「濃尾崩れ」以前の濃尾地域には、すでにキリスト教信仰が広く、深く根づいていた。その歴史で極めて重要なのが、織田信長・信忠・秀信の三代にわたるキリスト教との関わりである。信長の宣教師保護を出発点として、信忠の時代には教会建設が進み、秀信の時代には領主自身が洗礼を受け、教会を中心とする信徒共同体が形成された。宣教師たちの記録には、岐阜で多数の人々が洗礼を受けたことに加え、尾張の領主や僧侶、さらには秀信の信仰に倣ってキリスト教徒となった美濃の武士たちの姿も記されている。
ここでは、「濃尾崩れ」の前段階として、濃尾地域にキリスト教がどのように伝えられ、領主の保護のもとでいかに広がっていったのかを、信長・信忠・秀信の三代に即して見ていく。
※織田家三代については拙稿『岐阜キリシタン小史』でたびたび触れてきた。適宜、過去の記述を参照されたい
岐阜キリシタン小史(1)「信長・信忠父子によるキリスト教保護」、
(2)「信長・信忠の遺児たちとキリスト教」、
(5)「笠松町ゆかりの史跡、遺物」、
(34)「フロイスの見た岐阜城と岐阜の町」、
(43)~(54)岐阜を訪れたイエズス会宣教師③~⑭、
(55)織田信忠と岐阜のキリスト教、
(56)~(58)悲劇のキリシタン大名・織田秀信(1)~(3)、
(59)織田兄弟・秀信と秀則分かれた運命、
(68)イエズス会文書に見る織田信忠とキリスト教、
(69)イエズス会文書に見る織田秀信とキリスト教
1. 信長期(1567–1582年/永禄10–天正10年):岐阜におけるキリスト教宣教のはじまり
1567(永禄10)年、信長は稲葉山城を攻略して岐阜へ入り、城下の呼称を従来の井ノ口から岐阜へと改めた。岐阜城を本拠とした信長は、城下町の整備を進め、商業の振興にも力を注いだ。楽市楽座などの政策によって商人や職人が集まり、岐阜は美濃の政治・経済の中心として発展していった。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、『日本史』に岐阜の町のにぎわいを記している。フロイスの記録によれば、岐阜の人口は8000人から1万人ほどに達し、諸国から商人や旅人が集まり、町は多くの人々でにぎわっていた。その混雑ぶりを、フロイスはバビロンに喩えている。信長の本拠となった岐阜は、美濃・尾張の政務を執る拠点であると同時に、各地の人々が行き交う商業都市でもあった。
岐阜には諸国から人や物が集まり、各地の情報も行き交っていた。信長は、こうした環境のなかで海外の事情や外国の知識にも関心を示した。また、比叡山延暦寺や一向一揆などの仏教勢力とも対立していた。一向宗の門徒は尾張・美濃にも広がり、石山本願寺と結びついて信長に抵抗した。信長が宣教師を保護し、キリスト教の宣教を認めた背景には、ヨーロッパの知識や海外事情への関心に加え、仏教勢力との対立という政治的事情もあったと考えられる。
信長の庇護は、宣教師たちが濃尾地域で活動するうえで大きな支えとなった。その様子は、フロイスやイエズス会日本準管区長フランシスコ・カブラルらの記録に残されている。1569(永禄12)年6月、フロイスは京都で信長と初めて面会したのち、岐阜を訪れて再び信長と面会した。信長はフロイスを山麓の居館に招いて歓待し、さらに柴田勝家に命じて山上の城郭を案内させた。茶や食事が振る舞われ、別れ際には、美濃へ何度でも訪れるようにと告げたという。
1570(元亀元)年には、カブラルも一行を率いて岐阜を訪れた。カブラルの書簡によれば、信長は重臣を遣わして一行を迎え、予定を変更して食事をともにした。遠方から寒いなかを訪れたことをねぎらい、果物を勧めるなど、手厚くもてなしたという。
