拙稿『岐阜キリシタン小史(55)―織田信忠と岐阜のキリスト教―』では、信忠時代の岐阜におけるキリスト教の動向を取り上げ、その中でイエズス会の「日本年報」にも触れた。
今回は、その「日本年報」そのものに焦点を当て、あらためてその性格と史料的価値について考えてみたい。
イエズス会による日本宣教の実態を知るうえで、フロイスの『日本史』は欠くことのできない基本史料である。しかし、同時代に作成された 「日本年報」や宣教師書簡もまた、これに劣らぬ重要性をもつ一次史料である。
「日本年報」は、各地の宣教師が毎年ローマ本部へ送った公式報告であり、布教状況・政治情勢・迫害・戦争・信徒数などを、出来事から大きな時間差なく記録した一次的な“現場報告”である。叙述的・文学的性格を帯びるフロイス『日本史』とは異なり、速報性と事実性を重視した点に、この史料の特徴がある。
一方、フロイス『日本史』は、イエズス会の命により体系的に編纂された大部の歴史叙述であり、日本文化・人物像の描写に優れ、信長・秀吉期の政治史研究において不可欠の史料として利用されてきた。ただし、その叙述には伝聞や主観的判断が混じる部分もあり、物語的構成力と引き換えに一定の脚色が入りうる点が指摘されている。
このように、両者は性格が明確に異なる。『日本史』は広い視野から時代像を描き出す叙述史であり、「日本年報」は宣教師自身の体験と観察に基づく一次報告である。とりわけ1582年の年報が本能寺の変の初報を含むように、年報には極めて高い史料価値をもつ文書も少なくない。したがって、どちらか一方が優れているのではなく、両史料を相補的に用いることで、初めて日本宣教史の全体像が立ち上がると考えるべきである。
「日本年報」の日本語訳としては、古くから知られる雄松堂書店の村上直次郎訳『イエズス会士日本通信』および『イエズス会日本年報』(1969年発行)と、同朋舎出版の松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(1987~1998)という二つの系統がある。前者は日本キリシタン研究の古典的標準訳として広く用いられてきたものであり、後者は年報に限らず日本関係のイエズス会報告を網羅的に収めた全15冊からなる大叢書で、より新しい研究状況を反映した精密な訳と豊富な注釈を備えている。どちらも全国の主要な図書館に所蔵されており、筆者は地元の岐阜県図書館で閲覧することができた。
今回は、書簡類も収められている後者の同朋舎出版・松田毅一監訳版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の中から、織田信忠および岐阜に関わる記述を抜き出し、検討することとしたい。


以下の史料1~4は『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅲ期第5巻』(松田毅一監訳・同朋舎出版)、5と6は『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅲ期第6巻』(松田毅一監訳・同朋舎出版)から抜き出させていただいた。訳はすべて東光博英氏によるものである。
1. 「1578年7月4日 都発信 ジョアン・フランシスコ師の書簡」
それから司祭(オルガンティノ)は、すでに美濃、尾張両国の国主であり、数日前、安土城下に到着していた信長の長子(信忠)を訪ねて行った。彼もまた、司祭を大いに歓待し、非常に喜んで長時間にわたって我らのことについて語った。彼は何年も前から司祭らと会って語ることを望み、幾度か領国でデウスのことを聴いてキリシタンになりたいと公言したことがあり、彼の親戚になる甚だ身分の高い大身とそのキリシタンの家臣が彼を訪ねた際に右のことを話していたので、司祭はもし信長の政庁で彼に会えなければ、多大の成果が期待されるかの領国に彼を訪ねる決心であった。
2. 「1578年7月4日 都発信 ジョアン・フランシスコ師の書簡]」
※本資料は信長の第二子信雄(のぶかつ)に関するものである
他の一事が生じたため、嫡子(信忠)は兄弟と軍勢を伴って都に帰ることが必要となった。それから数日後、御茶箋本所殿と称する信長の第二子(信雄)が都の我が修道院と教会を訪れ、同所で二時間、大いに喜んで我らの教えについて語り質問した。彼は己れがヨーロッパ人であるかのように日本中の何事よりも我らのことを好み、はなはだ立派な教会を目にして、はるか遠方の国々から来た異邦人がその敵に混じって都の中央に、かくも壮麗な建築をするとは実に勇敢なことである、と言い、たいそう満悦して立ち去った。宿としていた仏ホトケの僧院に着くとすぐさま彼は見事な食物の贈物に自筆の書状を添えて修道院に送った。その書状は、本日教会に行き、尊師にたいそう歓待されて大いにデウスのことに好意を抱いたので、最後まで説教を聴いてキリシタンになることを望むが、戦さに赴く途中であるため時を得るまでこれを延期する旨伝えるものであった。司祭は早速、日本の習慣に従って、我が修道院への訪問を感謝するため、夜に彼のもとへ赴いたところ、彼は蠟燭を手に司祭を迎え出て、はなはだ丁重な挨拶をしたが、辞去する際には同様に蠟燭を手に持って僧院の外まで出た。この公子が改宗することによって多大の成果を得るのは疑いなく、また彼は非常に意志が固く、他の兄弟よりも父に似ているのでなおのことである
3. 「1579年12日10日付 口之津発信 フランシスコ・カリオン師の総長宛、1579年度・日本年報」
