岐阜キリシタン小史(70) 再び、コンスタンチノのこと②

  前回に続き、尾張のキリシタン黎明期に登場する人物コンスタンチノを取り上げる。今回は、ルイス・フロイスの『日本史』に記されたコンスタンチノについて見ていきたい。
 なお、フロイスの『日本史』については、以前に拙稿「岐阜キリシタン小史」で触れたが、ここであらためてその概要を整理しておく。

フロイス『日本史』 História de Japam
1. 成立と性格
フロイス『日本史』は、1560年代から1590年代にかけてフロイスが継続的に執筆した大規模な叙述史料であり、戦国期日本の政治・宗教・社会を宣教師の視点から記録したものである。彼は各地での宣教活動に従事しながら、為政者との接触、仏教諸宗派との論争、地域社会の慣習、信徒共同体の形成などを詳細に観察し、それらを長期にわたり書き留めた。本書は、同時代の日本を比較的近い距離から捉えた点に特徴があり、記述の具体性と量的な豊富さから、戦国期日本研究において不可欠の史料とされている。
2. 全巻構成
『日本史』は、一般に以下のような大きな構成を持つ。
第1部:日本の風俗・宗教・社会の概説
日本の宗教状況(仏教諸宗派の特徴)、社会慣習、政治制度、地域差などを概説する部分。フロイスの日本理解の基礎が示される。
第2部:宣教活動の開始と展開
ザビエル以降の宣教の歩み、各地での布教、信徒の増加、仏教側との論争、領主との関係などを叙述。
第3部:戦国大名との関係
織田信長との接触、安土での活動、信長の宗教政策、京都・畿内の政治情勢などが中心。
第4部:豊臣政権期の動向
秀吉政権下の宗教政策、伴天連追放令、九州の情勢、キリシタン大名の動向など。
第5部:地域別の詳細な記録
九州・畿内・東国など、地域ごとの社会状況や宣教の実態を詳述。
3. 写本の系統
 フロイスはポルトガル語で『日本史』を執筆したが、自筆原稿は現存しない。原本は18世紀までの間に失われたと考えられており、現在伝わるのは複数の写本である。
 代表的な写本には次のものがある。
① エヴォラ写本(Évora Manuscript)
 ポルトガルのエヴォラ公共図書館(Biblioteca Pública de Évora)に所蔵される写本で、現存する『日本史』諸写本の中でも最も重要なものの一つである。日本語訳『完訳フロイス日本史』(中央公論社・中央公論新社)は、この写本を主たる底本とし、他の写本とも比較・校訂している。
② ローマ写本(Roman Manuscript)
 ローマのイエズス会歴史文書館(Archivum Romanum Societatis Iesu:ARSI)に所蔵される写本。エヴォラ写本と比較すると、本文に語句の違いや脱落などの異同が認められ、本文校訂の重要な資料となっている。
③ ラテン語訳・抄訳
 17世紀以降、『日本史』の一部はラテン語に翻訳・抄録され、ヨーロッパで利用された。ただし、原著全体を忠実に翻訳したものではないため、本文研究では補助資料として扱われる。
※写本段階での異同が多いため、研究では「どの写本系統に依拠するか」を明示することが重要となる。
4. 日本での出版状況
① 戦前の最初期訳
 フロイス『日本史』の邦訳は、1932年の高橋慶雄訳『日本史 前篇』(日本評論社)に始まる。これは1926
年刊行のドイツ語版をもとにした重訳であり、後篇は刊行されず、紹介は部分的なものにとどまった。そのため、戦前には『日本史』全体を日本語で読むことはできなかった。
② 戦後の東洋文庫による部分訳
