拙稿『岐阜キリシタン小史(55)―織田信忠と岐阜のキリスト教―』では、信忠時代の岐阜におけるキリスト教の動向を取り上げ、その中でイエズス会の「日本年報」にも触れた。
今回は、その「日本年報」そのものに焦点を当て、あらためてその性格と史料的価値について考えてみたい。
イエズス会による日本宣教の実態を知るうえで、フロイスの『日本史』は欠くことのできない基本史料である。しかし、同時代に作成された 「日本年報」や宣教師書簡もまた、これに劣らぬ重要性をもつ一次史料である。
「日本年報」は、各地の宣教師が毎年ローマ本部へ送った公式報告であり、布教状況・政治情勢・迫害・戦争・信徒数などを、出来事から大きな時間差なく記録した一次的な“現場報告”である。叙述的・文学的性格を帯びるフロイス『日本史』とは異なり、速報性と事実性を重視した点に、この史料の特徴がある。
一方、フロイス『日本史』は、イエズス会の命により体系的に編纂された大部の歴史叙述であり、日本文化・人物像の描写に優れ、信長・秀吉期の政治史研究において不可欠の史料として利用されてきた。ただし、その叙述には伝聞や主観的判断が混じる部分もあり、物語的構成力と引き換えに一定の脚色が入りうる点が指摘されている。
岐阜キリシタン小史(67)美濃の禅宗勢力と初期キリシタン― 山田庄左衛門を中心に ―
16世紀半ばの美濃では、禅宗が地域の宗教生活を大きく形づくっていた。妙心寺派や南禅寺派の寺院は、守護土岐氏の保護を受けて発展し、町の成り立ちとともにその存在感を増していった。寺院は学問や儀礼、葬送、教育といった日常に深く関わる営みを担い、寺檀関係を通じて地域社会の秩序を支える場でもあった。禅宗は単なる信仰の場ではなく、人々の暮らしを包み込むような基盤として働いていた。
美濃で禅宗が重んじられた背景には、土岐氏の存在がある。土岐氏は室町幕府の有力守護として足利将軍家と縁戚関係を結び、将軍家が保護した京都五山とのつながりが深かった。五山は将軍権力の文化的な象徴でもあり、臨済宗は武家社会の精神的な支柱とみなされていた。こうした事情から、美濃でも臨済宗寺院が自然と重んじられる土壌が育まれ、妙心寺派や南禅寺派の寺院が地域に根を張っていった。

岐阜キリシタン小史(66)『あかしする信仰』(カトリック名古屋教区)のこと
前回の小史(65)では、カトリック名古屋教区が作成した『美濃・尾張キリシタン巡礼マップ』(カトリック名古屋教区宣教司牧評議会殉教者顕彰委員会編、2022年2月)をご紹介した。このマップは、名古屋教区のホームページ内にある「資料室」から無料でダウンロードできる。地図としての使いやすさに加えて、各史跡の背景を簡潔にまとめた解説が添えられている。初めてキリシタン史跡を訪ねる人でも、どんな場所なのか、どのような歴史があったのかがひと目で分かるよう工夫されており、手元に置いておくと役立つ資料ではないだろうか。
今回は、そのマップの基礎資料となった書籍『東海・北陸のキリシタン史跡巡礼 あかしする信仰』を取り上げたい。発行元はマップと同じくカトリック名古屋教区宣教司牧評議会で、刊行は2012年。教区内の信徒や関係者向けに作られた書籍のようで、全256ページのフルカラー版である。写真や図版も多く、読み物としても資料としても充実している。現在の入手方法ははっきりしないが、私は古書店の通販サイトで偶然見つけることができた。関心がある方で入手できない場合でも、同じく名古屋教区のホームページ内にある「資料室」から全ページを閲覧することができるため、内容を知るうえで困ることはないだろう。
岐阜キリシタン小史(65)江南・前野家屋敷跡とキリシタン一族の痕跡
愛知県江南市前野町に「前野家屋敷跡」がある。ここは、戦国時代に木曽川の川並衆として活動した前野将右衛門長康一族の屋敷跡である。
カトリック名古屋教区の『美濃・尾張キリシタン巡礼マップ』 (カトリック名古屋教区宣教司牧評議会殉教者顕彰委員会編 2022年2月)には、次のように記されている。
(『美濃・尾張キリシタン巡礼マップ』は、カトリック名古屋教区のHP内の「資料室」から無料ダウンロードできる)
豊臣秀吉に仕えた前野将右衛門一族の屋敷跡。前野将右衛門はキリシタンと伝えられ、遠藤周作が彼をモデルに小説を書いたことがある。また、戦国時代の一族の物語『武功夜話』を筆記した吉田(前野)千代もキリシタンであり、1667(寛文7)年10月12日、夫と姉妹2人と共に名古屋の千本松原(現在の栄国寺付近)で処刑された。

岐阜キリシタン小史(64)可児塩・犬山五郎丸のキリシタン摘発と濃尾崩れ
岐阜県可児市帷子から愛知県犬山市五郎丸へと続く国道41号線沿いは、江戸期に多くの潜伏キリシタンが暮らした地域である。木曽川左岸の段丘と浅い谷が重なり合う地形に広がり、段丘が幾層にも折れ重なり、その間を可児川や小河川が浅い谷を刻むことで、谷ごとに生活圏が分かれ、江戸期には小規模な集落が段丘の縁や谷底に点在していた。深い山間部ではないものの、視界が折れ曲がるような起伏が続き、外部からの目が届きにくい土地柄である。