このとき、信長は宣教師たちの黒い僧服に目を留め、以前とは服装が違う理由を尋ねた。同行した日本人修道士ロレンソ了斎が、以前は日本の習慣に合わせて服装を変えていたが、現在はイエズス会の定めに従って僧服を着ていることを説明したという。また、ロレンソ了斎は、仏僧とキリスト教の修道士との違いについても信長に説明をした。これらの記録からは、信長が宣教師たちを丁重に迎え、彼らの話に耳を傾けていたことがわかる。
信長の時代、岐阜は政治・軍事の拠点であると同時に、各地の人々が集まる町でもあった。信長による宣教師の保護と宣教への理解は、岐阜におけるキリスト教の活動を支えた。岐阜は、濃尾地域におけるキリスト教宣教の重要な拠点となった。
2. 信忠期(1575–1582 年/天正3–天正10 年):岐阜におけるキリスト教宣教の広がり
織田信忠は1557(弘治3)年に生まれ、1575(天正3)年に織田家の家督を継いだ。美濃・尾張両国を支配する立場となり、岐阜城を拠点に統治を担った。信長が安土へ移った後も岐阜を拠点とし、軍事・政治の両面で重要な役割を果たした。1582(天正10)年2 月の甲州征伐では総大将として武田氏を滅ぼし、織田政権の後継者としての地位を確かなものにしていた。
信忠は父・信長の政策を引き継ぎ、宣教師たちを保護した。1579(天正7)年のイエズス会『日本年報』には、美濃・尾張でキリスト教の宣教が進んでいたことが記されている。信忠は宣教師オルガンティノに対し、岐阜の町で教会を建てるための土地を与えた。この土地は、信忠の伯叔父が所有していたもので、町のなかでも特に良い場所とされている。信忠は土地を与えるだけでなく、教会建設が進んでいるかどうかを宣教師側に尋ねていた。教会を岐阜の町に設けようとする信忠の意思が、宣教師の書簡から読み取れる。
信忠の保護は、教会建設の許可だけにとどまらなかった。1582(天正10)年のイエズス会年報は、美濃・尾張の両国で宣教が新たな成果を上げ始めていること、そして信忠が宣教師の保護者として行動していたことを報告している。年報によれば、宣教師たちが岐阜に入ると、説教を聞きに来る人々が急増し、修道士たちは夜遅く疲れ果てるまで説教を続けたという。数日後には約200 人が洗礼を受け、その多くは重立った人々であった。最初の受洗者の中には尾張の領主と僧侶が含まれ、彼らは帰宅すると、神仏の礼拝に用いていた像・守袋・絵・書物などを集めて門前で焼き払ったと記されている。
また、年報は、信忠が岐阜の市中に大きな十字架を建てることを許したと伝えている。十字架はキリスト教を象徴するものであり、それが城下で公然と掲げられた事実は、信忠が宣教を積極的に支えていたことを示している。教会建設用地の提供と十字架の設置許可が続いたことで、岐阜の町には宣教の拠点と、その存在を示す明確な標識が整えられていった。商人や職人が暮らし、多くの人々が行き交う城下町に教会が置かれれば、宣教師は町の住民に直接教えを伝えることができた。岐阜は、宣教師が一時的に滞在して説教する場から、教会を中心に信徒が集まる町へと姿を変えつつあった。
信忠の統治は、1582(天正10)年6 月の本能寺の変によって突然終わった。信長が本能寺で討たれたと知っ
た信忠は、京都の二条新御所で明智光秀の軍勢を迎え撃ち、最後まで抵抗した。逃亡を勧める家臣に対し、逃げ隠れて再起を期せば天下の笑いものになるという趣旨の言葉を述べたと伝えられている。信忠は26 歳で命を落とし、岐阜を拠点とした統治も終わりを迎えた。
3. 秀信期(1592–1600 年/文禄元–慶長5 年):岐阜におけるキリシタン共同体の発展
織田秀信は1580(天正8)年に生まれた。織田信忠の嫡男で、信長の嫡孫にあたる。1582(天正10)年の本能寺の変で祖父と父を失い、幼名の三法師として清須会議で織田家の後継者に定められた。その後、豊臣秀吉のもとで成長し、1592(文禄元)年に元服して秀信と名乗り、岐阜城主となった。豊臣政権下では「岐阜中納言」と呼ばれ、織田家嫡流としての地位を保っていた。