 戦後になると、平凡社東洋文庫から『日本史 キリシタン伝来のころ』全5巻(1963〜1970年)が刊行され、フロイスの記述が広く紹介されるようになった。訳者は柳谷武夫や柳沼重剛らで、当時利用可能であったヨーロッパ刊本をもとに翻訳された。内容はキリシタン伝来初期に限られる部分訳であったが、多くの読者にフロイスの著作を紹介する役割を果たした。
③ 松田毅一・川崎桃太による初の全訳
 1977〜1980年、松田毅一・川崎桃太訳『日本史』全12巻(中央公論社)が刊行され、日本で初めて『日本史』の全訳が実現した。この翻訳は、エヴォラ写本などの原写本をもとに校訂された本文に基づいている。
ただし、原著の三部構成や巻・章立てをそのまま翻訳・刊行したものではなく、内容を再編集して「豊臣秀吉篇」「五畿内篇」「豊後篇」「西九州篇」の四篇・全12巻として刊行された。したがって、中央公論社版の巻構成は原著の巻・章番号とは一致していない。その後、内容はそのままに装丁を簡略化した普及版も刊行された。
④ 中公文庫版『完訳 フロイス日本史』
 2000年以降、この全訳は中公文庫『完訳 フロイス日本史』全12巻として刊行された。文庫版では巻構成があらためて見直され、「織田信長篇」「豊臣秀吉篇」「大友宗麟篇」「大村純忠・有馬晴信篇」を中心とする構成に再編集された。このため、中公文庫版も原著の巻・章立てとは一致せず、中央公論社版とも巻構成が異なる。文庫化によって入手しやすくなり、研究や講義でも広く利用される日本語版となったことから、フロイス『日本史』は研究者だけでなく一般読者にも広く読まれるようになった。

 今回も、フロイスの『日本史』に記されているコンスタンチノの記事を先ず抜き出し、その後、分析・整理する方向で進めていきたい。筆者が使用したのは、松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』全12巻(中央公論社)の普及版(上記③)である。
 私たちは今、簡単にフロイス『日本史』を読むことが出来るが、その背後には訳者である松田毅一先生、川崎桃太先生の並々ならぬご苦労があったことを忘れてはならない。
 フロイスの原文(正確には写本)は、16世紀特有の読みづらいポルトガル語で記されており、語法・綴りも当時の慣習に従うため、現代のポルトガル語話者でも容易には読めない。しかも写本の一部には欠損や乱丁があり、文脈の復元には他の宣教師書簡や『日本年報』との照合が不可欠であったという。私たちが今日、整った形で『日本史』を手にできるのは、地道で膨大な校訂作業の成果にほかならない。
 前回同様、( )内は引用文に付された補足、[ ]内は本稿筆者による補足である。また、引用文ではコンスタンチノを「コンスタンチイノ」と表記しているため、原文どおりに採録した。歴史的に興味深い箇所については、コンスタンチノと直接の関わりがない記事であっても、あえて採録することとした。
 なお、フロイス『日本史』の記事には年号が付されていない。文脈から年代を推定することも不可能ではないが、本稿の目的は史実の厳密な年代比定ではなく、フロイスの記述そのものを読み取り、コンスタンチノの歩みを理解することにある。そのため、年号の補填は行わなかった。
 以下の史料の順は、原典の配列順に準拠した。

フロイス『日本史』(版名は不明)
① 第一部39章 (『フロイス 日本史3 五畿内篇Ⅰ』・第15章)
