前回に続き、尾張のキリシタン黎明期に登場する人物コンスタンチノを取り上げる。今回は、ルイス・フロイスの『日本史』に記されたコンスタンチノの記述について見ていきたいと思う。フロイスの『日本史』については、以前に拙稿「岐阜キリシタン小史」で触れたが、あらためてその概要を整理しておく。
フロイス『日本史』 História de Japam
1. 成立と性格
フロイス『日本史』は、1560年代から1590年代にかけてフロイスが継続的に執筆した大規模な叙述史料であり、戦国期日本の政治・宗教・社会を宣教師の視点から記録したものである。彼は各地での宣教活動に従事しながら、為政者との接触、仏教諸宗派との論争、地域社会の慣習、信徒共同体の形成などを詳細に観察し、それらを長期にわたり書き留めた。本書は、同時代の日本を比較的近い距離から捉えた点に特徴があり、記述の具体性と量的な豊富さから、戦国期日本研究において不可欠の史料とされている。
2. 全巻構成
『日本史』は、一般に以下のような大きな構成を持つ。
第1部:日本の風俗・宗教・社会の概説
日本の宗教状況(仏教諸宗派の特徴)、社会慣習、政治制度、地域差などを概説する部分。フロイスの日本理解の基礎が示される。
第2部:宣教活動の開始と展開
ザビエル以降の宣教の歩み、各地での布教、信徒の増加、仏教側との論争、領主との関係などを叙述。
第3部:戦国大名との関係
織田信長との接触、安土での活動、信長の宗教政策、京都・畿内の政治情勢などが中心。
第4部:豊臣政権期の動向
秀吉政権下の宗教政策、伴天連追放令、九州の情勢、キリシタン大名の動向など。
第5部:地域別の詳細な記録
九州・畿内・東国など、地域ごとの社会状況や宣教の実態を詳述。
3. 写本の系統
フロイスはポルトガル語で『日本史』を執筆したが、自筆原稿は現存しない。原本は18世紀までの間に失われたと考えられており、現在伝わるのは複数の写本である。
代表的な写本には次のものがある。
① エヴォラ写本(Évora Manuscript)
ポルトガルのエヴォラ公共図書館(Biblioteca Pública de Évora)に所蔵される写本で、現存する『日本史』諸写本の中でも最も重要なものの一つである。日本語訳『完訳フロイス日本史』(中央公論社・中央公論新社)は、この写本を主たる底本とし、他の写本とも比較・校訂している。
② ローマ写本(Roman Manuscript)
ローマのイエズス会歴史文書館(Archivum Romanum Societatis Iesu:ARSI)に所蔵される写本。エヴォラ写本と比較すると、、本文に語句の違いや脱落などの異同が認められ、本文校訂の重要な資料となっている。
③ ラテン語訳・抄訳
17世紀以降、『日本史』の一部はラテン語に翻訳・抄録され、ヨーロッパで利用された。ただし、原著全体を忠実に翻訳したものではないため、本文研究では補助資料として扱われる。
※写本段階での異同が多いため、研究では「どの写本系統に依拠するか」を明示することが重要となる。
4. 日本での出版状況
① 戦前の最初期訳
フロイス『日本史』の邦訳は、1932年の高橋慶雄訳『日本史 前篇』(日本評論社)に始まる。これは1926年刊行のドイツ語版をもとにした重訳であり、後篇は刊行されず、紹介は部分的なものにとどまった。そのため、戦前には『日本史』全体を日本語で読むことはできなかった。
② 戦後の東洋文庫による部分訳
戦後になると、平凡社東洋文庫から『日本史 キリシタン伝来のころ』全5巻(1963〜1970年)が刊行され、フロイスの記述が広く紹介されるようになった。訳者は柳谷武夫や柳沼重剛らで、当時利用可能であったヨーロッパ刊本をもとに翻訳された。内容はキリシタン伝来初期に限られる部分訳であったが、多くの読者にフロイスの著作を紹介する役割を果たした。
