1631(寛永8)年の摘発
1631(寛永8)年は、濃尾地方のキリシタンにとって、本格的な弾圧が始まる転機の年であった。
この年、一宮(現在の愛知県一宮市)や高木村(現在の愛知県丹羽郡扶桑町)のキリシタン57人が尾張藩によって摘発された。そのうち、一宮のコスモ道閑、ポール兵右衛門、レオン庄五郎、高木村のシモン・コスモ久三郎の4人は火刑に処された。尾張藩でキリシタンが処刑されたのは、これが初めてであった。残る53人は投獄され、投獄者の中には道閑の妻や久三郎の妻子も含まれていた。そのうち44人は江戸へ送られたとされる。
この摘発の背景には、禁教令(1614[慶長19]年)が出された後も尾張地方では布教活動が続いていたことがある。かつて、コンスタンチノの活動拠点であった花はな正まさ村(現在のあま市美和地区)の信徒たちは熱心に信仰を伝え、多くの人々が洗礼を受けていた。
森德一郎氏の『尾濃切支丹年表・尾濃切支丹札所巡礼』によれば、1628(寛永5)年、一宮の医師コスモ道閑は丹羽郡高木村で布教を行い、2人を信徒とし、さらに2歳の子どもに洗礼を授けたという。また同書には、翌1629(寛永6)年、一宮の兵右衛門が2歳の子どもに洗礼を授けた後、同地で探索が行われ、1人が検挙されて名古屋へ送られたものの、改宗したため赦免されたとの記事も収められている。
前回も記したように、「濃尾崩れ」は1661(寛文元)年に始まったとする文献・資料が多いが、濃尾地域のキリシタン弾圧は、その以前から続いていたのである
【処刑された4名】
● コスモ道閑(一宮の医師)
一宮で医師をしていたキリシタンである。コスモはキリスト教の洗礼名と考えられ、道閑が日本名に当たる。1631(寛永8)年の摘発で捕らえられ、火刑に処された。妻も検挙され、投獄された人々の中に含まれていたと伝えられる。
● ポール兵右衛門(一宮の信徒・久三郎の父)
一宮にいたキリシタンで、息子は高木村に住んでいたシモン・コスモ久三郎とされる。ポールは洗礼名、兵右衛門は日本名である。息子とともに処刑されたことが、後世の史跡紹介に記録されている。職業や年齢など、さらに詳しい経歴は不明。
● シモン・コスモ久三郎(高木村の信徒・兵右衛門の息子)
一宮のポール兵右衛門の息子で、高木村(現在の愛知県丹羽郡扶桑町高木)に住んでいた。史跡紹介では「シモン・コスモ久三郎」と記される。久三郎の妻子も摘発され、投獄された人々の中に含まれていたという。父子ともに火刑に処されたと伝えられる。
● レオン庄五郎(一宮の信徒)
一宮にいたキリシタンで、レオンが洗礼名、庄五郎が日本名とされる。ポール兵右衛門、コスモ道閑らとともに火刑に処された。現時点で確認できる紹介資料からは、職業や家族関係などの詳しい経歴は不明。



4人が処刑された場所は、現在の愛知県一宮市緑二丁目にある一本松塚キリシタン処刑場跡とされる。現地には黒龍社の境内に処刑場跡や「水かけ十字碑」が伝えられている。1950(昭和25)年にはカトリック名古屋教区が十字架型の木札と石柵を設け、その後、木札の腐朽を受けて1967(昭和42)年に一宮史談会が「水かけ十字碑」を建てたという。
【記念碑の碑文】
天文18年(1549)わが國に傳わつたキリスト教は、まだ國情にそわなかつたため 豊臣秀吉 徳川家康によつて引き續き信教を禁じていたが 尾張の國一の宮には慶長以来あらゆる迫害にも屈せず ひそかに信仰をする人々が多かつた 中でも犬山方面まで布教していたポール兵右衛門 医師コスモ道閑 レオン庄五郎と兵右衛門の息子で丹羽郡髙木村に住むシモンコスモ久三郎の4人が寛永8年(1631)印田郷裏常光一本松塚(現在地)で 尾張藩では初めての火焙りの極刑に処せられた これら四信徒の霊を慰めるため 当時の村人がやがて水かけ地蔵を建立し 銘は「爲ニ世安楽也」と彫られ 宝暦年間この地より移転 印田常光庵にまつつた水かけ地蔵の名は尊像に水をかけて禮拜したことからつけられたもので以來水をかけて祈れば如何なる願いごとでも叶うといわれている。 西暦1968年11月記 (原文のまま)
