岐阜キリシタン小史(72) 「濃尾崩れ」(1) はじめに : 「濃尾崩れ」とは何か

  1. 「濃尾崩れ」という名称
     「濃尾崩れ」という名称は、江戸時代の濃尾地域、すなわち美濃国と尾張国を中心に行われた、キリシタンに対する大規模な摘発と処刑を指す言葉である。
     ここでいう「崩れ」は、キリシタンが一人、または数人単位で摘発された個別の事件を指すのではない。潜伏していたキリシタンの存在が何らかのきっかけによって明らかになり、そこから取り調べが広がり、信徒の捕縛、処刑、さらに親族や関係者の調査へと発展していく大規模な摘発事件を指して用いられる。江戸時代には、肥前国大村藩領で起こった「郡崩れ」、豊後地方の「豊後崩れ」など、各地で同じような大規模摘発が起こっている。

【参考】 全国の崩れ一覧

 「濃尾崩れ」は、1661(寛文元)年に可児郡塩村・帷子(かたびら)村で潜伏キリシタンが発覚した事件を起点として、尾張・美濃一帯へ摘発が広がった一連の弾圧を指すことが多い。 塩村の領主であった旗本・林権左衛門が尾張藩に捕縛を依頼したことから、尾張藩による本格的な取り締まりが始まり、周辺村々へ検挙が連鎖的に拡大していった。
 このため、歴史研究や地域史では、「濃尾崩れ」を1661年以後、なかでも寛文年間に展開した大規模なキリシタン弾圧として位置づけるのが一般的である。実際、寛文期には多数の捕縛と処刑が行われ、濃尾地域におけるキリシタン弾圧を代表する事件として記憶されるようになった。
 しかし、濃尾におけるキリシタン弾圧を1661年から説き起こすと、それ以前から続いていた取り締まりの経過が埋もれてしまう。その結果、「濃尾崩れ」を、それまでの弾圧の積み重ねの中で捉えることが難しくなる。濃尾における弾圧の歴史を理解するには、1661年に至るまでの経過を明らかにする必要がある。尾張藩では1631(寛永8)年からキリシタンの検挙・処刑が行われていたとされ、1661年の塩村・帷子村の摘発は、それまでの取り締まりとは無関係に突然始まったものではなかった。
 そこで本稿では、「濃尾崩れ」を狭義の1661年以後に限定するのではなく、1631(寛永8)年から1698(元禄11)年まで、濃尾地域で断続的に続いたキリシタン弾圧の連続過程として広く捉えることとしたい。

2. なぜ1631~1698年なのか

 この67年間には、濃尾地域のキリシタン弾圧が段階的に変化していく過程を見ることができる。
 1631(寛永8)年を、濃尾地域における弾圧が本格的に展開していく出発点とする。この年、尾張藩は一宮や高木村などでキリシタン57人を検挙し、そのうち一宮のコスモ道閑、兵右衛門、庄五郎と高木村の久三郎の4人を火刑に処した。残る53人も投獄され、その後、一部は江戸へ送られた。この事件は、1661(寛文元)年の摘発事件に先立ち、尾張藩による大規模なキリシタン弾圧がすでに行われていたことを示している。つまり、「濃尾崩れ」は1661年に突如として起こった事件ではなく、それ以前から続いていた弾圧の延長線上に位置づけて理解する必要がある。
 次の大きな転機が、1661(寛文元)年の塩村・帷子村の摘発である。ここから尾張藩による取り締まりが広域化し、塩村・帷子村だけでなく、太田村など周辺の村々、さらに尾張北部へと検挙が広がっていった。1661年は、濃尾地域のキリシタン弾圧が大規模な「崩れ」として展開する重要な転換点である。
 1660年代には、捕縛されたキリシタンに対する厳しい処分が相次いだ。大量の処刑が行われ、濃尾地域のキリシタン共同体は大きな打撃を受けた。ここに「濃尾崩れ」の中心的な時期がある。
 しかし、処刑が終われば弾圧も終わったわけではない。1670年代以後には、すでに捕縛された人々や、その親族・子孫に対する監視が続き、「転切支丹」や「類族」の管理が問題となった。キリシタン本人を処刑する段階から、キリシタンであった人物の親族を把握し、その後の生活を監視する段階へと、取り締まりのあり方が変化していったのである。可児地域に残る「転切支丹類族存命覚帳」(ころびきりしたんるいぞくぞんめいおぼえちょう)も、その後の類族管理が長く続いたことを示している。


 さらに、1697(元禄10)年の笠松の大臼塚での処刑、1698(元禄11)年の塩村での処刑が記録されている。したがって、1660年代の大量処刑をもって濃尾地域の弾圧が完全に終わったと見ることはできない。1698年まで、なおキリシタンに対する処分が続いていたのである。
したがって、本稿では「濃尾崩れ」を、以下のようにとらえたい。
 つまり、「濃尾崩れ」とは1661年に突然始まり、1660年代に終わった一つの事件ではない。濃尾地域に残っていたキリシタンが摘発され、処刑され、その後も転切支丹や類族として監視されていく、67年間にわたる長い弾圧の過程として見る必要がある。
 この視点に立つことで、「濃尾崩れ」は単なる「大量処刑事件」ではなく、キリシタンの信仰共同体がどのように発見され、摘発され、破壊され、そしてその後もどのように監視され続けたのかをたどる歴史として捉えることができると考える。

 次回は、「濃尾におけるキリシタン信仰の基盤」にあらためて見ていきたい。「濃尾崩れ」を理解するには、まず崩れに先立ってどのような信仰の姿があったのかを明らかにしておく必要があるからである。

【参考】 「濃尾崩れ」関連年表