岐阜キリシタン小史(64)可児塩・犬山五郎丸のキリシタン摘発と濃尾崩れ

 岐阜県可児市帷子から愛知県犬山市五郎丸へと続く国道41号線沿いは、江戸期に多くの潜伏キリシタンが暮らした地域である。木曽川左岸の段丘と浅い谷が重なり合う地形に広がり、段丘が幾層にも折れ重なり、その間を可児川や小河川が浅い谷を刻むことで、谷ごとに生活圏が分かれ、江戸期には小規模な集落が段丘の縁や谷底に点在していた。深い山間部ではないものの、視界が折れ曲がるような起伏が続き、外部からの目が届きにくい土地柄である。

 また、この地域は、中山道の宿場町が連なる主要交通軸からはやや外れつつも、木曽川の渡し場や犬山城下を経由する地域交通路と結びつき、木曽川沿いの村々を連絡する結節点として機能していた。また、美濃東部と名古屋方面を結ぶ下街道(善光寺街道)が近隣を通り、多治見・土岐方面から尾張へ向かう往来も少なくなかった。広域交通から一歩外れながらも、地域交通と脇往還が交差する位置にあった。木曽川左岸の村々は谷ごとに生活圏が分かれ、親類関係が村境を越えて広がっていたため、周辺村との連携は自然な形で行われていたと思われる。
 さらに、この地域は尾張藩・幕府領・複数の旗本領が複雑に入り組む「モザイク状」の支配地構造をなしていた。村ごとに領主が異なり、行政の境界が細かく入り乱れていたため、役人の巡察や情報共有が必ずしも円滑ではなかった。村境を越えるだけで別の支配地区に移ることも多く、こうした境界の複雑さは潜伏者にとって逃げ道や緩衝帯として働いたとも考えられる。
 江戸初期に禁教政策が強まるなか、濃尾地方でも取り締まりは次第に厳しさを増し、1637年(寛永14年)の島原の乱以降、1698年(元禄11年)に至るまで断続的にキリシタンの摘発が続いた。寛永年間から寛文年間にかけては尾張藩・美濃国諸村で数百人規模の捕縛が相次ぎ、後に「濃尾崩れ」と総称される広域的な迫害へと発展した。都市部や主要街道沿いでは役人の巡察が頻繁で、信仰を隠し通すことは容易ではなかったが、この地域は複雑な地形と街道からの距離ゆえに監視が緩みやすい環境を備えており、潜伏を続ける人々にとって一定の居住可能性をもたらしていたと考えられる。
 以前可児市の塩を訪れた際、この段丘を南へ下れば犬山へ至ることをあらためて思わされた。1661(寛文元)年の摘発では、尾張藩の捕手が名古屋から犬山を経て塩へ向かったという記録があるが、現地に立つと、その経路が地形の上に重なって想像できた。

可児市塩の風景


 1661(寛文元)年、可児郡塩村で潜伏キリシタンが発覚した事件は、この広域的弾圧の端緒となった。隣接する帷子村でも信徒の存在が露見し、領主であった旗本・林権左衛門は自領のみでの対処を避け、尾張藩に取締りを依頼した。尾張藩は宗門改めを強化し、塩村・帷子村で24名を捕縛したと伝えられる。取り調べが進むにつれ、親類・縁者・婚姻関係が次々と明らかになり、検挙は太田村や犬山城下周辺、さらに尾張北部へと広がっていった。村落社会では血縁や地縁を通じて信仰が受け継がれていたため、一人の発覚が周辺村落全体の露見につながったのである。
 犬山・五郎丸地区でも、寛文期にキリシタン摘発が行われたことが史料から確認できる。尾張藩は密告を契機として宗門改めを実施し、周辺村々に調査が及んだ。尾張藩の宗門改め記録には、祈祷文や十字架などの遺物が押収された例が複数見られ、犬山周辺でも同様の押収が行われた。摘発後には、庄屋が寺参詣の確認や定期的な見回りを行うなど、尾張藩の一般的な運用に沿った監視体制が敷かれた。寛永期の犬山での摘発は、規模こそ小さいが、尾張藩が北部地域の潜伏キリシタンを把握し始めた時期にあたる。
 摘発の背後には、公的な責務と村人同士の結びつきのあいだで揺れ動く立場にあった村役人の存在があった。彼らは庄屋や名主として村請制のもと「村内にキリシタンがいないこと」を保証する責任を負わされていたため、摘発後は迅速に報告を整え、村の名誉を守る必要があった。一方で、村人同士のつながりは強く、摘発された家の親類が周辺村に身を寄せることを黙認する例もあったという。


美濃・尾張キリシタン顕彰碑
岐阜県可児市塩にあるカトリック名古屋教区の顕彰碑碑文(原文のまま)

 歴代の岐阜城主はキリシタン信仰に寛容であり、中には自らキリシタンになった城主もいたため、この美濃地方にはキリシタン信仰が広く受け入れられていました。しかし、
1613(慶長18)年、徳川幕府が禁教令を出してからは、多くのキリシタンが捕縛され処刑されるようになりました。そして1661(寛文元)年、尾張に隣接する可児郡塩村にキリシタン潜
伏が発覚しました。この地を領する旗本の林氏は、江戸から尾張藩にキリシタン取締りを依頼しました。
 尾張藩は1631(寛永8)年以来、キリシタンを検挙処刑していましたが、これを受けて急遽キリシタン奉行を創設して宗門改めを実施しました。これが「濃尾崩れ」と言われるキリシタンの大量検挙の始まりとなりました。
 こうして塩村、太田村等九ヵ村及び尾張北部の諸村から多数のキリシタンが尾張藩によって捕縛され、1665(寛文4)年、中心人物と見なされた200余名が、尾張藩の千本松原で処刑されました。尾張藩主徳川光友公は刑場を土器かわらけ野の (現清須市)に移し、千本松原の刑場後に菩提のために*栄国寺を建立しました。寛文年間(1660年代)には、高木村(現扶桑町高木)、高田村(現名古屋市瑞穂区瑞穂町)、笠松代官の陣屋等で2,000名を超えるキリシタンが処刑されました。なお、塩の甘露寺には可児郡坂戸地区で取り調べが行われたとき
に役人が自然石をくだいて硯代わりに使った、可児市指定有形文化財の「硯石」が置かれています。
 ここに濃尾崩れて信仰のために命を捧げた殉教者たちを称えてこの碑を建立します。
2021年6月
カトリック名古屋教区 司教 建立
名誉司教 撰文