岐阜キリシタン小史(70) 再び、コンスタンチノのこと①

1.はじめに 

 拙稿「岐阜キリシタン小史(17)」では、尾張キリシタン黎明期の人物コンスタンチノを取り上げた。その際は、尾張キリシタン研究の二人の泰斗の著作、森德一郎氏の『尾濃切支丹年表』と横山住雄氏の『尾張と美濃のキリシタン』を参照し、両氏の記述を整理するかたちで紹介した。
 その後、イエズス会の「日本年報」や宣教師書簡、およびフロイス『日本史』を読む機会が増え、これら一次史料に描かれたコンスタンチノ像を、あらためて自分自身の視点で整理してみたいという思いが強くなった。
 洗礼名コンスタンチノ(Constantino)はラテン語の Constantinus に由来し、もともとの意味は「変わらない」「揺るがない」といった安定した性質を表している。そのため、この名は「揺るがぬ人」「忠実な人」「堅固な人」といったイメージを持つ名前として受け継がれてきた。キリスト教の世界では、信仰にしっかり立つ姿勢を象徴する名として親しまれている。
 今回から二回にわたり、宣教師史料に記されたコンスタンチノの姿を紹介していきたい。まず今回は、イエズス会の「日本年報」と宣教師書簡に現れる彼の動向を取り上げる。参照した資料は、同朋舎出版・松田毅一監訳の『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(全十五巻)であり、まずはこの報告集に記されたコンスタンチノの記事を抽出するところから始めたい。( )内は引用文に付された補足、[ ]内は本稿筆者による補足である。また、引用文ではコンスタンチノを「コンスタンチイノ」と表記していたため、原文表記をそのまま維持して採録した。

2.史料引用

(1) 史料1:1573年4月20日付 都発信 ルイス・フロイス師のフランシスコ・カブラル師宛書簡 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第4巻、東光博英訳、同朋舎、1998年、192-193頁)
(引用開始)この四旬節の終わりに、或る出来事によって我らの主(なるデウス)における格別なる喜びが、また都のキリシタン一同に少なからざる感化がもたらされた。すなわち、聖週の初め、尾張国から4名のキリシタンが祝祭を迎えるため当地[都]に訪れたことであり、(中略)善良なるコンスタンチイノが案内役として来たが、かの尾張において彼らのうち二人に洗礼を授けたのは彼であり、両人は彼の説教によってキリシタンになったのである。(中略)コンスタンチ亻ノは自宅に一種の祈祷所を設けており、そこにかの地花正(Fanamasa)の全キリシタンが集まる。彼は同所でキリシタンを励まし、日曜日ごとに彼らのため十戒について説いた書物を読む。また、異教徒に説教し、死者を葬り、子どもたちに洗礼を授ける。絶えず仏僧と議論し、彼の謙遜と信仰の熱意が仏僧をことごとく退けるので、彼ら(キリシタン)は尾張ではコンスタンチイノの弟子と呼ばれている。(引用終わり)
(2) 史料2:1577年9月19日付 臼杵発信 ルイス・フロイス師書簡 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第4巻、東光博英訳、同朋舎、1998年、396-397頁)
(引用開始)都より遠く離れた尾張国にコンスタンチイノと称する人がいる。(中略)既に年齢は60歳を過ぎ、財産を持たないが、徳に恵まれている。欺瞞なきイスラエル人のようである。また、粗末な自宅に祭壇があり、同地において彼がキリシタンにした人々がそこに集まる。彼は人々に説教して洗礼を授け、私が信じているところでは言葉よりも行状と模範によって人々を励ましている。(中略)彼は同国において、男女と子どもを合わせて(注1)約300名をキリシタンに変え、常に聖週になると我らは都で彼を待ち受けるのであり、彼は神への奉仕を見せるため、改宗したキリシタンのうち10ないし12名を連れてくる。(中略)年に2、3 度、すなわち、復活祭と降誕祭、聖母昇天の祝日に訪れ、告白して聖体を授かり、キリシタンらに分与するコンタツや聖宝、聖像、鉛で作った十字架を持ち帰る。都に滞在する10ないし12日間は、かの地のキリシタンに伝えるため、絶えず日本語で書かれた霊的な事柄を書き写すことに没頭する。(引用終わり)