③ 松田毅一・川崎桃太による初の全訳
1977〜1980年、松田毅一・川崎桃太訳『日本史』全12巻(中央公論社)が刊行され、日本で初めて『日本史』の全訳が実現した。この翻訳は、エヴォラ写本などの原写本をもとに校訂された本文に基づいている。
ただし、原著の三部構成や巻・章立てをそのまま翻訳・刊行したものではなく、内容を再編集して「豊臣秀吉篇」「五畿内篇」「豊後篇」「西九州篇」の四篇・全12巻として刊行された。したがって、中央公論社版の巻構成は原著の巻・章番号とは一致していない。その後、内容はそのままに装丁を簡略化した普及版も刊行された。
④ 中公文庫版『完訳 フロイス日本史』
2000年以降、この全訳は中公文庫『完訳 フロイス日本史』全12巻として刊行された。文庫版では巻構成があらためて見直され、「織田信長篇」「豊臣秀吉篇」「大友宗麟篇」「大村純忠・有馬晴信篇」を中心とする構成に再編集された。このため、中公文庫版も原著の巻・章立てとは一致せず、中央公論社版とも巻構成が異なる。文庫化によって入手しやすくなり、研究や講義でも広く利用される日本語版となったことから、
フロイス『日本史』は研究者だけでなく一般読者にも広く読まれるようになった。




今回は、フロイスの『日本史』に記されているコンスタンチノに関する記述を抜き出し、検討していく。使用したのは、松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』全12巻(中央公論社)の普及版(上記③)である。
私たちは今、簡単にフロイス『日本史』を読むことが出来るが、その背後には訳者である松田毅一先生、川崎桃太先生の並々ならぬご苦労があったことを忘れてはならない。
フロイスの原文(正確には写本)は、16世紀特有の読みづらいポルトガル語で記されており、語法・綴りも当時の慣習に従うため、現代のポルトガル語話者でも容易には読めない。しかも写本の一部には欠損や乱丁があり、文脈の復元には他の宣教師書簡や『日本年報』との照合が不可欠であったという。私たちが今日、信頼し得る本文の『日本史』を手にできるのは、長年にわたる地道で膨大な校訂作業のおかげである。
引用文中の( )は原文の補足、[ ]は筆者による補足である。また、引用文ではコンスタンチノが「コンスタンチイノ」と表記されているため、そのまま採録している。
なお、フロイス『日本史』の記事には年号が付されていない。文脈から年代を推定することも不可能ではないが、本稿の目的は史実の厳密な年代比定ではなく、フロイスの記述そのものを読み取り、コンスタンチノの歩みを理解することにある。そのため、年号の補填は行わなかった。

(版名は不明)
以下の史料の順は、原典の配列順に準拠した。
1.史料引用
(1) 史料1:沢城での奉仕と教会管理(出典:『フロイス日本史3 五畿内篇Ⅰ・普及版』第15章、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社、1981年、186頁、[原典:第1部39章])
(引用開始)[高山ダリオは]城内に極めて清潔で、美しく装われた教会を建てたからである。そして彼はその(教会)をコンスタンチイノという一人のキリシタンに委ね、(コンスタンチイノ)はそこの清掃と整理のことだけに専念しておけばよかったのであるが、それでもなおダリオは満足しなかった。(引用終わり)
(2) 史料2:尾張花正への帰郷と地域での活動(出典:『フロイス日本史9 西九州篇Ⅰ・普及版』第22章、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社、1982年、343-346頁、[原典:第1部96章])