 奈良で洗礼を受けた高山ダリオ(飛騨守)殿[高山右近の父]は、五畿内[山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国]全域におけるもっとも傑出した人々の一人であり、正真正銘のキリシタンで、その行いはつねにすべての人々に感嘆の念を起させたほどであった。すなわち聖霊が彼に宿り、その恩寵と賜物を(主が)分ち与え給うのにしごくかなった性格のように思われた。彼は当時、奈良から13里距へだたった沢[現在の奈良県宇陀うだ市榛原はいばら沢]という一城の主で、(彼はそれを)霜台[松永弾正久秀のこと、霜台は彼の官職である弾だん正忠じょうのちゅうの唐名]から授けられたのであった。そこでは、日夜絶え厳重きわまる警戒が行われていた。というのは、(すでに)幾度も合戦したことのある敵の近くに位置していたからである。彼は以前から300の兵と自分の妻子を城内にかかえていたのであるが、同所に(奈良から)戻ってくるやいなや、さっそく伴天連(ガスパル・ヴィレラ[イエズス会宣教師])に宛てて一書をしたためた。文中、彼は、(伴天連が)自分に洗礼を授け、救霊の道を教えてくれたことに幾度も謝(辞)を述べ、「私はこれにより、まるで大いなる領国レイノスと君主国モナルキアの独裁君主にしてもらったかのように、いとも(心)豊かに嬉しく思う」と言い、さらに語りついで(こう)述べた。「私はもっとゆっくり教えを聞くことができるように、御身を喚よばせたいが、道中は敵(がいる)ために危険なので、目下のところあえてそうするわけにはいかず、よりよい時期が来るのを待つことにする。しかしデウスの愛のため、さっそくロレンソ修道士[ロレンソ了斎]を御派遣いただきたい。彼なら日本人であるから、もっと自由に道中旅行ができるであろうし、私の家族や兵士たちは説教を聞きたがっている(ので)、彼に(説教)してもらいたいのであると。そして彼はさっそく修道士を伴って来るために人を派遣し、彼自身は(修道士)を城から少しばかり離れたところで出迎えた。
 ダリオの(信仰)熱は非常なもので、彼は自分の家族や兵士たちがデウスのことをよく理解した有様に接すると、深い喜びと慰め(の感情)を禁じ得ないほどであった。そして彼は、最近ようやく洗礼を受けたばかりであるにもかかわらず、その感激、熱意、信心、敬虔(ぶり)は、ヨーロッパの古くはなはだ堅実なキリスト教徒と見間違うばかりであった。そして彼の全生涯を通じ、もっとも顕著であったのは、愛と慈悲の行ないであった。
 ロレンソ修道士はしばらく説教を続け、一同は聞いたことをよく理解するに至ったので、修道士は150名の者に洗礼を授けた。その中には、彼がマリアの(教)名を与えた(ダリオの)妻や、息子(複数[当然右近も含まれる])と娘たち、また身分ある人たちや城兵たちがいた。修道士が彼らにとやかく勧告する必要はなかった。というのは、ダリオは自分の行ないは何事においてもきわめて入念にする人であったので、さっそく場内に極めて清潔で、美しく装われた教会を建てたからである。そして彼はその(教会)をコンスタンチイノという一人のキリシタンに委ね、(コンスタンチイノ)はそこの清掃と整理のことだけに専念しておけばよかったのであるが、それでもなおダリオは満足しなかった。彼はそこで自分の手で必要なことをするのを喜んだので、むしろ彼はまさしくその教会の香部屋係り(の人)であるように思われた。
 ここへキリシタンたちは参集し、彼は一同に祈祷を覚えさせたり書きとめさせた。さらに彼は伴天連に対して、日曜日や祝日に説教の代りに人々に朗読できるように、当時すでに(司祭)が日本語に訳していた(十)戒とキリシタンの教義ドウトリーナに関する説明を乞うた。なぜならば修道士につねに同所にいてもらって、人々に説教してもらうわけにはいかなかったからである。ダリオは非常に満足しており、その心の中には、デウスの教えが弘まってゆくのを見たいという熱意が燃え、つねに彼はそのことに想いを馳せていた。彼の言行はいつもかくのごとくであった。
