聖書箇所:創世記10章1-32節
鴨下直樹牧師
創世記10章1-32 「歴史の中で働かれる神」
2026.03.08
笠松教会
創世記も今回で10章までやってきました。聖書朗読をされた司式者の方は、カタカナの名前がたくさん出てきて読みにくかったかもしれません。ここには、大洪水が終わってから、人類がノアの子どもたちであるセム・ハム・ヤフェテの代になって70 の部族・民族に増え広がっていったことが記されています。セムはイスラエルやアラブの民族、ハムはエジプトやエチオピア、ヤフェテがいわゆる白人と呼ばれる人々へと増え広がっていきました。
まず一節をお読みします。ここには、この第十章の要約が記されています。「これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。大洪水の後、彼らに息子たちが生まれた。」
ここには、神は大洪水によって世界の人々は滅ぼされたけれども、神によってもう一度世界に人々が増え広がっていったことがここに記されています。このように、子孫が広がっていくことは、神のゆるしなしには成し得ないことであって、ここに神の祝福を見ることができるのだということをこの10章は語っているのです。
私がまだ、子どもの頃のことですけれども、私は愛知県木曽川町黒田という所で育ちました。今は市町村合併のせいで一宮市になっています。もうずいぶん前のことですが、NHKの大河ドラマで山内一豊の生涯を放送したことがあります。この山内一豊が治めていたのが、黒田という城でした。今は小さな祠があるだけですけれども、大河ドラマのおかげで、その祠も綺麗になりました。この一豊の家臣に五藤と祖父江いう人がおりました。ですから、近所には五藤さんと祖父江さんという家庭がいくつもあります。木曽川の教会にもその五藤さんが来ておられまして、ある時家の家系図というのを見せてくれたことがあります。私は子どもの頃初めて家系図というものを見たものですから、非常に興奮しながら見たことを今でも忘れることができません。その時私も父に、わが家にも家系図はないのかと聞いたものです。けれども、家系図などはありませんで、代わりに父が曾お爺さん、曾々お爺さんの話を聞かせてくれました。この曾々おじいさんという人はその昔寺小屋で先生をしていたんだというくだりになりますと、当時の私はひどくがっかりしました。「何だ、自分の家は今教会だけれども、昔はお寺だったのか」などと勘違いしながら聞いたものです。けれども、そのような話は、あるところの家庭に子どもが生まれ、またその家に子どもが生まれて、そこからまた子どもが生まれてという話は、子どもの私には非常に大きな想像力を掻き立てられる話であったことは間違いありません。
家系図というのは本当に不思議なものだと思うのです。一人の人が生きている。それも、自分が知らないとこで、その人は生きていたということだけでも、想像することの難しいことです。けれども、そういった人の歩みが、神の御手の中にあるのだと思うと、何とも言えない安心を感じるのです。
神がノアの家族を、その後もずっと長い間導いてくださいました。この神の憐みの大きさがここで宣言されているのです。しかも、そんな遠くの親戚誰も分からないというような、遠くの親戚の名前、一人一人がこうしてしっかりと記録されているわけです。まだ紙もない時代です。どうやって、ここまで詳細な記録をまとめることができたのかとさえ思います。
ここに書かれている70にも及ぶ部族の名前の一つひとつを、神は見ていてくださって、それぞれの一族がこの地上で生きることをゆるされてきたのです。
神は、私たち自身が把握できていることにとどまらず、その先の人々の生活にも目を止めていてくださって、知っていてくださるのです。このように、神は私たちが知っていること、見えていることだけはなく、見えないところも支配して下さって、働いておられるのです。
これは言ってみれば最初の言葉による世界地図のようなものと言えるかもしれません。
今私たちが知っている世界地図には、国ごとに色分けされ、国境の線が引かれています。けれども、この時代はこのあたりの地域に、この人たちの子孫が住んでいましたというようなとても大雑把なものです。
この創世記10章に書かれている人々の系図は、実は「家系図」という言い方ではなくて、「民族表」だと言われています。ノアの子どものセム、ハム、ヤペテがどのような民族を築いていったかが、ここで表のようにまとめられているというわけです。たとえば、二節から五節はヤフェテの子孫のことが書かれています。その最後のところに、まとめとして五節に「これらから島々の国民が分かれ出た。それぞれの地方に、言語ごとに、その氏族にしたがって、国民となった。」と書かれています。
これは、後にでてくるハムの子孫のまとめである20節でも、31節にあるセムの子孫のところでも同じように書かれています。この部分は、それぞれセム、ハム、ヤフェテの子孫のまとめの文章ですが、ここでは四つの視点、つまり、地域、言語、氏族、国家という視点です。
