岐阜キリシタン小史(69) 再び、コンスタンチノのこと①

 拙稿「岐阜キリシタン小史(17)」では、尾張キリシタン黎明期の人物コンスタンチノを取り上げた。その際は、尾張キリシタン研究の二人の泰斗の著作、森德一郎氏の『尾濃切支丹年表』と横山住雄氏の『尾張と美濃のキリシタン』を参照し、両氏の記述を整理するかたちで紹介した。
 その後、イエズス会の「日本年報」や宣教師書簡、およびフロイス『日本史』を読む機会が増え、これら一次史料に描かれたコンスタンチノ像を、あらためて自分自身の視点で整理してみたいという思いが強くなった。
 なお、洗礼名コンスタンチノ(Constantino)はラテン語の Constantinus に由来し、もともとの意味は「変わらない」「揺るがない」といった安定した性質を表している。そのため、この名は「揺るがぬ人」「忠実な人」「堅固な人」といったイメージを持つ名前として受け継がれてきた。キリスト教の世界では、信仰にしっかり立つ姿勢を象徴する名として親しまれている。
 今回から二回にわたり、宣教師史料に記されたコンスタンチノの姿を紹介していきたい。まず今回は、イエズス会の「日本年報」と宣教師書簡に現れる彼の動向を取り上げる。参照した資料は、同朋舎出版・松田毅一監訳の『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(全十五巻)であり、まずはこの報告集に記されたコンスタンチノの記事を抽出するところから始めたい。引用した文は、同資料に記された記述をそのまま採録する。( )内は引用文に付された補足、[ ]内は本稿筆者による補足である。また、引用文ではコンスタンチノを「コンスタンチイノ」と表記していたため、原文どおりに採録した。

1. 1573年4月20日付、都発信、ルイス・フロイス師の、フランシスコ・カブラル師宛書簡
 この四旬節の終わりに、或る出来事によって我らの主(なるデウス)における格別なる喜びが、また都のキリシタン一同に少なからざる感化がもたらされた。すなわち、聖週の初め、尾張国から4名のキリシタンが祝祭を迎えるため当地[都]に訪れたことであり、街道には敵が満ちていたため、5、6日を費やした道中で数多の数の危険に見舞わされた。彼らが経た艱難と苦しみを語れば長くなるであろう。彼らはこの教会に到着するとすぐさま祭壇前の地面に平伏して盛んに歓喜の涙を流し、我らの主が彼らを守り、聖週の儀式に参列させるべく寿命を延ばし給うたことを感謝した。善良なるコンスタンチイノが案内役として来たが、かの尾張において彼らのうち二人に洗礼を授けたのは彼であり、両人は彼の説教によってキリシタンになったのである。ほかにも彼が洗礼を授けた人々がいる。その一人は霊魂と不滅と来世を否定する禅宗の信徒で、もう一人は一向宗の信徒であった。件のキリシタンらが彼の行状について語るところによれば、それは真に驚嘆すべきものであり、あたかも初期の教会のキリスト教徒のように素朴かつ純真にして信仰心に篤く、貪欲なところがまったくない。コンスタンチ亻ノは自宅に一種の祈祷所を設けており、そこにかの地花正(Fanamasa)の全キリシタンが集まる。彼は同所でキリシタンを励まし、日曜日ごとに彼らのため十戒について説いた書物を読む。また、異教徒に説教し、死者を葬り、子どもたちに洗礼を授ける。絶えず仏僧と議論し、彼の謙遜と信仰の熱意が仏僧をことごとく退けるので、彼ら(キリシタン)は尾張ではコンスタンチイノの弟子と呼ばれている。
2. 1577年9月19日付、臼杵[大分県]発信、ルイス・フロイス師書簡
 都より遠く離れた尾張国にコンスタンチイノと称する人がいる。彼は少なからず悪魔の反対を受けながら絶えず業を行っており、既に年齢は60歳を過ぎ、財産を持たないが、徳に恵まれている。欺瞞なきイスラエル人のようである。また、粗末な自宅に祭壇があり、同地において彼がキリシタンにした人々がそこに集まる。