② 第一部96章 (『フロイス 日本史9 西九州篇Ⅰ』・第22章)
 高山ダリオ殿は大和の国でキリシタンになった時に、すでに述べたように、沢城内に美しく、また非常に立派に調えられた教会を設置した。そして彼はその世話をコンスタンチイノという教名の、もう50歳くらいになる剃髪の徳の高い人に委ねた。当時キリシタンになった兵士たちは、彼が一同に祈るように励ましたり、信仰のことを教えたりしたので、彼を自分たちの父親とも教師とも見なしていた。その後、敵がかの城を奪い、ダリオが摂津国の高山という郷里に行くことになった時に、コンスタンチイノはダリオに、自分の出生地であり、妻や親戚の者がいる尾張に行く許しを乞うた。彼は信心深く謙虚で、(布教の)熱意に溢れ、デウスに対して聖なる畏怖の念を抱いている人であったから、(郷里に帰ると)同時に異教徒たちにデウスのことについて話をしようとの意図をもって出発した。そしてその地には一人のキリシタンもいなかったので、彼は日本文字で日本語に訳されたカテキズモ(の書)、ならびに「クレド」[信仰告白]、「パーテル・ノステル」[主の祈り]「アヴェ・マリア」、(その他)教会の掟や秘蹟に関する幾つかの説明(書)を携えて行き、自分が育ったところで、妻がいたある村ポヴオアサンに居を定めた。そこは花正というところであった。彼は自宅に一種の小祭壇を設け、そこでデウスに祈りを捧げることを常とし、携えて来た彫像イマージエンの前で、近隣の人たち、親族、友人たちにデウスのことについて説教した。
 コンスタンチイノは二年ほど(そのような生活を)持続した。ある人々は彼を嘲笑し、また別の者は罵詈雑言を浴びせた。その地にいた仏僧たちは彼を脅かしたり軽蔑したりしたが、彼らは彼と話をすると、きまって彼の根拠とすることに打ち負かされ、その忍耐と愛情に教化されるのであった。他の人々は彼(の話)を聞くことを喜び、しばしば彼と交際した。この二、三年間に、その善良な老人は、ただ告白をし聖体を拝領するための目的で、厳寒の折、雪や雨の中を、そして悪路の上に盗賊どもに脅かされながら、大きい喜びと満足のうちに七日もかかる旅路を重ねて尾張の国から都ミヤコにやって来た。それはある時は降誕祭であり、別の時は聖週間であり、時には四旬節の大部分を都の教会で過すこともあった。そしてその際、彼はいつも、異教徒たちから持ち出されて自分が充分に答えられなかったと思う疑問(点)を書きしたためて携え、そのことで司祭に質問した。そして彼ははなはだ貧しかったにもかかわらず、司祭たちが彼に、旅路で必要なものとか、彼が所持していないものを施し物として受け取らせようとしても、それは苦労してやっとのことで説きつけることができたのであった。
 彼は三年間、その行を守り続け、言葉によって教えたり、自ら徳の高い生活の範を垂れることによってデウスの言葉を説いた。その年月が経つと、彼にはゼウスの言葉の種子が実を結ぶ時が来たように思えた。そこで彼は復活祭に都に行った時に、ルイス・フロイス師に(次のように)願った。「洗礼の授け方を教えていただきたいし、また洗礼に関することをよく教授してほしいのです。それにどうかメダイ[聖母マリアや聖人の姿・記号が刻まれた小さなメダル]、コンタツ[ロザリオ]、また死者を埋葬する時のために短白衣を一着をお与えください。といいますのは、私の(郷里花正の)地には、すでにカテキズモを教わって、祈りを知っている人が幾人かおりまして洗礼を受けることができるからです」と。彼は洗礼を授ける許可を得、その他の願いも聞き入れられて帰(郷)するやいなや、幾人かの男女、子どもたちに洗礼を始めたが、そのある人々は花正の者であり、他の人々は遠隔の地から(来たのであった)。