特に興味深いのは国語がそれぞれ違うということが書かれている点です。この後の部分に何が書いているかを分かっている人はピンとくるかもしれません。この次の11章でバベルの塔のことが書かれています。ここでは、当時一つの話し言葉、一つの共通の言葉であったのに、言葉が通じなくなって混乱したということが書かれているわけです。ですから、その出来事の前のこの10章に、すでにそれぞれの国や国語があったというとおかしいのではないか?と考える人があるかもしれません。これはどういうことかといいますと、この10章と11章は時間的な流れで書かれているのではないということです。この10章の民族表は、ノアからどのようにしてそれぞれの氏族が増え広がっていったかを説明しているので、このバベルの塔の出来事以降の話もここにすべてまとめられて記されていることになるわけです。
今日の聖書箇所で特に力を入れて書かれているのは、ハムの子孫の中から登場する「ニムロデ」という人物です。このニムロデは8 節にこう書かれています。「ニムロデは地上で最初の勇士となった」と書かれています。以前の第二版をお使いの方は「ニムロデは最初の権力者となった」なっていました。カトリックのフランシスコ会訳では「征服者」とも訳されています。これはどういう意味かというと、この地上の最初の「王」と言ってもいいと思います。
この創世記はすでに五章に一度、系図が出ております。そこでも「エノク」という人物が神と共に歩んだということが記されておりまして、これまではこの「エノク」だけが言って見れば特別扱いされていたわけですけれども、この10章では、この「ニムロデ」が特別扱いされていることになります。何が特別かといいますと、エノクのような信仰の人として評価されているわけではありません。このニムロデは政治的に評価されているわけです。
それが、この後につづく9節で「彼は主の前に、力ある狩人であった。それゆえ、『主の前に力ある狩人ニムロデのように』と言われるようになった」と書かれています、このように、このニムロデの背後には主の働きがあることが記されているのです。
けれども、このニムロデについて続いて見てみますと、10節ではバベルという王国の支配者であったことが書かれています。これは、続く11章に出てくるバベルの塔を作ったのは、このニムロデということになるわけです。ですから、ニムロデが良い人物であるかのように書かれていることに、少し違和感を覚える方があるかもしれません。
「彼は主の前に、力ある狩人であった」とはどういう意味なのでしょうか。以前の翻訳ですと「主のおかげで」と訳されていまして、余計にニムロデが良い印象であるかのように読まれてきました。けれども、この2017になりまして、他の聖書の翻訳にならって「主の前に」としました。この「主の前に」と言う言葉は、聖書の中に何度もでてきておりますけれども、たとえば、「主の前に悪を行った」という場合も同じことばです。そうすると、この言葉は特別に良い意味というわけではないことが分かります。この「主の前に」というのは、積極的な意味でなければ、批判的な意味でもない、中立な言葉として書かれているのです。
少し参考になればと思ってお話しするのですが、以前の第二版の時の解説には、「主のおかげで」とした意味についてこう書かれていました。「例えニムロデが主に逆らい、反逆していたとしても、それでも王として立てられているのは、そこに主の摂理があり、あわれみがあり、めぐみがあるからだ」とこのように説明しています。神のゆるしなしに、この世界にはどのような王も立ちえないのだというメッセージをここに読み取ろうと、第二版の時はしていたようです。それは、どのような支配者であろうと、自分の力で勝ち取ったというようなことではないのだという、聖書のメッセージであるということを表そうとしていたわけです。良い意味でも、悪い意味でもないけれども、いずれにしてもその背後には神のお働きがあるのだということです。
この「ニムロデ」というのは「われわれは反逆しよう」という意味の名前です。実際に、その名が示すとおり、ニムロデは神に逆らったのでした。けれども、神の逆らう王でさえ、神のゆるしなしに、王であることはできないのです。
というのは、神がノアの大洪水の出来事を通してこの世界を滅ぼされた時に、このような悲しい歴史を繰り返すことがないようにと、神がご自分に誓われました。だから、神に敵対し、自分の権力を誇示しようとするニムロデに対して神は寛容であられるのです。そして、同時に、この世界に神は大きな忍耐を示して、人々が悔い改めるのを待っていてくださるのです。