(注1) フロイスの『日本史』では600人超と記される。これは書簡が速報的報告であるのに対し、『日本史』が後年の総括的記述であるためと考えられる(後述参照)。

(3) 史料3:1578年4月8日付 オルガンティーノ師の書簡 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第5巻、東光博英訳、同朋舎出版、1992年、62頁)
(引用開始)当地方のキリシタン宗団の諸事はよく進展し、我らは本年2000名をキリシタンにしたが、すでにキリシタンとなった者は大いに利益を得ている。コンスタンチイノや他のキリシタンらが頻りに請うたので私は今尾張国に向かう道中にある。私はかの国のキリシタンが利益をうることを主(なるデウス)において期待しており、もし美濃の国で説教する機会があれば、我らは必ずや主の御名において網を投ずるであろう。(引用終わり)
(4) 史料4:1582年2月15日付 長崎発信 ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1581年度日本年報 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第6巻、東光博英訳、同朋舎出版、1991年、49頁)
(引用開始)美濃国のキリシタンたちが告白し、心慰められた後、司祭[ルイス・フロイス]は美濃国と境を接する尾張国にいるキリシタンたちを訪ねた。同国に我らは200ないしそれ以上の数のキリシタンを擁しているであろう。彼らはほとんど皆、コンスタンチイノと称する一キリシタンを介して改宗し洗礼を受けた人たちである。このキリシタンは我らの主が当国においても(他国に)劣らぬ成果を収めるため起こせ給うた人であり、教会を維持し絶えず異教徒にデウスの教えを聴きに来るよう説き、(中略)彼らを司牧する司祭を持たぬまま生活しているにもかかわらず、かくも高き徳と信用を積んでいるので、司祭たちと共に暮らす都地方のキリシタンたちにも劣らない。(引用終わり)
(5) 史料5:1589年2月24日付 日本副管区長ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1588年度日本年報 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第1巻、日埜博司訳、同朋舎出版、1987年、79-80頁)
(引用開始)数日前、都にいた時に私は尾張の国からコンチタンチイノを呼ばせた。彼は聖土曜日にここへ来て、かの地のキリシタン全員たちへ花正の監督権を有する或る異教徒が行った迫害についての情報を私に与えた。(中略)しかしこの善良な老人で聖なる勇士コンチタンチイノはそれらの偶像を極秘のうちに除去し焼き捨てに行った。この異教徒もまたこれに応じてコンチタンチイノのから祈祷用のコンタツ[現在のカトリックでいうロザリオ]を取り上げようと欲したが、彼は、まずわが首を斬れ、しかるのちコンタツを取り上げればよろしかろう、とてどうしてもこれを手渡そうとしなかった。(中略)記述のコンチタンチイノは常と変わらず彼らを訪問し、彼らにデウスのことについていくつかの訓話を行うことに多大の配慮を払っている。(引用終わり)
(6) 史料6:1592年10月1日付 長崎発信 ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591、92年度日本年報 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第1巻、家入敏光訳、同朋舎出版、1987年、237頁)
(引用開始)尾張国ではコンチタンチイノという古くからのキリシタンが同じように行動した[他のキリシタンたちに講和をしに行ったりキリシタンの教理を教えたりして、キリシタンたちを助けたのみならず、教理(の学習)で毎年多くの人々をキリシタンにしている]。(引用終わり)
(7) 史料7:1592年10月1日付 長崎発信 ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591、92年度日本年報 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第1巻、家入敏光訳、同朋舎出版、1987年、306頁)
(引用開始)このたび殿(豊臣秀次)がこの老人[(注2)庄林コスメ]への増俸を考慮していた時、デウスは花正と呼ばれる地を彼に授けるよう(主君の)心に働きかけ給うた。その地はコンスタンチイノが他のキリシタンたちともに住んでいるところであった。このようにして(尾張のキリシタンたちは)異教徒の耐え難い軛から解放され、(中略)直ちに偶像を焼き払い、教会を再建した。(引用終わり)