(引用開始) 高山ダリオ殿は大和の国でキリシタンになった時に、すでに述べたように、沢城内に美しく、また非常に立派に調えられた教会を設置した。そして彼はその世話をコンスタンチイノという教名の、もう50歳くらいになる剃髪の徳の高い人に委ねた。当時キリシタンになった兵士たちは、彼が一同に祈るように励ましたり、信仰のことを教えたりしたので、彼を自分たちの父親とも教師とも見なしていた。その後、敵がかの城を奪い、ダリオが摂津国の高山という郷里に行くことになった時に、コンスタンチイノはダリオに、自分の出生地であり、妻や親戚の者がいる尾張に行く許しを乞うた。彼は信心深く謙虚で、(布教の)熱意に溢れ、デウスに対して聖なる畏怖の念を抱いている人であったから、(郷里に帰ると)同時に異教徒たちにデウスのことについて話をしようとの意図をもって出発した。そしてその地には一人のキリシタンもいなかったので、彼は日本文字で日本語に訳されたカテキズモ(の書)、ならびに「クレド」[信仰告白]、「パーテル・ノステル」[主の祈り]「アヴェ・マリア」、(その他)教会の掟や秘蹟に関する幾つかの説明(書)を携えて行き、自分が育ったと
ころで、妻がいたある村ポヴオアサンに居を定めた。そこは花正というところであった。彼は自宅に一種の小祭壇を設け、そこでデウスに祈りを捧げることを常とし、携えて来た彫像イマージエンの前で、近隣の人たち、親族、友人たちにデウスのことについて説教した。
コンスタンチイノは二年ほど(そのような生活を)持続した。ある人々は彼を嘲笑し、また別の者は罵詈雑言を浴びせた。その地にいた仏僧たちは彼を脅かしたり軽蔑したりしたが、彼らは彼と話をすると、きまって彼の根拠とすることに打ち負かされ、その忍耐と愛情に教化されるのであった。他の人々は彼(の話)を聞くことを喜び、しばしば彼と交際した。この二、三年間に、その善良な老人は、ただ告白をし聖体を拝領するための目的で、厳寒の折、雪や雨の中を、そして悪路の上に盗賊どもに脅かされながら、大きい喜びと満足のうちに七日もかかる旅路を重ねて尾張の国から都ミヤコにやって来た。それはある時は降誕祭であり、別の時は聖週間であり、時には四旬節の大部分を都の教会で過すこともあった。そしてその際、彼はいつも、異教徒たちから持ち出されて自分が充分に答えられなかったと思う疑問(点)を書きしたためて携え、そのことで司祭に質問した。そして彼ははなはだ貧しかったにもかかわらず、司祭たちが彼に、旅路で必要なものとか、彼が所持していないものを施し物として受け取らせようとしても、それは苦労してやっとのことで説きつけることができたのであった。
彼は三年間、その行を守り続け、言葉によって教えたり、自ら徳の高い生活の範を垂れることによってデウスの言葉を説いた。その年月が経つと、彼にはゼウスの言葉の種子が実を結ぶ時が来たように思えた。そこで彼は復活祭に都に行った時に、ルイス・フロイス師に(次のように)願った。「洗礼の授け方を教えていただきたいし、また洗礼に関することをよく教授してほしいのです。それにどうかメダイ[聖母マリアや聖人の姿・記号が刻まれた小さなメダル]、コンタツ[ロザリオ]、また死者を埋葬する時のために短白衣を一着をお与えください。といいますのは、私の(郷里花正の)地には、すでにカテキズモを教わって、祈りを知っている人が幾人かおりまして洗礼を受けることができるからです」と。彼は洗礼を授ける許可を得、その他の願いも聞き入れられて帰(郷)するやいなや、幾人かの男女、子どもたちに洗礼を始めたが、そのある人々は花正の者であり、他の人々は遠隔の地から(来たのであった)。そして彼は、次の降誕祭に(都に)来た時には、10人ないし12人の教え子を伴ったが、彼らは彼が過ぐる年月に回収させたキリシタンたちであって、ミサに与かったり司祭に会って告白するために来たのである。この人々は実に信心深く感激と熱意に満ちていて、あれほど(立派な)教師(コンスタンチイノ)の弟子であることを如実に示していた。都キリシタンたちは、彼らがその地に滞在していた日々には、彼らを自分たちの家に宿泊させたが、彼らに会って少なからず教化された。