そして彼は、次の降誕祭に(都に)来た時には、10人ないし12人の教え子を伴ったが、彼らは彼が過ぐる年月に回収させたキリシタンたちであって、ミサに与かったり司祭に会って告白するために来たのである。この人々は実に信心深く感激と熱意に満ちていて、あれほど(立派な)教師(コンスタンチイノ)の弟子であることを如実に示していた。都キリシタンたちは、彼らがその地に滞在していた日々には、彼らを自分たちの家に宿泊させたが、彼らに会って少なからず教化された。
 このデウスの僕が、かの(花正で)福音を説きはじめるやいなや、その仕事でどれほど多くの反抗を味わったかは容易に語り得ないであろう。異教徒たちは彼に不法を行ない、難儀をかけ不断に迫害したが、彼はそれらを堪えて、彼の当初の熱意を冷却させることはできなかった。こうして彼は短い期間に(キリシタンの数を百人満たすことを成就した。彼は人々に説教し、洗礼を授け、毎日、大人と子どもたちに「ドチリナ・キリシタン」[日本語で書かれたカトリックの教理書。信仰の基本(祈り・戒律・教え)を日本人向けにまとめてある]を教え、死者を埋葬し、病人たちを見舞い、仏僧たちと討論したが、彼はとりわけ深い謙遜と修道士のような慎みをもってこよなく祈りを好んだ。異教徒たちは、その新しいキリシタン集団を「コンスタンチイノのお弟子さん」と呼んだ。毎年彼は二度都に行ったが、その際にはいつも教会の行事を見せることによって信仰心を強めさせようとして、まだ信仰の浅い人たちを伴って行った。(コンスタンチイノらの)活動はなおますます弘ひろまり始め、彼もしくは彼の弟子は、初めて説教を聞きたいと思っている人に説教するために、(花正から)4、6また8里離れた所まで出かけて行き、彼らが(教理を)教わり祈りを覚えると(コンチタンチイノ)は彼らに洗礼を授けた。このようにしてデウスの(信仰の)灯は拡がっていって、数年前にはただの一人もキリシタンがいなかったところに、10年ないし12年でもう600人を超えるキリシタンがいるようになった。
 フランシスコ・カブラル師が信長を訪れるために美濃の国に赴いた時に、コンスタンチイノは、(花正の)自分の新しい布教地を司祭に見に来てもらいたいと願って、さっそく尾張の国から司祭のところに行った。しかし司祭はすでに都への(帰)路についていて、当時は不可能であった。その後、オルガンティーノ師が彼を訪ねて行き、爾後、司祭たちは時間に余裕があれば、その地のキリシタンたちの告白を聴いたり、その他の秘跡を授けたり、コンスタンチイノがもう20年以上持続しているその仕事を助けることなどを続けた。
③ 第一部111章 (『フロイス 日本史5 五畿内篇Ⅲ』・第63章)
 尾張のコンスタンチイノを(都へ)呼ばせました。彼は聖土曜日にここに来て、かの(地の)キリシタン全員が花正村の役人から苛酷な迫害を被ったことについて私に報告しました。その役人は祭壇を砕き、その場に多くの偶像を置きました。この善良な老コンスタンチイノは、それらの偶像を一つひとつ密かに焼き捨て、彼の勧告について全てのキリシタンたちが蹶起けっきいたしました。しかし彼らは教会に集まることができません(でした)。かの悪魔(役人)めは、コンスタンチイノのから祈りのコンタツ[ロザリオ]を吸収しようとしましたが、彼は、「まず私の首を刎はねてからコンタツを取れ」と答えました。主(なる)デウスに光栄が帰せられますように。そしてこのコンスタンチイノは、ただに罪を犯さなかったばかりか、この混乱期に、一人のきわめて名望ある貴人をキリシタンに改宗させました。私がここにいる間に(尾張の)重おもだったキリシタンたちに2通の書状を送りましたが、彼らが(どんなに)それらを受理して喜んだか、もはや誇張するわけにも参りません。昨日、コンスタンチイノと別れました。その際に私は尾張の国のキリシタンに宛ててもう一通をしたためて彼に託し、その中で、私が密かにこの都に来ていることを知らせました。
