今回は「濃尾崩れ」のことをひとまず離れ、高山右近がマニラへ追放される際に親友の細川忠興へ送った手紙、いわゆる「日本訣別の書」について記してみたい。
先日、愛知県の豊田市博物館で開催されている「戦国を生きる 細川家と永青文庫の名宝 幽斎・三斎・利休、そして・・・」を見学してきた。私は茶道具、なかでも茶碗を見るのが好きで、心ひかれる品があれば少々遠方でも足を運ぶことにしている。今回の展覧会では、永青文庫所蔵の名品に加え、千利休ゆかりの茶道具も展示されると知り、以前から楽しみにしていた。
なかでも印象深かったのは、長次郎作と伝えられる黒楽茶碗「おとごぜ」である。実物を目の前にすると、その存在感は写真や図録で見るのとはまったく異なり、言葉では表しがたいものがあった。長次郎の他の黒楽茶碗と同様、少しかせたような黒の肌合いと、手びねりによる柔らかな造形が相まって、利休が求めた侘びの美が見事に凝縮されている。長次郎の黒楽茶碗は、どれも一見すると簡素でありながら、見れば見るほどに深い味わいが感じられる。とりわけ、見込みに目を落としたときの印象は忘れがたい。その小さな空間には、まるで小宇宙のような広がりがあり、じっと見つめているうちに、吸い込まれていくような感覚を覚える。今回、実物を目にすることができたのは、大きな喜びであった。
しかし、今回の訪問のもう一つの目的は、細川ガラシャや高山右近の書簡を見ることであった。そして実際に目にした右近の「日本訣別の書」は、私の予想をはるかに超えるものであり、展示ケースの前に立つと、なかなかその場を離れることができず、長い時間見入ってしまった。
高山右近(1552〜1615)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きたキリシタン大名であり、日本キリシタン史を代表する人物の一人である。父・高山飛騨守友照の影響を受けて少年期に洗礼を受け、生涯にわたってキリスト教信仰を守り続けた。摂津・高槻城主となった右近は、宣教師を保護し、教会の建設に力を尽くすとともに、自らの領内で福音を広め、多くの人々をキリスト教へ導いた。右近の信仰と人格は多くの人々に影響を与え、戦国時代のキリスト教の発展に大きな役割を果たした。
右近は単に信仰をもつ武将であっただけでなく、その人格と信仰の深さによって周囲に大きな影響を与えた人物でもあった。宣教師たちは右近を日本における「模範的なキリシタン」として高く評価しており、その感化によって多くの武士や民衆が洗礼を受けたと伝えられている。黒田官兵衛(如水)や小西行長をはじめとするキリシタン武将たちとも深い交流をもち、戦国期キリスト教の発展に大きな役割を果たした。
しかし、豊臣秀吉が1587(天正15)年に伴天連追放令を出すと、右近は信仰を捨てるか、領地と地位を失うかという厳しい選択を迫られた。右近は迷うことなく信仰を選び、大名としての所領や身分を失った。当時の武将にとって領地や家名は家の存続そのものを意味したが、右近はそれらよりもキリストへの信仰を優先したのである。
その後は前田利家・利長の庇護のもと加賀で暮らしたが、信仰を捨てることはなかった。徳川幕府が禁教政策を強化すると、1614(慶長19)年には国外追放を命じられ、日本を離れてマニラへ渡った。マニラでは総督や市民から熱烈な歓迎を受けたが、到着後まもなく病に倒れ、1615(慶長20)年に帰天した。
高山右近の生涯は、権力や財産、名誉よりも信仰への忠実を選び続けた歩みであった。その揺るぎない信仰と生き方は、後世のキリシタンたちを励まし続け、日本の教会史の中で今なお特別な輝きを放っている。
まずこの書状を読んで驚いたのは、その淡々とした筆致である。日本を追われることとなり、二度と故国の土を踏めないかもしれないという状況にありながら、文章には怒りも嘆きも見られない。気負いも焦りもなく、この世の執着を超えた静けさが漂っている。長年にわたり信仰のために苦難を重ねてきた右近が、ついにすべてを受け入れ、自らの生死を神に委ねている姿が目に浮かぶ。国外追放という過酷な運命の中にあっても心は揺らがず、一人のキリシタンとしてデウスの導きを信頼し続ける右近の深い信仰が、この短い書状の行間から伝わってくる。
また、楠木正行(くすのきまさつら)(正成の嫡男)の辞世の歌を引用し、正行が戦場で命を落として名を残したのに対し、自分は異国へ赴くと述べている点も印象的である。右近は日本を離れる苦しみを率直に見つめながら、その運命を受け入れようとしている。
特に「命懸天名ヲ流」という部分は印象深い。原文には「デウス」という語は用いられていないが、右近は信仰ゆえに国外追放されたキリシタンであった。このことを考えると、ここでいう「命懸」は単なる運命ではなく、自らの生死を命(神=デウス)の御手に委ねるという信仰告白として理解することができる。右近は行く末の分からない異国への旅を前にして、自分の命をデウスに託していたのである。
この手紙は、単なる別れの挨拶ではない。信仰のために地位や財産、そして故国を失っても信念を曲げなかった高山右近が、最後までデウスへの信仰を失わずに生きた証しを示す貴重な史料であると思う。



南坊(なんぼう) … 高山右近の号(別名)。茶の湯の世界ではよく知られた呼称で、右近が千利休の高弟「利休七哲」の一人であったことを示しているが、南坊の由来は不明である。
等伯(とうはく) … 右近の洗礼名「ジュスト(Justo)」に対応する漢字表記と考えられている。
