 神の言葉というのは、ただのコミュニケーションにとどまらないのです。意思を伝達するだけでなくて、そこで神の出来事が、御業が起こる、そういうことなのだというのです。その意味でも、言葉が通じる、理解されると言うことはとても大切な意味を持っていたということができるわけです

 そこで、今日の11章1節の言葉に目をとめてみたいと思います。
「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」11章1節。
 面白い聖書の個所です。それまでの世界は一つの言語であったというのは、今日の世界から考えると、ちょっと想像することの困難な事柄ですけれども、創世記は、アダムとエバから世界が始まったのですから、当然と言えば当然です。アダムとエバが使っていた言葉しか知らないわけですから、その言葉を子孫も受け継いでいったはずなのです。この創世記はここで、今日には、世界に様々な言語があるけれども、それはいったいどうしてなのかということを、説明しようとしています。そして、それもまた人間がもたらした罪の結果であると語るのです。
 さきほどドイツの長期休暇の話をしましたけれども、勉強をして外国語ができる人たちはいろんな世界に飛び出していくわけですが、当然それほど外国語が得意ではない人たちもいます。英語ができれば、とりあえずどこの国にでも行けるのですけれども、誰もが英語を話せるわけではありませんから、英語ができない人は、ドイツ語の通じるオーストリアとかスイスとか、言葉が通じるドイツ寄りのベルギーとかオランダなんかに行くのです。車で二時間走ると、もうまったく言語が異なる国という感覚は、私にとっては不思議な経験でした。
 「一つの話しことば、一つの共通のことば」の世界というのは、言葉が通じる世界です。
お互いの思っていることが、相手にしっかりと聞き届けられ、受け入れられる世界です。ところが、このような素晴らしい世界にいたはずなのに、事態が変わっていきます。 この後の聖書をみると、人々は東の方へ移動してシンアルに平地を見つけてそこに住み着いた人々はれんがを焼くようになったと記されています。そして、彼らは言います。4節。
 「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
この時の権力者は創世記10章に出てきたニムロデだと考えられています。9章10節に、「彼の王国の始まりは、バベル、ウレク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった」と書かれているところからも分かります。
 権力者ニムロデはシンアルの地に頂が天まで届く塔を築き上げ始めたのです。その理由はこうです。「頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面にちらされるといけないから」。
 ニムロデは自分の名をあげたかったのです。そして、自分がどれほどの権力を持ち、どこから見ても分かるほどの巨大な塔を建て上げ、自分の偉大さを知らせるとともに、人々がそこに集まってくるようにと願ったのです。自分の名をあげる。ここには、神のことを完全に忘れた世界があります。

 後半には「地の全面にちらされるといけないから」と書かれています。今日は、せっかく子どもたちも聞いているので、子どもにもイメージできる話をしたいと思います。子どもたちの中で爆発的な人気のゲームに「マインクラフト」というのがあります。広大な世界で何をしてもいい、そういうゲームです。一応、ゴールのようなものはあるのですが、別にその世界に行かなくても楽しめるゲームです。そのゲームの魅力は、自分で木や土を掘り起したり、切ったりしながら、そのブロックを積んで家を作ったり、いろんな仕掛けをつくったりすることができます。ゲームの話で申し訳ないのですが、このゲームは最初の一日目の夜が来る前までに、自分を守る家か住処を作る必要があります。そうしないと、夜にいろんな生き物に攻撃されると身を守る術がないのです。一日目はなんとか穴を掘って、扉を作ってなんとか一日目を過ごすのですが、二日目からは少し離れたところに移動していきます。でも、問題は、自分の作った家が迷子になって分からなくなってしまうのです。この迷子対策をする方法が、一つの場所にブロックをどんどん積んでいって塔を建てます。そうすると、どこからみても、自分の家がどこにあるかを見つけられるようになるわけです。
 実は、このバベルの塔もこれと同じです。なぜ高い塔を造るかというと、広大な世界の中で自分たちが住んでいる場所が分からないと、家に戻れなくなってしまう。そうすると、人々は、バラバラになっていってしまう。それを防ぐための知恵が塔を建てるということだったのです。
 こうすることで、自分たちの生活の安全を確保し、それと同時に自分たちの力、権力を誇示できると考えたわけです。人間はそのような知恵と技術力を手に入れたのです。そうなると、人は自分の力を誇るようになります。神を必要としなくなってしまいます。そのような世界になると、神は不要となり、神の言葉は人々に届かない世界となっていってしまうのです。