このデウスの僕が、かの(花正で)福音を説きはじめるやいなや、その仕事でどれほど多くの反抗を味わったかは容易に語り得ないであろう。異教徒たちは彼に不法を行ない、難儀をかけ不断に迫害したが、彼はそれらを堪えて、彼の当初の熱意を冷却させることはできなかった。こうして彼は短い期間に(キリシタンの数を百人満たすことを成就した。彼は人々に説教し、洗礼を授け、毎日、大人と子どもたちに「ドチリナ・キリシタン」[日本語で書かれたカトリックの教理書。信仰の基本(祈り・戒律・教え)を日本人向けにまとめてある]を教え、死者を埋葬し、病人たちを見舞い、仏僧たちと討論したが、彼はとりわけ深い謙遜と修道士のような慎みをもってこよなく祈りを好んだ。異教徒たちは、その新しいキリシタン集団を「コンスタンチイノのお弟子さん」と呼んだ。毎年彼は二度都に行ったが、その際にはいつも教会の行事を見せることによって信仰心を強めさせようとして、まだ信仰の浅い人たちを伴って行った。(コンスタンチイノらの)活動はなおますます弘(ひろ)まり始め、彼もしくは彼の弟子は、初めて説教を聞きたいと思っている人に説教するために、(花正から)4、6また8里離れた所まで出かけて行き、彼らが(教理を)教わり祈りを覚えると(コンチタンチイノ)は彼らに洗礼を授けた。このようにしてデウスの(信仰の)灯は拡がっていって、数年前にはただの一人もキリシタンがいなかったところに、10年ないし12年でもう600人を超えるキリシタンがいるようになった。
フランシスコ・カブラル師が信長を訪れるために美濃の国に赴いた時に、コンスタンチイノは、(花正の)自分の新しい布教地を司祭に見に来てもらいたいと願って、さっそく尾張の国から司祭のところに行った。しかし司祭はすでに都への(帰)路についていて、当時は不可能であった。その後、オルガンティーノ師が彼を訪ねて行き、爾後、司祭たちは時間に余裕があれば、その地のキリシタンたちの告白を聴いたり、その他の秘跡を授けたり、コンスタンチイノがもう20年以上持続しているその仕事を助けることなどを続けた。(引用終わり)
(3) 史料3:村役人からの圧迫と信仰の守護(出典:『フロイス日本史5 五畿内篇Ⅲ・普及版』第63章、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社、1981年、244頁[原典:第2部111章])
(引用はじめ) 尾張のコンスタンチイノを(都へ)呼ばせました。彼は聖土曜日にここに来て、かの(地の)キリシタン全員が花正村の役人から苛酷な迫害を被ったことについて私に報告しました。その役人は祭壇を砕き、その場に多くの偶像を置きました。この善良な老コンスタンチイノは、それらの偶像を一つひとつ密かに焼き捨て、彼の勧告について全てのキリシタンたちが蹶起(けっき)いたしました。しかし彼らは教会に集まることができません(でした)。かの悪魔(役人)めは、コンスタンチイノのから祈りのコンタツ[ロザリオ]を吸収しようとしましたが、彼は、「まず私の首を刎(は)ねてからコンタツを取れ」と答えました。 (引用終わり)
(4) 史料4:訪問した司祭による励まし(出典:『フロイス日本史11 西九州篇Ⅲ・普及版』第63章、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社、1982年、80頁[原典:第2部90章])