彼は人々に説教して洗礼を授け、私が信じているところでは言葉よりも行状と模範によって人々を励ましている。多数の仏僧が彼と議論するため訪れるが、デウスの御慈悲により、たやすく彼らを論破する。彼は同国において、男女と子どもを合わせて(注1)約300名をキリシタンに変え、常に聖週になると我らは都で彼を待ち受けるのであり、彼は神への奉仕を見せるため、改宗したキリシタンのうち10ないし12名を連れてくる。(尾張国)は遠くにあり、希望者が全員来ることは不可能であるため、毎年、新たに帰依した人を数名伴い、あたかも25歳の人のような深い歓喜と熱意をもって4、50里の道を彼らと一緒に歩いて来る。かの地のキリシタン一同が彼に寄せる愛情は到底語り尽くせない。年に2、3 度、すなわち、復活祭と降誕祭、聖母昇天の祝日に訪れ、告白して聖体を授かり、キリシタンらに分与するコンタツや聖宝、聖像、鉛で作った十字架を持ち帰る。都に滞在する10ないし12日間は、かの地のキリシタンに伝えるため、絶えず日本語で書かれた霊的な事柄を書き写すことに没頭する。
3. 1578年4月8日付、オルガンティーノ師の書簡
 当地方のキリシタン宗団の諸事はよく進展し、我らは本年2000名をキリシタンにしたが、すでにキリシタンとなった者は大いに利益を得ている。コンスタンチイノや他のキリシタンらが頻りに請うたので私は今尾張国に向かう道中にある。私はかの国のキリシタンが利益をうることを主(なるデウス)において期待しており、もし美濃の国で説教する機会があれば、我らは必ずや主の御名において網を投ずるであろう。
4. 1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1581年度日本年報
 美濃国のキリシタンたちが告白し、心慰められた後、司祭[ルイス・フロイス]は美濃国と境を接する尾張国にいるキリシタンたちを訪ねた。同国に我らは200ないしそれ以上の数のキリシタンを擁しているであろう。彼らはほとんど皆、コンスタンチイノと称する一キリシタンを介して改宗し洗礼を受けた人たちである。このキリシタンは我らの主が当国においても(他国に)劣らぬ成果を収めるため起こせ給うた人であり、教会を維持し絶えず異教徒にデウスの教えを聴きに来るよう説き、また自らの高き徳と大いなる模範とによってかの地の少数のキリシタンに感化を与え、その信仰を強めている。したがって、彼らは多数の異教徒に囲まれ、彼らを司牧する司祭を持たぬまま生活しているにもかかわらず、かくも高き徳と信用を積んでいるので、司祭たちと共に暮らす都地方のキリシタンたちにも劣らない。
5. 1589年2月24日付、日本副管区長ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1588年度日本年報
 数日前、都にいた時に私は尾張の国からコンチタンチイノを呼ばせた。彼は聖土曜日にここへ来て、かの地のキリシタン全員たちへ花正の監督権を有する或る異教徒が行った迫害についての情報を私に与えた。この異教徒はそこに彼らが教会としてもっていた一軒の家を冒瀆し、その祭壇をこなごなに砕き、その場におびただしい数の偶像を置いた。しかしこの善良な老人で聖なる勇士コンチタンチイノはそれらの偶像を極秘のうちに除去し焼き捨てに行った。この異教徒もまたこれに応じてコンチタンチイノのから祈祷用のコンタツ[現在のカトリックでいうロザリオ]を取り上げようと欲したが、彼は、まずわが首を斬れ、しかるのちコンタツを取り上げればよろしかろう、とてどうしてもこれを手渡そうとしなかった。しかしこの異教徒にそのようなことを実行する勇気はなく、彼のことは不問に付した。彼は私に言った。「キリシタンたちは皆、決起しています。たとえ多くの労苦を嘗めてはいても、わが主の恩寵により彼らのうちの誰一人として信仰を堕落させてはいません」と。記述のコンチタンチイノは常と変わらず彼らを訪問し、彼らにデウスのことについていくつかの訓話を行うことに多大の配慮を払っている。かの尾張のキリシタンたちは私が彼らにしたためた2通の書状に深く心を慰められた。私はコンスタンチイノに仲に入ってもらい、ふたたび彼らに書状をしたため、私が秘密のうちにキリシタンに逢い、彼らを慰めるために都にきたことを報告した。