 関根正雄という無教会の指導者がおりました。昔岩波の文庫本で旧約聖書を訳したことで知られている人で、旧約聖書の専門にしています。この関根正雄が創世記1-11章までの創世記時代講解という分厚い書物を記しました。関根正雄はこの本の中で、バベルの塔の出来事は、文化の持つ危険を語っているのではないかと書いています。この11章の解説のところでこう書いています。「文化それ自体は許されたものなのですが、文化には非常に自己中心的な、あるいは神に反抗する本質的な危険があるということが言われている。」
 文化というのは、悪いものではないはずなのですが、人間が自己満足を生み出すことができる世界になる危険があるというのです。そうすると、そこで満足した人々は神の方にはいかなくなって、ひそかな誇りというものを持つようになる。このひそかな誇りを持った人間は、それは本当の自分の姿ではないのに、そこで満足してしまうから、宙ぶらりんのままの人間にしてしまうのではないか。そのように関根正雄は語っているのです。 誰の目から見てもすぐに分かる大きな建物を建てる。これが自分の生きている世界であると、本当は、自分は何も変わっていないのに、大きな建物の中にいるだけで、何だか自分が偉大な人物になった気がしてしまう。人々も、その世界の中にとどまるようになり、みながそこで満足を覚えるようになる。けれども、その姿は人の本当のあるべき姿なのだろうかということに目を向けさせようとしているのです。この本が書かれたのは今から40年も前のことですけれども、恐ろしいほどに現代の世界の罪をしっかりと見抜いていると思います。
 そのような世界で、「ひそかな自分の誇り」と、関根先生は名付けられましたけれども、自己満足を見つけてしまった人間は、神の言葉が耳に入らなく、むしろそのような言葉はうるさくしか聞こえなくなってしまっているというのです。そうなると、自分で自分の聞きたい言葉しか捜さなくなるのです。そのような人間の思いが、「われわれが地の全面に散らされるといけないから」という4節の言葉の中に秘められているのです。


 神の言葉が届いていない、自分が本当に聞かなければならない大切な言葉を失ってしまう。そのような生活の中で、ひっそりと自己満足を持って生きる。それは、関根正雄先生が言うように、宙ぶらりんな生き方なのかもしれません。地に足がついていないのです。それは、すでに言葉を失った世界以外の何物でもないのです。それなのに、人々は、自分はこれほど大きな文化都市で生活しているのだと誇っている。けれども、大きな建物ばかりを見ているうちに、自分がどこにいるのか見えなくなっているのです。
 かつて神がこの天と地を創造された時、人に命じてこう言われました。1章の28節です。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ」と。ところが、人は地に満るという神が人に最初に与えた命令を忘れてしまい、塔の近くで生活する道が、我らの繁栄の道だと思い込んでしまっているのです。世界に広大な土地を残したまま、小さな世界で生活することに満足を覚える道を、さもそれが偉大なことであるかのように思い込んでしまったのです。


 そのような時に、主は何をなさったのでしょうか。5節にこう記されています。
「そのとき主は、人間の建てた町と塔を見るために降りて来られた」
 とても面白い言葉です。ここには神の強烈な皮肉が語られていると言えます。人間たちはバベルの塔と後に呼ばれるようになった塔を建てあげます。その塔は、天にも届くほどの大建造物だと誇っているのです。われわれの力は神にも及ぶと誇っている人間をしり目に、神は、さて、何やら人間たちがやったというものでも、見に行こうか」とでも言わんばかりに、わざわざ天から降りて来られたというのです。天からでは見えないほど小さなそれを、神は見るために重い腰をあげて、わざわざ見に来られた、そう書いているのです。何という神の皮肉かと思いますけれども、私たちのやれる大事業というものは、神の目からすればそれほどのものにすぎません。けれども、私たちはそういうもののために、自分の人生を注ぎこみ、自分で満足してしまって、いつのまにか、誰とも言葉の通じない世界で生きてしまうのです。

 それで、主は言われます。6節と7節です。
「主は言われた。『見よ。彼らはみな一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話し言葉が通じないようにしよう」


 こうして、この世界はお互いの言葉が通じ合わなくなってしまったのだと、創世記は私たちに語るのです。神の言葉を拒んだ人間は、こうして、ひそやかな自己満足の世界のとどまることを選びとり、結局、孤独な存在となっていったのだと、聖書は私たちに語りかけているのです。しかし、私たちの主は私たちを孤独な存在のままでいるようにはなさいません。
 今日、私たちはこの創世記に先立って、もう一か所の聖書の言葉を聞きました。イザヤ書55章6-11節です。
 主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。