(引用はじめ) (パシオ)師は尾張の国の花正と称される地に赴いた。そこには、同地(域)の全キリシタンの父であり育ての親とも称されるべき古参のコンスタンチイノが住んでいる。司祭はそこで9日間、彼らと共に過し、その間、毎日説教をし、改悛の秘跡を受けるための準備を施し、全員の告白を聴き、彼らと共に聖霊の祝日[ペンテコステ]を祝った。(引用終わり)
(5) 史料5:環境の改善と教会の復元(出典:『フロイス日本史5 五畿内篇Ⅲ・普及版』第64章、松田毅一・川崎桃太訳中央公論社、1981年、263頁[原典:第2部120章])
(引用はじめ) 尾張の国にはデウスの教えの悪辣な敵である一人の異教徒がいた。その人物は、既述のコンスタンチイノが作り養成したキリシタン村の管理を司っていた。この異教徒は、キリシタンたちを迫害し、彼らが祈るコンタツや教会の聖像を没収したり、(教会の)祭壇に自分らの偶像を置いたりした。なおそのほかにも、キリシタンたちに多くの誹謗と不正を加えた。ところが彼は本年、巡察使[アレキサンドロ・ヴァリニャーノ]の来日が待たれていることや、(巡察使が)暴君から快く迎えられて、伴天連たちが旧状に戻されるかもしれないということを耳にしたらしく、キリシタンたちに、自由に祈ったり、コンタツを持参するようにと言いつけ、教会を開いて偶像を撤去させ、元どおり聖像を安置させた。これによってキリシタンたちは無上に喜んだ。(引用終わり)
(6) 史料6:尾張キリシタン共同体の指導(出典:『フロイス日本史5 五畿内篇Ⅲ』第67章、松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社、1981年、294-295頁[原典:第3部30章])
(引用はじめ) 尾張の国には非常に古くからのキリシタンであるコンスタンチイノがおり、すでに幾年も前からその立派な模範と教えによって、あたかも父のようにこれらキリシタンを激励して来たが、彼の高徳と勇気がなかったならば、(この国の)キリシタンたちはすべてその霊魂に大いなる害を受けていた(に違いない)。だが彼らを改宗させ、ほとんどその全員に洗礼を授けたこの善良な老人(コンスタンチイノ)に励まされ、彼らは忍耐強く信仰を保ち、デウスの御加護に期待していた。(引用終わり)
(7) 史料7:司祭不在の地における長年の功績(出典:松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史12 西九州篇Ⅳ』第109章、中央公論社、1982年、253頁[原典:第3部42章])
(引用はじめ)これら美濃と尾張のキリシタンが遠方の異教徒たちの中にあり、(しかも)長い迫害の時期に司祭を持たないにもかかわらず、信仰を堅持し、熱心に過ごしているのを見て、(ペレス)師は驚嘆した。彼らのこうした熱心さは、その一部は善良な老人コンスタンチイノの懸命の努力と深い注意に負うところが大きかった。(引用終わり)
- 史料の検討と考察
史料1〜7で明らかになることを、以下に整理する。
(1) 沢城での奉仕と教会管理
史料1では、沢城におけるコンスタンチノの位置づけが、城内教会の管理を任された信徒として示されている。
高山飛騨守(ダリオ)が沢城内に設けた教会は、「極めて清潔で、美しく装われた」と記され、領主自身が礼拝空間の整備に強い関心を寄せていたことがうかがえる。その教会の管理を委ねられたのがコンスタンチノであり、史料は彼が「清掃と整理のことだけに専念しておけばよかった」と述べる。つまり、彼に与えられた役割は、教会内部の環境維持に限定されていた。