(注2) 庄林コスメ(Cosme Shōyo)は、16世紀後半の畿内で活動したキリシタン武士で、主に三好長慶 → 三好義継 →(一時期)三好長逸 → 池田教正といった三好家や河内キリシタン系の武将に仕えた側近(秘書)として史料に登場する。フロイスの『日本史』に記録が残る、最古級の日本人キリシタン武士の一人である。

(8) 史料8:1596年12月13日付 長崎発信 ルイス・フロイスの1596年度日本年報 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻、家入敏光訳、同朋舎出版、1987年、249頁)
(引用開始)尾張の国のキリシタンたちの古くからの父親(の代り)をしている老人コンスタンチノが教理を教えた後、彼らに洗礼を授けた。(引用終わり)
(9) 史料9:1596年12月13日付 長崎発信 ルイス・フロイスの1596年度日本年報 (出典:『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻、家入敏光訳、同朋舎出版、1987年、263頁)
(引用開始)我ら[フロイスら]はそこから花正へ行った。そこには大勢の古くからのキリシタンがおり、32年以前からコンスタンチイノという善良な老人によって教えを受け、洗礼を授けられている。(引用終わり)
  1. 史料の検討と考察
     史料1~9で明らかになる事項を、以下に整理する。
    (1) 尾張キリシタン共同体の創設者
     史料1に描かれるコンスタンチノは、すでに尾張におけるキリシタン共同体の中心的人物となっている。フロイスは、彼が二人の人物を説教によって回心させ、自ら洗礼を授けたことを伝えている。またコンスタンチノが自宅に祈祷所を設け、花正のキリシタンをそこへ集めていたことを記している。そこでは毎週日曜日に十戒について書かれた日本語の書物を読み聞かせ、信徒を励まし、異教徒への説教、死者の埋葬、幼児洗礼まで行っていた。コンスタンチノ自身は仏僧との宗教論争にもしばしば臨み、謙遜と熱意をもって議論し、相手を退けることが多かった。
     また、彼の指導を受けていた尾張のキリシタンたちは、周囲から「コンスタンチノの弟子」と呼ばれるほど、彼の教えに結びついた共同体として見られていた。この段階で彼は、司祭の補助者という範囲を超え、地域教会を実質的に支える信徒指導者としての役割を果たしていた。