6. 1592年10月1日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591、92年度、日本年報
 尾張国ではコンチタンチイノという古くからのキリシタンが同じように行動した[他のキリシタンたちに講和をしに行ったりキリシタンの教理を教えたりして、キリシタンたちを助けたのみならず、教理(の学習)で毎年多くの人々をキリシタンにしている。
7. 1592年10月1日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591、92年度、日本年報
 この度殿(豊臣秀次)がこの老人[(注2)庄林コスメ]への増俸を考慮していた時、デウスは花正と呼ばれる地を彼に授けるよう(主君の)心に働きかけ給うた。その地はコンスタンチイノが他のキリシタンたちともに住んでいるところであった。このようにして(尾張のキリシタンたちは)異教徒の耐え難い軛から解放され、彼ら一同にとっては主君というよりは、慈父とも称すべき、非常に有徳の領主に委ねられることになった。これによって、この貧しいキリシタンたちは、信じ難いほどの喜びと慰めを味わい、デウスに感謝を捧げ、直ちに偶像を焼き払い、教会を再建した。
8. 1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度、[日本]年報
 尾張の国のキリシタンたちの古くからの父親(の代り)をしている老人コンスタンチイノが教理を教えた後、彼らに洗礼を授けた。
9. 1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度、[日本]年報
 我ら[フロイスら]はそこから花正(はなまさ)へ行った。そこには大勢の古くからのキリシタンがおり、32年以前からコンスタンチイノという善良な老人によって教えを受け、洗礼を授けられている。

 以上のことから、コンスタンチノについて次のようにまとめられる。
① 人物の基本像
 コンスタンチノは尾張国に住む古くからのキリシタンであり、少なくとも1560(永禄3)年頃から1596(文禄5)年に至るまで、30年以上にわたり信徒指導に従事した人物である。1577(天正5)年の記録ではすでに60歳を過ぎた老人で、財産を持たず質素な生活を送っていたが、徳に恵まれ、欺瞞のない「イスラエル人」のようだとイエズス会士から称賛されるほど高潔な人物であった。
② 尾張キリシタンの中心的指導者
 コンスタンチノは尾張国のキリシタン共同体の中心的指導者であり、1577(天正5)年には男女・子どもを合わせて(注1)約300名をキリシタンに導いたと記録される。1582年(天正10)年の「日本年報」では、尾張のキリシタンのほとんどが彼を介して改宗し洗礼を受けたと述べられている。さらに1596年(文禄5)年でも「父親の代り」と呼ばれ、教理教育と洗礼を続けていたことが記されており、長期にわたり司祭不在の地域で司牧的役割を果たした在俗指導者であった。
③ 自宅を「教会」として機能させた人物
 1573(天正元)年のフロイス書簡によれば、コンスタンチノは自宅に祭壇を設け、一種の祈祷所として機能させていた。花正(Fanamasa)のキリシタンたちはそこに集まり、祈りを捧げ、日曜日ごとに十戒の書物を読み、教理を学んだ。彼は異教徒への説教、死者の埋葬、子どもへの洗礼など、司祭が不在の尾張地域において教会的務めを一身に担い、共同体の信仰生活を支えた。
④ 宣教者としての能力と徳
 コンスタンチノは禅宗や一向宗の信徒を含む異教徒を改宗させるほどの宣教能力を持ち、1577(天正5年)のフロイス書簡では、多数の仏僧が議論を挑んでも、彼の謙遜と信仰の熱意によって容易に論破されたと記される。彼の行状は「初期教会のキリスト教徒のように素朴で純真、信仰心に篤く、貪欲さがまったくない」と評され、模範的な生活態度によって人々を感化した。