この任務は、単なる雑務ではなく、領主が重視した礼拝空間の整えを担うものであり、教会の尊厳を保つための重要な役割であったと読み取れる。史料は、飛騨守がそれでも「満足しなかった」と記すが、その理由は明示されない。ただ、礼拝空間の整えには清掃以外にも、祈りの場としての秩序や雰囲気など複数の要素が含まれるため、領主の要求水準が高かったことが推測される。
この段階のコンスタンチノは、教理教育や布教を担う人物としてではなく、教会の維持という基礎的な奉仕を担う信徒として描かれている。沢城での役割は、後年の花正での活動に比べれば限定的である。
(2) 尾張花正への帰郷と地域での活動
史料2では、コンスタンチノが尾張花正に帰郷し、司祭不在の地域で祈り・教え・洗礼・巡礼など多面的な宗教活動を長期にわたり担った様子が、非常に詳細に記されている。
沢城からの帰郷を願い出た際、彼は妻や親族のいる出生地に戻るという生活上の理由に加え、「異教徒たちにデウスのことについて話をしよう」との意図を持っていたとされる。帰郷が布教の機会として意識されていたことが明確である。
花正に到着すると、彼は自宅に小祭壇を設け、携行した彫像を安置し、カテキズモ、日本語訳の祈り(クレド、パーテル・ノステル、アヴェ・マリア)、教会の掟や秘蹟の説明書を用いて、近隣の人々や親族に教えを説いた。司祭が常駐しない地域で、自宅を祈りと教えの場として機能させたことが読み取れる。
史料は、彼が「信心深く謙虚」であり、「布教の熱意に溢れ」「聖なる畏怖の念を抱いていた」と述べる。こうした人物像は、在地での布教活動の背景として提示されている。
彼の活動は反発を招いた。ある者は嘲笑し、別の者は罵詈雑言を浴びせ、仏僧は脅かし軽蔑した。しかし、史料は「彼と話をすると、きまって彼の根拠とすることに打ち負かされ、その忍耐と愛情に教化される」と記す。教理を論理的に説明し、議論において相手を説得しうる理解を備えていたことが示される。
コンスタンチノは都への巡礼を繰り返した。厳寒の折、雪や雨の中、盗賊の危険を冒しながら七日かけて都へ赴き、告白と聖体拝領を受けた。降誕祭、聖週間、四旬節の大部分を都の教会で過ごすこともあり、秘蹟への参加が彼の信仰生活の中心にあったことが分かる。また、異教徒から受けた疑問点のうち、自ら十分に答えられなかったものを紙に書き留め、司祭に質問するために携えていったと記される。これは、在地での布教と都の司祭との関係が連続しており、教理理解を深めるために司祭の教えに依拠していたことを示す。
彼は「はなはだ貧しかった」にもかかわらず、司祭が旅路に必要な物資を施そうとしても容易には受け取らず、説得されてようやく受け取ったと記される。生活状況と物に対する態度がうかがえる。
三年間にわたり、彼は言葉による教えと生活の模範によってデウスの言葉を説き続けた。その後、復活祭に都へ行った際、ルイス・フロイスに洗礼の授け方と洗礼に関する教えを求め、メダイ、ロザリオ(コンタツ)、死者埋葬用の短白衣を求めた。花正にはすでにカテキズモを学び祈りを知っている者がおり、洗礼を受ける準備が整っていると説明している。
洗礼の許可と必要物品を得て帰郷すると、彼は男女や子どもたちに洗礼を授け始めた。史料は、洗礼を受けた者の一部が花正の住民であり、他は遠隔地から来た者であったと記す。次の降誕祭には、彼は10〜12人の教え子を伴い都へ赴き、彼らはミサに与り、司祭に告白した。彼らは「信心深く感激と熱意に満ちて」おり、「教師コンスタンチノの弟子であることを如実に示していた」とされる。
異教徒たちは新しいキリシタン集団を「コンスタンチノのお弟子さん」と呼んだ。彼の名が共同体の呼称に結びつくほど、在地のキリシタン集団が彼を中心として形成されていたことが分かる。