秀信がキリスト教の洗礼を受けたのは、1595(文禄4)年である。当時16 歳だった秀信の受洗は、フロイスの同年の年報に記されている。フロイスは、洗礼を受けた約600 人の中で秀信を特に重視し、信長の正統な後継者であることを強調した。また、秀信には優れた才能があり、将来への大きな期待が持てるとも評している。
秀信の受洗は、単に一人の大名がキリスト教徒になったというだけではなかった。信長の嫡孫であり、美濃の領主である秀信が信徒となったことは、宣教師たちにとって大きな意味を持っていた。
秀信の受洗は、豊臣秀吉のもとでキリスト教への警戒が強まっていた時期に行われた。フロイスの同年の年報には、秀信の受洗が秀吉に知られれば、迫害が再び厳しくなるおそれがあるため、秘密にされていたと記されている。それでも秀信は信仰を受け入れ、宣教師たちを保護した。翌1596(文禄5)年の年報には、弟の秀則もキリスト教徒になることを望み、秀信の同意を得て司祭のもとを訪れたことが記されている。秀信の信仰は、弟や家臣など、身近な人々にも広がっていった。
秀信の保護のもとで、岐阜城下には教会が建てられた。1599(慶長4)年のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの年報によれば、秀信の好意によって美濃に聖堂が建設され、その費用として信徒たちは400 金スクード(1 スクードは3~5 日の賃金に相当)を負担した。聖堂は多くの人々を収容できる規模で、日本の建築様式を取り入れた立派な建物だったという。ヴァリニャーノは、美濃の宣教拠点について、領主の保護を受けていることに加え、京都からも比較的近いことを評価している。秀信の庇護は、宣教師たちが岐阜に滞在し、宣教を進めるための具体的な支えとなっていた。
秀信のもとでは、教会の建設だけでなく、病者や貧しい人々を助ける活動も行われた。1599 年から1601 年にかけてのイエズス会年報集『日本諸国記』には、秀信が貧しい人々を収容する大きな施設、すなわち養生所(オスピタール)を岐阜の町に設けるよう命じたことが記されている。これは、岐阜のキリスト教活動が説教や洗礼にとどまらず、病人や貧困者への支援にも及んでいたことを示している。
秀信の信仰は、家臣団にも影響を及ぼした。1601(慶長6)年付の宣教師カルヴァーリュの書簡には、秀信がキリスト教徒であったことに倣い、美濃の諸侯や武士の中にもキリスト教徒となる者が少なくなかったと記されている。領主自身が信徒であり、宣教師を保護していたことは、家臣たちがキリスト教に接する機会を増やした。信長・信忠の時代に築かれた宣教の基盤は、秀信の時代に領主の受洗と教会の建設、さらに家臣団への広がりを伴うようになったのである。
しかし、秀信の治世は長く続かなかった。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで西軍についた秀信は、東軍の攻撃を受けて岐阜城を失い、高野山へ蟄居幽閉された。1605(慶長10)年、秀信は父信忠と同じ26 歳で没した。
領主の地位と保護を失ったことで、岐阜のキリシタン共同体も大きな打撃を受けた。カルヴァーリュの書簡は、秀信の領地没収に伴い、キリスト教徒であった貴人たちも苦境に置かれたことを伝えている。
秀信の時代、岐阜では領主自身がキリスト教徒となり、教会の建設や貧しい人々への支援を進め、家臣団にも信徒が広がった。信長・信忠の時代に始まった宣教師の保護は、秀信のもとで教会を中心とする共同体の形成へと進んだ。関ヶ原の戦いによってその基盤は失われたが、秀信期は、濃尾地域のキリスト教が領主の庇護のもとで最も発展した時期の一つであった。
【参考】 織田信長・信忠・秀信と岐阜のキリスト教関連年表