(2) 模範によって人々を導いた伝道者
 史料2では、コンスタンチノの人物像がさらに詳しく描かれている。フロイスは、彼を「欺瞞なきイスラエル人」にたとえ、60歳を超え、財産は持たないものの、高い徳を備えた人物であると評価している。粗末な家に祭壇を設け、そこへ自ら導いた信徒を集め、説教し、洗礼を授けていたことが再び確認される。そして、「言葉よりも行状と模範によって人々を励ましている」と述べられていることから、彼の人格そのものが伝道の力となっていたことが分かる。
 また、この史料では、彼の伝道活動の広がりも具体的に示されている。フロイスは、コンスタンチノが約300人をキリシタンへ導いたと記しており、さらに毎年10人から12人ほどの新しい信徒を伴って都へ赴き、復活祭や降誕祭などの祝日に秘跡を受けさせていたという。都では日本語で書かれた霊的書物を書き写し、コンタツ、聖像、十字架などを尾張へ持ち帰って信徒教育に用いていた。これは彼が教理教育者であり、地方教会へ霊的資源を供給する役割も担っていたことを示している。
 しかし、同じフロイスの記述であっても、イエズス会書簡と『日本史』では報告される受洗者数に隔たりがある。尾張のキリシタン増加について、注1で引用したフロイス『日本史』第1部96章には、尾張では十数年で600人を超える信者が生まれたと記されている。「このようにしてデウスの(信仰の)灯は拡がっていって、数年前にはただの一人もキリシタンがいなかったところに、10年ないし12年でもう600人を超えるキリシタンがいるようになった」とあり、地域全体の信仰拡大を俯瞰した記述となっている(フロイス『日本史9』西九州篇Ⅰ、中央公論社、p.346)。これに対し、1577年9月19日付のフロイス書簡では、コンスタンチノが直接導いた改宗者数は「男女と子どもを合わせて約300名」と報告されている。両者の数字の差異は、主として①記述時点の違い、②フロイスが把握し得た範囲の広さの違いに起因すると考えられる。
 まず、書簡は臼杵からの速報的な報告であり、コンスタンチノが直接指導した共同体、すなわち彼の元に集う信者の規模を中心に述べている可能性が高い。これに対し、『日本史』は後年の編纂で、尾張国内で広がった信仰の全体像を視野に入れ、コンスタンチノの働きによって生じた改宗者の累積的な増加を反映している。さらに、書簡には「約300名」という数字とともに、同地のキリシタンがコンスタンチノに寄せる深い愛情や、毎年都へ同行する新帰依者の存在など、継続的な増加を示す記述が見られる。これらは300名が一時点での把握にすぎず、その後も改宗者が増え続けていたことを示唆する。
 以上を踏まえると、尾張国におけるキリシタン共同体の成長を長期的視野で捉えた『日本史』の「600人を超える」という記述の方が、コンスタンチノの活動の実態と影響力をより的確に反映していると判断できる。

(3) 宣教師と地域教会を結ぶ架け橋
 史料3は、コンスタンチノが司祭を尾張へ招く中心人物であったことを示している。オルガンティーノは、「コンスタンチノや他のキリシタンらが頻りに請うたので尾張へ向かう」と述べており、宣教師の巡回が現地の共同体の要請によって実現していたことが分かる。また、美濃でも宣教したいというオルガンティーノの記述からは、尾張共同体が美濃宣教の拠点として期待されていたこともうかがえる。
 この役割は史料4でさらに明確になる。コエリュは、尾張には200人以上のキリシタンがおり、そのほとんどがコンスタンチノを通して改宗し、洗礼を受けた人々であると述べている。さらに、「主が当国において成果を収めるため起こされた人」と高く評価し、司祭が不在であっても共同体を維持し続けた功績を称賛している。司祭と地方共同体を結び付ける存在として、コンスタンチノは欠かすことのできない役割を果たしていたのである。

(4) 迫害の中で信仰を守り抜いた証し人
 しかし、その歩みは平穏ではなかった。史料5は、迫害下におけるコンスタンチノの信仰を伝えている。花正の支配者が偶像崇拝を強制した際、彼は密かに偶像を取り除いて焼き捨てた。さらに、自らのコンタツを没収しようとした異教徒に対し、「まずわが首を斬れ、その後でコンタツを取り上げよ」と言って拒絶した。
 この言葉は、信仰を命よりも重んじる殉教的覚悟を示しており、コエリュが彼を「聖なる勇士」と称えた理由でもある。迫害の中でも彼は信徒を訪ね歩き、教理を語り続けており、共同体の精神的支柱としての役割を果たし続けた。

(5) 晩年まで続いた教理教育と共同体への奉仕
 史料6は、禁教の圧力が強まる中でも、コンスタンチノの活動が衰えなかったことを示している。フロイスは、彼が各地を訪ねて信徒を励まし、教理を教え、毎年多くの人々をキリシタンに導いていたと述べる。20年以上活動を続けた高齢の伝道者が、なお毎年改宗者を生み出していたことは特筆すべきである。
 また、史料7は、花正が庄林コスメに与えられたことで、コンスタンチノらが長年苦しめられてきた迫害から解放されたことを伝えている。偶像を焼き払い、教会を再建したという記述は、長年守り続けてきた共同体がようやく安定した環境を得たことを示している。