コンスタンチノは毎年二度都へ行き、その際には信仰の浅い人々を伴い、教会の行事を見せることで信仰心を強めようとした。さらに、花正から4〜8里離れた場所まで出向き、初めて説教を聞きたい人々に教えを伝え、祈りを覚えさせ、洗礼を授けた。史料は、数年前には一人のキリシタンもいなかった地域に、10〜12年で600人を超えるキリシタンが生まれたと記す。
また、フランシスコ・カブラルが信長を訪ねるため美濃に赴いた際、コンスタンチノは自らの布教地を司祭に見てもらいたいと願い、尾張から司祭のもとへ行ったが、司祭はすでに都への帰路についていたため実現しなかった。その後、オルガンティーノ師が彼を訪ね、以後司祭たちは時間の許す限り秘蹟を授け、コンスタンチノが「もう20年以上持続しているその仕事」を助けたと記される。
史料(2)は、コンスタンチノの活動を最も詳細に伝える史料であり、彼が祈り・教え・洗礼・巡礼・埋葬・病人見舞い・仏僧との討論など、司祭不在の地域で宗教生活の多くの側面を担い、長期にわたり共同体を形成・維持していた姿を具体的に示している。
(3) 村役人からの圧迫と信仰の守護
史料3では、花正の共同体が村役人による迫害を受け、その中でコンスタンチノが具体的行動を取ったことが記されている。
村役人は祭壇を砕き、その場に多くの偶像を置いた。これは、キリシタンの礼拝空間を破壊し、異教の像で占拠する行為である。コンスタンチノは、この状況に対し、偶像を一つひとつ密かに焼き捨てた。史料はその行為を明記し、彼が偶像を容認せず、隠れて処分したことを伝える。
史料は、彼の勧告に応じて「全てのキリシタンたちが蹶起」したと記す。コンスタンチノの言葉が共同体の行動を促し、迫害に対して一致して対応しようとする動きが生じたことが読み取れる。
村役人は、コンスタンチノのロザリオ(コンタツ)を奪おうとしたが、彼は「まず私の首を刎ねてからコンタツを取れ」と答えたと記録される。ロザリオは祈りの道具であり、彼の祈りの生活に密接に結びついていたと考えられる。そのロザリオを奪う試みに対して、命を奪われることを先に挙げる返答が記録されている点は、史料がこの場面を重要なものとして捉えていたことを示す。
(4) 訪問した司祭による励まし
史料4では、パシオ師が花正を訪れた際、コンスタンチノが共同体の「父」として認識されていたことが記されている。
パシオ師は、花正のコンスタンチノを「同地の全キリシタンの父であり育ての親とも称されるべき古参」と記す。「古参」という表現は、長年にわたりその地に住み、信仰生活に関わってきた人物であることを示すとともに、「父」「育ての親」という語は、共同体に対する養育的役割を担っていたことを示している。
司祭は花正で9日間滞在し、その間毎日説教を行い、改悛の秘跡を受けるための準備を施し、全員の告白を聴き、彼らと共に聖霊の祝日(ペンテコステ)を祝ったと記される。これは、花正のキリシタン共同体が、司祭の訪問に応じて秘蹟を受ける準備が整っており、説教を受け、告白を行い、祝祭を共に祝うだけの信仰生活の基盤を持っていたことを示す。
(5) 環境の改善と教会の復元
史料5では、コンスタンチノが作り養成した共同体が、外部状況の変化により礼拝空間を回復した過程が記されている。
尾張の国には、「デウスの教えの悪辣な敵」である異教徒がいて、コンスタンチノが作り養成したキリシタン村の管理を司っていた。この人物は、キリシタンたちを迫害し、ロザリオ(コンタツ)や教会の聖像を没収し、祭壇に偶像を置くなどの行為を行った。
しかし、巡察使アレキサンドロ・ヴァリニャーノの来日が待たれていることや、伴天連が旧状に戻されるかもしれないという噂を耳にしたらしく、管理者は態度を変える。史料は、彼がキリシタンたちに自由に祈り、ロザリオを持参するようにと言いつけ、教会を開いて偶像を撤去し、聖像を元通り安置させたと記す。