岐阜キリシタン小史(63) 等安と如安―高山右近をめぐる二人のキリシタン―
村山等安と内藤如安は、戦国末期から安土桃山、そして江戸初期へと至る激動の時代に、それぞれ異なる道を歩みながらも、高山右近と深く関わったキリシタン武将である。彼らが生きた時代、キリスト教を信じるという選択は、単なる宗教的関心ではなく、政治的立場や家の存続にまで影響を及ぼす重大な決断であった。信仰を選ぶことは、しばしば人生の方向を決める行為であり、家族や一族の運命にも関わることでもある。

村山等安の生涯と長崎キリシタン社会
“岐阜キリシタン小史(63) 等安と如安―高山右近をめぐる二人のキリシタン―” の続きを読む岐阜キリシタン小史(62)―ミゲル・ミノエスのこと―
突然だが、奈良商工会議所主催の「奈良まほろばソムリエ検定」(通称:奈良検定)という検定をご存知だろうか。いわゆるご当地検定である。
2013(平成25)年1月に実施された「奈良まほろばソムリエ検定」で、次のような問題が出た

(問)ルイス・フロイスの『日本史』に記載されている、松永久秀の多聞城を絶賛した書簡を差し出した宣教師は誰か。
「ア」.ドン・ジュスト 「イ」.ルイス・デ・アルメイダ
「ウ」.ミゲル・ミノエス 「エ」.ベルナール・プティジャン
多聞城は奈良市法蓮町(東大寺の北西)に築かれた松永久秀の城で、南蛮風の館や庭園を備えた壮麗な居館。正解は「イ.ルイス・デ・アルメイダ」であるが、選択肢の中に「ミゲル・ミノエス」の名前が含まれていることに驚いた。
“岐阜キリシタン小史(62)―ミゲル・ミノエスのこと―” の続きを読む岐阜キリシタン小史(61)―小西マンショのこと②―
飛騨高山に刻まれた信仰の最期
これまで岐阜のキリシタンについて書いてきたものの、飛騨地方については触れる機会がなかった。正確に言えば、書くための材料を見いだせなかったと言うべきだろう。図書館などで飛騨のキリシタンに関する資料を探したが、ほとんど見つからなかった。(実のところ、東濃地方についても状況は同じである。)
そうした中で、小西マンショを調べる過程で、思いがけず飛騨との接点を見つけることができた。前回触れたように、マンショが飛騨高山で殉教したのではないかという説がある。あくまで「そのような説もある」という程度で、伝承に近いものではある。しかし、わずかでもキリシタンと飛騨との関わりを示す手がかりを得られたことは、筆者にとって大きな喜びであった。その思いで本稿を書き始めた。
小西マンショの最期の地については、現在も飛騨高山にまつわる伝承が残されている。複数のサイトでは殉教地「音羽」を摂津国の音羽とする説が紹介されているが、高山を流れる宮川周辺にも、かつて「音羽淵」と呼ばれた場所が存在し、古くからこの地こそがマンショの最期の地であったと語り継がれてきた。確証となる史料は乏しいものの、飛騨高山殉教説は地域に根付いた伝承として位置づけられている。
本稿は飛騨高山殉教説を確証するには至らないものの、当時の歴史的状況を踏まえて組み立てた一つの仮説(歴史的想像)としてお読みいただければ幸いである。
岐阜キリシタン小史(60)―小西マンショのこと①―
禁教下の最後の司祭
小西マンショという人物をご存じだろうか。天正遣欧使節の伊東マンショとは別人である。実を言えば、私自身は小西マンショの名を知ったのはごく最近のことである。加賀乙彦氏の小説『殉教者』―殉教者とはペトロ岐部カスイのことである―を読んだ際、作中に登場する人物として初めてその存在を知った。「マンショ」とは、「温和な」「柔和な」を意味するラテン語 Mansuetus(マンスエートゥス)に由来すると考えられている。
最近、直木賞作家・川越宗一氏の小説『パシヨン』を読み始めたのだが、本作ではこの小西マンショが主人公として描かれている。川越氏の作品を手に取るのは、『大日の使徒』以来であるが、同作はフランシスコ・ザビエルを日本へ導いたヤジローを描いた歴史小説であった。『パシヨン』は『大日の使徒』に先立って書かれた作品であり、川越氏にとって初のキリシタン小説である。

(熊本県宇土市・宇土城本丸跡)
岐阜キリシタン小史(59)―織田兄弟・秀信と秀則 分かれた運命―
1581(天正9)年、織田信忠の次男として誕生した織田秀則は、兄の秀信より2歳年少であった。兄同様に、1582(天正10)年の本能寺の変により祖父・信長と父・信忠を同時に失ったとき、彼はわずか1歳であった。その後の清洲会議において3歳で織田家の家督を継いだ兄・秀信とは異なり、次男である秀則は、家督を背負う兄を支え、一族の血脈を守る補佐役としての道を歩むこととなった。
秀則の資質を物語る記録が、宣教師ルイス・フロイスの日記に残されている。フロイスは秀則を「素性を知らずに話せば、その品格からドイツの貴族と判断してしまう」と記した。この評は、彼が武将としての勇猛さだけでなく、当時の支配層に求められた洗練された教養と立ち居振る舞いを、若くして身につけていたことを示しているのではないだろうか。秀信が織田家の家督継承者として周囲から強い制約を受けていたのに対し、秀則は一族の実務を担いつつも、制約を受けることは兄ほどではなかった。

(作庭は後の小堀遠州の弟子による)