⑤ 都との往来とイエズス会士との協働
 コンスタンチノは聖週・復活祭・降誕祭・聖母昇天などの大祝祭のたびに、毎年10〜12名の新改宗者を伴って都(京都)へ赴いた。1577(天正5)年のフロイス書簡では、40〜50里(約160〜200km)の道のりを歩いて訪れるほどの熱意があったとされる。都滞在中は日本語で書かれた霊的文書を絶えず書き写し、尾張の信徒に持ち帰った。また、1589(天正17)年にはイエズス会士からの書状を尾張のキリシタンへ届ける仲介者としても働き、共同体と司祭の連絡役を務めた。
⑥ 迫害への抵抗と信仰の勇気
 1589(天正17)年の「日本年報」では、花正の監督権を持つ異教徒が教会として用いられていた家を冒瀆し、祭壇を破壊した際、コンスタンチノは偶像を密かに除去し焼却したとされる。また、異教徒が彼のコンタツ(ロザリオ)を奪おうとした際には、「まずわが首を斬れ」と言い、信仰の象徴を渡すことを拒んだ。迫害下でも彼は信徒を訪問し、慰め、教え続け、共同体の信仰を守った。
⑦ 尾張キリシタン共同体の精神的支柱
 コンスタンチノは尾張のキリシタンから深い愛情と尊敬を寄せられ、「父親の代り」と呼ばれた精神的支柱であった。1582(天正10年)の「日本年報」では、司祭不在の地域でありながら都のキリシタンに劣らぬ信仰を保ったのは、彼の徳と模範によると記される。1592(文禄元)年には、豊臣秀次が花正の地を庄林コスメに与えたことで、尾張のキリシタン共同体は異教徒の支配から解放され、教会を再建した。1596(文禄5)年でも、彼が長年にわたり教理を教え、洗礼を授けてきたことが確認される。


(注1)フロイスの『日本史』の第一部96章には、「このようにしてデウスの(信仰の)灯は拡がっていって、数年前にはただの一人もキリシタンがいなかったところに、10年ないし12年でもう600人を超えるキリシタンがいるようになった」と記されている (フロイス『日本史9』西九州篇Ⅰ(中央公論社)より)。
 コンスタンチノの改宗者数について、フロイス書簡では「約300名」と記される一方、『日本史』では「600人を超える」と述べられている。両者の差異は、記述時点の違いと、フロイスが把握し得た範囲の広さに起因すると考えられる。
 まず、書簡(1577年9月19日付)は、臼杵からの速報的な報告であり、コンスタンチノが直接指導した集団、すなわち彼の祭壇に集う共同体の規模を中心に述べている可能性が高い。これに対し、『日本史』は後年の編纂であり、尾張国内で広がった信仰の全体像を俯瞰し、コンスタンチノの働きによって生じた改宗者の累積的な数を記録している。
 さらに、書簡中には「男女と子どもを合わせて約300名」とあるが、同地のキリシタンがコンスタンチノに寄せる愛情や、毎年都へ同行する新帰依者の存在など、継続的な増加を示す記述が随所に見られる。これらは、300名が一時点の把握であり、実際にはその後も改宗者が増え続けていたことを示唆する。
 したがって、尾張国におけるキリシタン共同体の成長を長期的視野で捉えた『日本史』の600人説の方が、コンスタンチノの活動の実態と影響力をより正確に反映していると判断できる。
(注2)庄林コスメ(Cosme Shōyo)は、16世紀後半の畿内で活動したキリシタン武士で、主に三好長慶 → 三好義継 →(一時期)三好長逸 → 池田教正といった 三好家・河内キリシタン系の武将に仕えた側近(秘書)として史料に登場する。フロイスの『日本史』に記録が残る、最古級の日本人キリシタン武士の一人である。

次回は、フロイスの『日本史』よりコンスタンチノ関連の記事を取り上げてみたい。


コンスタンチノは大和国宇陀の沢城(現・奈良県宇陀市大沢付近)に高山飛騨守友照(高山右近の父)が建立した教会の会堂の管理を任されていた。高山飛騨守は三好長慶(ながよし)の家臣・松永久秀の配下であった。
沢城跡には少年時代の高山右近像もある。