キリシタンたちは「無上に喜んだ」とされ、礼拝空間の回復が共同体にとって大きな出来事であったことが読み取れる。
(6) 尾張キリシタン共同体の指導
史料6では、コンスタンチノが尾張の共同体を長年にわたり導いてきた様子が記されている。史料は、彼が「立派な模範と教えによって、あたかも父のように」キリシタンを励ましてきたと述べる。「模範」と「教え」が並置されている点は、彼が生活態度と言葉の両方を通じて共同体に影響を与えていたことを示す。
「彼の高徳と勇気がなかったならば、この国のキリシタンたちはすべてその霊魂に大いなる害を受けていた」と記され、彼の徳と勇気が共同体の信仰保持に重要であったことが読み取れる。さらに、彼はほとんど全員に洗礼を授けた「善良な老人」とされ、共同体形成における中心的役割が示される。
(7) 司祭不在の地における長年の功績
史料7では、司祭不在の美濃・尾張地域で、コンスタンチノの長年の働きが共同体の信仰保持に寄与したことが記されている。
ペレス師は、美濃と尾張のキリシタンが「遠方の異教徒たちの中にあり、しかも長い迫害の時期に司祭を持たないにもかかわらず、信仰を堅持し、熱心に過ごしている」ことに驚嘆したと記す。その熱心さの一部は、「善良な老人コンスタンチノの懸命の努力と深い注意」に負うところが大きかったとされる。
史料は、彼が特別な聖職者ではなく、在地の信徒であったことを明記する。日常生活の中で人々に寄り添い、教え、導き、共同体の信仰生活を支え続けた姿が読み取れる。
3.まとめ
史料1〜7を通して見えてくるのは、コンスタンチノが一貫して「在地の信徒」として歩み続けた姿である。沢城では、領主高山飛騨守が重視した礼拝空間の整えを任され、教会の清掃と整理という限定された役割を忠実に果たしていた。史料は彼を教理教育者として描かないが、礼拝の場を保つという基礎的な奉仕を担う人物として記録している点は注目される。
花正に帰郷してからの史料は、彼の働きが大きく広がっていく様子を示す。自宅に小祭壇を設け、祈りと教理書を用いて周囲の人々に教えを伝えたこと、嘲笑や罵倒、仏僧からの脅迫にさらされながらも議論を通して相手を教化したこと、厳しい巡礼を重ねて秘蹟に与り、疑問点を司祭に問い続けたことなど、司祭不在の地域で信仰生活を支えるために必要な働きを一つひとつ積み重ねている。洗礼の授け方を学び、男女・子どもに洗礼を授け、祈りを教え、死者を埋葬し、病人を見舞い、仏僧と討論し、遠隔地にも赴いて説教した。こうした働きが10〜12年の間に600人を超える共同体を生み出したことは、史料が明確に伝えている。
迫害の場面では、祭壇を砕き偶像を置いた村役人に対し、コンスタンチノは偶像を密かに焼き捨て、ロザリオを奪われそうになった際には「まず私の首を刎ねてから取れ」と答えたと記される。これは、彼が信仰の象徴を守るために具体的な行動を取ったことを示す。司祭が花正を訪れた際には、共同体の「父」として認識されており、長年の働きが共同体の信仰生活を形づくっていたことがうかがえる。司祭不在の美濃・尾張地域で信仰が保たれていた背景には、コンスタンチノの「懸命の努力と深い注意」があったと史料は述べる。
これらの史料が私たちに問いかけるのは、信仰が「特別な立場の者だけが担うものではない」ということである。コンスタンチノは司祭ではなく、在地の一信徒であった。それにもかかわらず、祈り、学び、教え、支え、守り、導くという働きを、生活のただ中で続けた。私たちが応答すべきことは、彼のように「自分の置かれた場で、できることを手放さずに続ける」ことである。大きな業績を求めるのではなく、日々の祈り、学び、隣人への配慮、共同体への関わりを怠らず、信仰を生活の中で形にしていくことが求められている。コンスタンチノの歩みは、その具体的な姿を史料の中に示している。
