岐阜キリシタン小史(67)美濃の禅宗勢力と初期キリシタン― 山田庄左衛門を中心に ―

 16世紀半ばの美濃では、禅宗が地域の宗教生活を大きく形づくっていた。妙心寺派や南禅寺派の寺院は、守護土岐氏の保護を受けて発展し、町の成り立ちとともにその存在感を増していった。寺院は学問や儀礼、葬送、教育といった日常に深く関わる営みを担い、寺檀関係を通じて地域社会の秩序を支える場でもあった。禅宗は単なる信仰の場ではなく、人々の暮らしを包み込むような基盤として働いていた。
 美濃で禅宗が重んじられた背景には、土岐氏の存在がある。土岐氏は室町幕府の有力守護として足利将軍家と縁戚関係を結び、将軍家が保護した京都五山とのつながりが深かった。五山は将軍権力の文化的な象徴でもあり、臨済宗は武家社会の精神的な支柱とみなされていた。こうした事情から、美濃でも臨済宗寺院が自然と重んじられる土壌が育まれ、妙心寺派や南禅寺派の寺院が地域に根を張っていった。

崇福寺(岐阜市) 臨済宗妙心寺派の古刹。信長が保護した寺として知られている。

 そのような宗教環境の中に、キリスト教が姿を見せるのは1560年代である。外からもたらされたこの新しい信仰は、既存の秩序に静かな揺らぎをもたらした。その受容の初期に名が挙がる人物のひとりが、山田庄左衛門である。
 庄左衛門は武士としての務めを果たしながら、若い頃から宗教への関心が強かった。比叡山で天台宗を学び、その後も浄土宗、真言宗、神道、臨済宗へと歩みを進めている。これは単なる宗教遍歴ではなく、彼なりの仕方で「何が真理なのか」を探ろうとした結果であったのだろう。とくに臨済宗は美濃の武家社会に深く浸透していたため、彼がその思想に触れたことは自然な流れであったと思われる。また、こうした経験の積み重ねは、庄左衛門を地域の知識人として際立たせていたと考えられる。
 その探究心の延長として、庄左衛門は、主家・斎藤義龍の命を受けて上洛した折、都で広まりつつあったキリスト教の噂を耳にし、その真偽を確かめようと南蛮寺を訪ねた。そこで盲目のイルマン、ロレンソ了斎と出会う。この出会いによって庄左衛門は、キリスト教を単なる外来宗教としてではなく、自らが長く求めてきた真理の延長にある教えとして受けとめ、ついに洗礼を受けた。受洗後、彼は美濃にこの教えを伝えるため、ロレンソを招こうとしたことが記録に残っている。しかし当時は戦国の騒乱のただ中にあり、この時点でのロレンソ来岐は実現しなかった。
 庄左衛門の改宗は、美濃の禅宗勢力にとって小さくない衝撃であった。禅寺は地域の儀礼や葬送、教育を担い、生活の根幹に関わる領域を広く支えていたため、既存の儀礼を必要としないキリスト教の受容は、寺院の権威を揺るがしかねない問題だった。フロイスの記録には、禅僧が庄左衛門に強く反発したことが記されており、彼が路上で襲われ命を落としたという伝承もある。
 庄左衛門の受洗から9年後の1569(永禄12)年、ロレンソ了斎は宣教師ルイス・フロイス、フランシスコ・カブラルを伴って岐阜を訪れ、信長との歴史的対面を果たした。庄左衛門が招こうとしたロレンソの来岐は、彼の死後に実現し、美濃のキリスト教受容を大きく前進させることになった。

南蛮屏風に描かれたロレンソ了斎