④ 第二部90章 (『フロイス 日本史11西九州篇Ⅲ』・第63章)
 (パシオ)師[フランシスコ・パシオ]は尾張の国の花正と称される地に赴いた。そこには、同地(域)の全キリシタンの父であり育ての親とも称されるべき古参子のコンスタンチイノが住んでいる。司祭はそこで9日間、彼らと共に過し、その間、毎日説教をし、改悛の秘跡を受けるための準備を施し、全員の告白を聴き、彼らと共に聖霊の祝日[ペンテコステ]を祝った。
(中略)
 (パシオ)師は道中、あらゆる地方でキリシタンたちに出会った。大垣では一つの教会を見出して、そこでミサ聖祭を捧げた。美濃の国(の他のところ)からはキリシタンたちが(人を介して)、司祭がその地に来てくれるようにと頼んで来た。だが美濃の殿やすべての貴人が出陣しているので都合がつかなかった。だが司祭はコンスタンチイノを通じて彼らを訪問させた。
⑤ 第二部120章 (『フロイス 日本史5 五畿内篇Ⅲ』・第64章)
 尾張の国にはデウスの教えの悪辣な敵である一人の異教徒がいた。その人物は、既述のコンスタンチイノが作り養成したキリシタン村の管理を司っていた。この異教徒は、キリシタンたちを迫害し、彼らが祈るコンタツや教会の聖像を没収したり、(教会の)祭壇に自分らの偶像を置いたりした。なおそのほかにも、キリシタンたちに多くの誹謗と不正を加えた。ところが彼は本年、巡察使[アレキサンドロ・ヴァリニャーノ]の来日が待たれていることや、(巡察使が)暴君から快く迎えられて、伴天連たちが旧状に戻されるかもしれないということを耳にしたらしく、キリシタンたちに、自由に祈ったり、コンタツを持参するようにと言いつけ、教会を開いて偶像を撤去させ、元どおり聖像を安置させた。これによってキリシタンたちは無上に喜んだ。
⑥ 第三部30章 (『フロイス 日本史5 五畿内篇Ⅲ』・第67章)
 尾張の国には非常に古くからのキリシタンであるコンスタンチイノがおり、すでに幾年も前からその立派な模範と教えによって、あたかも父のようにこれらキリシタンを激励して来たが、彼の高徳と勇気がなかったならば、(この国の)キリシタンたちはすべてその霊魂に大いなる害を受けていた(に違いない)。だが彼らを改宗させ、ほとんどその全員に洗礼を授けたこの善良な老人(コンスタンチイノ)に励まされ、彼らは忍耐強く信仰を保ち、デウスの御加護に期待していた。彼らは日本人のファンカン・レアン修道士が来訪し、その説教と談合によって大きい喜びを与えられた。
 だが万事につけてこれらのキリシタンに対して特別な配慮を示し給う我らの主なるデウスは、(さらに)このたびも彼らを慰められた。というのは、過ぐる日、老(関白)の甥にあたる新関白(秀次)は、美濃の国に出向いた時に、庄シヨ(林ウヤ)コスメ[三好長慶・義継に仕えた側近・書記官。1564年にガスパル・ヴィレラから洗礼を受け、畿内キリシタンの初期指導者の一人となった]と称する五畿内でもっとも有徳で古いキリシタン貴族の一人を伴った。この人物の勇気と徳行についてはすでに(別のところで)述べたが、このたびの迫害が始まると、彼は今一人の(キリシタンの)貴人池田丹後シメアン殿[三好長慶の重臣で若江城主《若江城は現大阪府東大阪市にあった平城》。1564年にヴィレラから洗礼を受け、河内地方における有力なキリシタン武将として知られる]のとともに、当時は孫七郎殿と呼ばれていた自分たちが仕える主君(秀次)に、公然と次のように言った。