この神への叛逆の姿は、ニムロデにとどまりません、この世界の歴史は、常に神に逆らい続けて来た歴史だったと言えると思います。今の世界もそうです。ある国は核兵器を持とうとします。そして、別の国は核兵器を持たせないようにします。そうしてある時、急に武力で制圧する。そうするとまた報復攻撃が始まります。こうして、この世界の人々は力によって自らの権力を示そうとするのです。こうして、世界中で今のなお戦争が起こり続け、争い続けています。そして、神はそれを忍耐して見逃しておられるのです。
歴史の教科書であれば、そこには戦争が起こり、その国の王や指導者たちの名前を書き記していきます。けれども、実際にはそこには名前も記されることのない、無数の人々がいて、多くの人々がその犠牲ともなるのです。けれども、この創世記10章は、小さな一人一人の名前を書き記していきます。神は、その一人一人に目をとめておられるのです。
そして、神はこの世界を、今日に至るまで忍耐の中で見守り続けておられるのです。神が我慢しているのであれば、それで良い。私たちは好きなことをして生きても良いということではないのです。神の忍耐は、神が人間に絶望しておられて、あきらめておられるからではなく、その反対に、この世界の人々に、いや私たちが、この神の願いに気がついて、自ら悔い改めることができることを信じてくださっているからなのです。神が私たちを信じてくださっていることの、あらわれが、神の忍耐の中に示されているのです。
今日の説教のためにもう一箇所聖書を開きたいと思っています。それは、使徒の働きの17章30節です。
「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます」そして、この言葉につづいてこう記されています。31節です 「なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」
この言葉はパウロがアレオパゴスでした説教の結びの言葉です。ここで、このパウロの説教について、また長い説明をしようとは思いませんが、ここでパウロが語っていることは、神の忍耐は、ただ人々が悔い改めるためであるということに尽きます。そして、もう一度神がこの世界を裁かれる時が来ることが、キリストが人々の代わりに裁かれたことによって明らかとなったではないかと、人々に語っているのです。
今、私たちはレント(受難節)の季節を迎えています。主イエスの十字架の苦しみを心に刻む時です。パウロの説教は、こう伝えています。「神はノアよりも正しい、義なるお方であった主イエスを、十字架でお裁きになるのだとしたら、どうして、私たちが裁かれないことがあるだろうか」このことを、パウロはここで問おうとしているのです。そして、同時に、イエス・キリストの十字架の死と復活は、神がこの裁きを主イエス・キリストに対してなさったので、私たちがこのお方を信じる時に、私たちはこの神の救いにあずかることができることを語っているのです。
私たちの神は、どこまでも忍耐深いお方です。そして、同時に愛に満ちておられるお方です。そして、この世界を支配しておられるのも神です。だとしたら、私たちはこのお方によってしか救いを得ることはできませんし、この方によってしか、慰めも平安も得ることはできないのです。なぜなら、この神は歴史を支配されるお方ですから、私たちの将来の確かさもまた、この神にかかっているからです。
私事で申し訳ないのですけれども、私の父の名前は、みなさんもご存知の方が多いのですが「彌」(わたる)という名前です。弓編の少し難しい漢字を使います。この漢字は古い漢字ですけれども、「わたる」と読むのは、「端から端まで」という意味から来ているのだそうです。それで、私の祖先の鴨下家はこの漢字を大切にしまして、先祖代々この漢字を子どもの名前につけていたのだそうです。ところが、父は信仰を持った時に、この名前を使うのを止めるという決断をしました。聖書から名前をつけようと考えたのです。というのは、歴史の端から端まで、あるいは、世界の端から端までを支配しておられるのは神だということを知ったからです。ここに父の信仰があったのです。こうしてここから新しい歴史がはじまったのです。私は、そういう信仰の表し方もあるのかと、子どものころに父からそれを聞いて知りました。
このように、私たちは神に信頼するという姿勢はありとあらゆるところで表すことがで
きます。一日の初めと終わりに神に祈りをささげると言うこともそうでしょう。あるいは、
このように日曜に礼拝に集うことを通して神に信頼していることを表すこともできます。
私たちはあらゆる仕方で、私たちを救ってくださった神に、自分の信仰の応答をしていくことができるのです。
私たちの主は歴史の中で働き続けておられるお方です。ニムロデの時も、アブラハムの時も、主イエス・キリストの歩まれた時代も、そして、世界の慌ただしいこの時代も、主は変わることなく私たちの世界を忍耐を持って見つめておられるお方です。私たち一人ひとりの歩みや、生活に寄り添ってくださるお方です。この主の前に、私たちも主を信頼して歩む生活を築き上げていきたいと願います。
お祈りをいたします。