 私たちの神、主は私たちと出会いたいと願っていてくださる方です。私たちと語り合いたい、言葉を交わしたいと思っておられるお方です。そして、この主の言葉は、ただ、言葉が発せられたということに終わりません。何かが起こるのです。初めに神は言葉によって世界を創造されたように、主が語られると、このイザヤ書の言葉にあるように、何かが起こる、出来事となるのです。主の言葉が、私たちの身に起こるのです。それは、私たちの思いを超えた、出来事となります。

 ドイツにいた時に、最後の半年間は教会で実習をいたしました。その間、ドイツ語で説教することを求められました。日本語でも難しいのに、という言い訳は通りません。私は自分の説教の原稿を、まず日本語で書きまして、そこから自分の日本語を拙いドイツ語に翻訳しまして、日本語とドイツ語で書いた説教の原稿を両方もって日本で宣教師をしておられたヘルガー・タイス先生のところに尋ねていきました。タイス先生はその当時、日本での30年以上に及ぶ宣教師生活を得て、ドイツに帰国したばかりの時でした。そういうこともあって、私の考え方を非常によく理解してくださいました。それで、私の日本語をそのままドイツ語にした日本語を理解しつつ、気になるところを直してくださいました。そうやってできた私のドイツ語の説教原稿を、私たちに住まいを提供してくれていたドイツの友人にも見せました。すると、彼は私のドイツ語の表現を見て、こう言うのです。「こんなドイツ語ない」と。ドイツ語の文法上はあっているけれども、ドイツ人はそういう風には言わないといって、その原稿を、ドイツ人の表現になおしてくれました。それを見て、私は不安になりまして、最後に、実習先の教会の牧師夫人に見せました。ドイツでは牧師夫人というのは神学校で学んでいるというケースは日本ほど多くありません。幸いなことに、私が実習をした教会は、日本で宣教師として働いておられたクノッペル先生が当時牧会していた教会でしたので、奥様のクラウディアさんも聖書知識豊富な方でした。ただ、日本語の方はだいぶ忘れてしまっておりました。すると、彼女は私の2回書き改められたドイツの説教原稿を見ながらこう言うのです。「もし、この教会の人々に語るなら、もっと違う表現の仕方がある」と言って、その原稿にさらに手を入れてくださいました。
 こうして3人の監修が入って完成した私のドイツ語の説教原稿は、初め三枚半であった原稿が六枚になり、私が最初に書いたドイツ語は痕跡も見当たらないくらいの美しい原稿になりました。けれども、いくら原稿のドイツ語が正しくても、それで説教ができるというわけでもないのです。正しく発音することができなくては、意味がありません。私が教会で説教をいたしますと、教会に熱心に来ている引退された牧師がおりまして、この老牧師が、私の説教を心配しながら見守ってくれたのです。その説教で、私はある一つのドイツ語の単語をうまく発声することができませんでした。それで、その単語を私が読みますと、この引退牧師は説教の間中、その単語が出てくるたびに立ち上がって、後ろを向き、みんなに聞こえるように「彼が言いたいのはこういうことだ!」とその都度声を上げるのです。そんなことが説教の間続くのです。私は説教すればするほど、何だかやりにくくなりまして、本当に情けない気持ちになってきました。説教が終わりまして、もう誰の顔も見たくないような気持ちで、教会から逃げ出したいような思いでいたのですけれども、ある老婦人が、すぐに私を呼びとめました。「ありがとう」と言われたのです。「私は今日、確かに主の御言葉を聞いた。そして悔い改めさせられた」と。
 私のような拙い発音も間違いだらけのような外国人のした説教であっても、聞く人に神の言葉として届いたというのです。私はこの時の感動を忘れることができません。
 「わたしの口から出るわたしのことばは、わたしのところに、空しく帰って来ることはない」と主が言われるのです。主の言葉は、混乱を意味するバベルの言葉ではありません。主の言葉は、出来事を引き起こすのです。この言葉が、今日、あなたの中で、何かを引き起こすのです。私たちはこの、この世の与える、ひそやかな満足によって生きているのではありません。私たちは、この主の言葉によって、生きるのです。その神の言葉こそが、私たちを生かす力なのです。   

お祈りをいたします。