「我ら両名はキリシタンであって、キリシタンとして死ぬ覚悟がある。(このたび)関白殿は伴天連様方を追放に処せられたが、殿が我ら両名を政庁に留め置かれることを(関白殿が)快く思われぬかも知れぬゆえお暇をいただく許しを乞いに参上いたした」と。(孫七郎殿は)彼らに、キリシタンとして生活して差し支えぬゆえ、予に仕えることを思い留まらぬように」と答え、丹後殿に対しては、その非凡の勇気に応じて八千俵の禄を与え、他(の者)には扶養費として六百俵を与え、つねに側近におらしめた。(孫七郎殿は、)(丹後殿が)思慮、分別に富み、しかもすでに年老いていたので、彼と語らうのを好んだ。このたび(孫七郎殿が)彼への増俸を考慮していた時、我らの主(デウス)は花正と呼ばれる地を彼に授けるよう(主君の)心に働きかけ給うた。その地はコンスタンチイノが他のキリシタンたちとともに住んでいるところであった。
このようにして(尾張のキリシタンたちは)異教徒の暴君の軛くびきから解放され、彼ら一同にとっては厳格な主人というよりも慈父とも称すべきこの有徳のキリシタンに委ねられることになったので、皆の喜びと慰めはこの上もなく、ただちに偶像を焼き払い、自分たちの教会の内部を整理した。
⑦ 第三部42章 (『フロイス 日本史12西九州篇Ⅳ』・第109章)
 (フランシスコ・ペレス)師は、(岐阜から)、既述のように庄林コスメの領地である花正のキリシタンたちを訪ねて行った。その地に滞在中に幾人かの異教徒が我らの聖なる信仰に改宗した。彼らのうちの2人は貴人で、その一人は受洗後まもなく死亡し、他の一人はキリシタンたちに深い感銘を与える生活をしている。これら美濃と尾張のキリシタンが遠方の異教徒たちの中にあり、(しかも)長い迫害の時期に司祭を持たないにもかかわらず、信仰を堅持し、熱心に過ごしているのを見て、(ペレス)師は驚嘆した。彼らのこうした熱心さは、その一部は善良な老人コンスタンチイノの懸命の努力と深い注意に負うところが大きかった。彼は既述のように、彼らに対しては立派な牧者の務めを果し、(俗人であるから)洗礼以外の秘蹟を授けることこそできなかったが、一司祭が行なうのとほぼ同様の働きぶりを示したのであった。

長くなったが、以上の7箇所が、フロイス『日本史』に記されたコンスタンチノに関するすべての記事である。読み進めるうちにお気づきの方もいるだろうが、これらの記述には、フロイスが別に著したイエズス会の「日本年報」や書簡と同じ内容が随所に見られる。
以下に、ここまでの史料を整理し、コンスタンチノのあゆみをまとめてみたい。


① 沢城での奉仕と信仰形成
 コンスタンチノが歴史の表舞台に現れるのは、奈良近郊の沢城においてである。高山飛騨守ダリオ(右近の父)がこの城内に教会を設けた際、彼はその管理を委ねられ、清掃や整備、祈祷指導、兵士への教理教育など、修道士に近い働きを日々行った。50歳ほどの剃髪した徳の高い人物として描かれ、兵士たちからは父や教師のように慕われた。沢城での奉仕は、コンスタンチイノがどのような信仰者であり、どのように人々に接したのかが初めて具体的に示された場であった。兵士たちの祈りを導き、教会の世話を惜しまず務めるその姿から、後年の彼を特徴づける気質がすでにうかがえる。
② 尾張花正への帰郷と在地布教の開始 