(6) 「尾張のキリシタンの父」としての晩年
 史料8は、コンスタンチノが晩年になっても「尾張の国のキリシタンたちの古くからの父親」と呼ばれていたことを示している。彼は依然として教理教育を行い、洗礼を授け続けていた。この「父親」という表現は、共同体全体を育て導く霊的父として認識されていたことを意味している。
 さらに史料9は、花正の古参信徒たちが「32年以前からコンスタンチノによって教えを受け、洗礼を授けられている」と証言している。この記述から、彼の伝道活動は1560年代半ばにはすでに始まっていたことが分かる。すなわち、30年以上にわたり一貫して尾張教会を支え続けたのである。

  1. まとめ
     以上の9点の史料を総合すると、コンスタンチノは尾張におけるキリシタン共同体の成立から発展、さらに迫害期を経て安定期に至るまで、その中心に立ち続けた信徒指導者であったことが明らかとなる。
     彼は自宅を祈祷所として信徒を集め、教理を教え、洗礼を授け、死者を葬り、幼児洗礼を施し、異教徒への説教や仏僧との宗教論争まで行っていた(史料1・2)。また、毎年都へ赴いて秘跡を受け、日本語の霊的文書やコンタツ・聖像・十字架などを持ち帰ることで、司祭不在の尾張の教会に必要な霊的資源を供給していた(史料2)。このような活動は、宣教師と地方教会を結ぶ重要な役割を果たしていたことを示している(史料3・4)。
     さらに、彼の働きは単なる共同体の維持にとどまらず、積極的な伝道によって数百人規模の信徒を育てる成果を挙げた。書簡では約300人(史料2)、『日本史』では600人を超える信徒の形成が伝えられており(史料2注1)、尾張におけるキリスト教受容の中心人物であったことは疑いない。また、イエズス会士たちが「主が当国に起こされた人」(史料4)、「聖なる勇士」(史料5)、「尾張のキリシタンたちの父親」(史料8)など、最大級の賛辞をもって評価していることも、その歴史的重要性を裏付けている。

 迫害下においても、彼は偶像を焼き捨て、コンタツを命と引き換えに守り、「まずわが首を斬れ」と言い放って信仰を貫いた(史料5)。その一方で、信徒を絶えず巡回し、教理教育を継続し、高齢になっても毎年新たな改宗者を生み出していた(史料6・8)。史料9によれば、花正の古参信徒は32年以上にわたってコンスタンチノから教えを受けており、その活動期間は少なくとも30年以上に及んだことが確認できる(史料9)。
 このようにコンスタンチノは、宣教師の補助者という存在を超え、伝道者、教理教育者、共同体形成者、教会維持者、迫害下の信仰の証人、そして尾張教会の霊的父という多面的な役割を担った人物であった。日本キリシタン史では、フランシスコ・ザビエルやオルガンティーノ、フロイス、高山右近など宣教師やキリシタン大名に注目が集まりやすいが、地方教会が長期間維持され発展した背景には、コンスタンチノのような日本人信徒指導者の献身が存在したことを忘れてはならない。
 コンスタンチノの歩みは、16世紀日本において信徒自身が主体的に福音宣教を担い、司祭不在の地域教会を支え得たことを示す代表例であり、日本キリシタン史における最初期かつ最も優れた信徒伝道者・信徒指導者の一人として高く評価されるべき人物である。彼の存在は、尾張のみならず美濃を含む濃尾地域のキリスト教受容を考える上でも不可欠であり、日本人信徒が教会形成の主体となったことを示す貴重な歴史的証言である。

コンスタンチノは、大和国宇陀の沢城(現・奈良県宇陀市大沢付近)にあった教会会堂の管理を任されていた。この会堂は、高山右近の父である高山飛騨守友照が、沢城の城域内に建立したものである。飛騨守友照は、三好長慶の家臣であった松永久秀の配下として活動していた。現在、沢城跡には少年期の高山右近像が建てられている。

次回は、フロイス『日本史』に記されたコンスタンチノの記事を取り上げ、そこに描かれた彼の人物像と信仰の歩みを検討していきたい。