 沢城が敵に奪われ、高山ダリオが摂津へ退去することになった際、コンスタンチノは自らの出生地である尾張へ戻る許しを願い出る。こうして彼は花正へ帰郷し、日本語訳のカテキズムや祈祷書、教義書を携えて自宅に小祭壇を設け、祈りと説教を始めた。当時この地にはキリシタンは一人もいなかったが、彼は親族や近隣住民にデウスの教えを語り、仏僧との討論にも臆することなく応じた。花正での働きは、コンスタンチイノが一人で人々に教えを語り、祈りを教え、家々を回って説くようになった最初の場であった。ここで彼は、誰の支えもなく自らの力で信仰を広めていき、のちに大きな共同体へ育っていく伝道活動を始める。
③ 司祭不在の地での牧者的働き
 信仰を深めるため、コンスタンチノは厳寒の中でも京都まで7日かけて往復し、告白と聖体拝領を受け、異教徒との論争で生じた疑問を司祭に尋ねて学び続けた。やがて司祭から洗礼の許可を得ると、花正と周辺の村々で洗礼を授け始める。花正では、コンスタンチイノは祈りを教え、教理を説き、病人を訪ね、亡くなった人の葬りにも立ち会いながら、周囲の人々の信仰生活を一つひとつ支えていった。司祭がいない土地で、誰かが担わねばならなかった務めを、彼は在俗の身で黙々と引き受け、村の人々が信仰を保って暮らしていけるように力を尽くした。
④ 花正キリシタン共同体の形成と拡大
 コンスタンチノの働きは次第に実を結び、花正と周辺の村々には祈りを覚え、教理を理解する人々が増えていった。彼は4里、6里、8里離れた村々まで出向いて説教し、洗礼を授け、弟子たちも育っていった。人々は新しいキリシタン集団を「コンスタンチイノのお弟子さん」と呼び、彼の教えを受けた者たちは深い信心と熱意を示した。こうした働きにより、10年から12年ほどの間に、かつて一人もキリシタンがいなかった地域に600人を超える共同体が形成され、尾張東部の信仰拡大の中心となった。
⑤ 迫害期の信仰防衛と勇気
 花正の共同体は迫害にも直面した。村役人が祭壇を砕き、聖像を没収し、偶像を教会に置くなどの弾圧を加えた。コンスタンチノはこれらの偶像を密かに焼き捨て、共同体を励まし続けた。役人が彼のロザリオ(コンタツ)を奪おうとした際には、「まず私の首を刎ねてからコンタツを取れ」と言い放ち、信仰を守る勇気を示した。この混乱期にも、彼は一人の名望ある貴人を改宗させており、迫害下でも布教の熱意を失わなかった。
⑥ 庄林コスメによる保護と共同体の再興
 秀次の家臣であり、古参の有徳なキリシタン貴族である庄林コスメが花正を領地として与えられ、共同体は暴君の支配から解放される。キリシタンたちは偶像を焼き払い、教会を整え、信仰生活を回復した。こうして花正の共同体は再び安定を取り戻し、司祭たちも時間が許す限り訪問して秘跡を授けるようになった。花正での人々とのかかわりの中で、コンスタンチノは在地の信徒たちと武家身分のキリシタンが互いに助け合うようになり、そのつながりが少しずつ形を取っていった。彼の働きが続くにつれ、花正の共同体は武家の側からも支えられるようになり、地域の信仰はより確かなものになっていった。
⑦ 晩年の評価と歴史的意義
 晩年、コンスタンチノの働きは司祭たちから高く評価された。パシオ師やペレス師は花正を訪れ、長い迫害の中でも共同体が信仰を堅持していることに驚嘆し、その熱心さの多くがコンスタンチノの深い注意と懸命の努力によるものであると記した。彼は洗礼以外の秘跡こそ授けられなかったが、司祭が行うのとほぼ同様の働きを示し、20年以上にわたり在地の牧者として共同体を支え続けた。


まとめ ― 尾張花正の在俗牧者として
 以上のように、コンスタンチノは尾張花正の在地キリシタン共同体を一人で立ち上げ、迫害と困難の中で信仰を守り育てた、きわめて高徳で勇気ある在俗指導者であった。彼の働きは美濃・尾張のキリシタン史において中心的な位置を占め、司祭不在の地における信仰の灯を絶やさず、地域一帯に広げた人物として記憶されるべき存在である。