我らはまた、尾張・美濃両国に200人のキリシタンを擁している。両国は信長の後継者である嫡子(信忠)の所領である。すでに述べたがその他多数の国を含めて諸国はことごとく信長の有するところであり、それらの国については、数日前、オルガンティノ師がはなはだ貴重な情報を巡察師(ヴァリニャーノ)に書き送った。すなわち、彼は少し前にかの地のキリシタンを訪ねて行ったが、その際、岐阜の市まちにおいて、嫡子によりこれ以上望みえないほどのもてなしと厚情をもって迎えられ、嫡子は彼に対し、その所領に留まること、ならびに、都にあるようないとも立派な教会をかの市に建て、領国内に大なるキリシタン宗団を作ることが望みであると述べ、彼の二つの両国で説教し、望む者は皆キリシタンとなれるように許可状をさっそく彼に与えた。
4. 「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンツ・メシア師のイエズス会総長宛、1580年度・日本年報」
彼の嫡子(信忠)は一方では、彼が先に地所を与えて領内に修道院を建設することを請うたにもかかわらず、岐阜の市よりも先に安土山に修道院が建てられたことをはなはだ遺憾としたが、他方では、これにより彼の父が我らを尊重していることを多いに喜んだ。このため、領内に修道院と教会を早急に建立しようとの意欲が益々加わったので、これについて司祭に種々な伝言を送った。オルガンティノ師の最近の書簡によれば、教会と修道院の建設に取り掛かるため、数日後に、司祭一人と修道士一人をかの地に派遣する予定であるという。
右の件によって各地に伝わった噂があまりにも大きなものであったため、信長はすでにキリシタンになったと言う者もあれば、直ちにキリシタンになること望んでいるという者もあり、或は嫡子がすでに洗礼を受けたという者もあって、このような話は豊後や下地方(注:豊後より更に遠方の地方のこと)にまで伝わった。これらのことによって、仏僧や異教徒らは皆一様に、従前とは異なる顔と敬意を司祭に示した。たちまち、異教徒の貴人や大身が多数、安土山に建てた修道院について司祭に祝辞を述べ、説教を聴き始めたが、その中には美濃国の三分の一を領する人もあった。
5. 「1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイス師のイエズス会総長宛、1582年度、日本年報」
今、新たに成果を上げ始めている国は織田信長の長子信忠に属する美濃および尾張の両国である。彼は通常、同地に居住しており、我らの保護者であり友人である。
(中略)
我らは美濃の首都であり信長の世子の政庁である岐阜に着いた。聴聞者の来訪がたちまち増え、彼らに対して修道士が毎日、夜遅く疲れてできなくなるまで説教した。それから数日後、私が200人に洗礼を授けたが、その大半は重立った人である。最初に洗礼を受けた人たちの中に尾張国の殿トノが一人と、その地の仏僧が一人いたが、彼らはよく主の教えの精神を呑み込み、翌日、殿も仏僧も、家に帰り着くと偶像、守袋、絵、書物、その他、神カミと仏ホトケの礼拝に用いる装飾品をことごとく集めて門前で焼き払った。このことは異教徒である土地の人々一同を驚嘆させ、その地の領主と彼らの師匠である仏僧がかくも不可解にして稀有な挙動に出たのを見、これが良き模範となって同地の重立った人々がデウスの教えを聴くことに意を決し、私の許に身分ある人を遣わして、修道士と共に来訪するよう切望した。
(中略)
私が出立する前に世子(信忠)は都の上の区(Miáco de riba)よりも広い彼の市に一基の大きな十字架を建てることを許した。私が発った後、彼は十字架の建設を望んだので、キリシタンたちがそのための準備を行っている。主なるデウスの御恵みにより、私が戻る頃には建っているであろうし、人々に少なからず驚きをもたらすであろう。このほか世子は二年以上前に教会を建てるため同市の最良地にあり、彼の伯叔父が所有していた地所をオルガンティノ師に与えたが、我ら一同、日本においては甚だ貧しく資力に欠けるため、今日まで同地所に何も造ることができなかった。多くの武士は同所に何もないのを見て、ここに家を建てようと世子に願い出た。私が出立するに先立って世子は私の許に使いを出し、かの地を求めるものが多数あることを伝え、とりわけ我らが早急に教会を建てる決意であるか否かを知らせるよう求めてきた。私はこの件をキリシタンたちと協議したが、彼の好意を常に得ておくことは当地方の成果にとってきわめて重要であるがため、次のように弁解する以外に返答のしようがなかった。すなわち彼の父の政庁がある市、安土山において行っている工事で手がふさがっており、希望道り他の工事に応じることができないが、この義務を果たす目処が立つまで仮のものに過ぎないが、今、我らが教会として用いている家をかの地所へ移築することに努めるというものであり、これによって彼は幾分静まった。以上は先に届いた1月付の書状に要約して述べられていることであり、6月17日に認められた書簡は次のように伝えている。
巡察師が当地を去る前に、美濃および尾張両国にはすでに実を結ぼうとする機運が生じていたので、オルガンティノ師はふたたびパウロ修道士と私をかの地に派遣した。デウスの恩恵により我らはこれまでに400名以上に洗礼を授け、その中に身分の高く収入の多い殿が数人あり、他の殿たちも心を動かされている
(中略)
私が岐阜にいた時、彼はかの地から私の許に人を遣わし、聴聞を望む人が多数いるのでパウロ修道士を数日間派遣するよう請うた。修道士はかの地に15日間滞在し、その最終日に我が同所に赴いて40名に洗礼を授けた。
6. 「1582年11月5日付、口之津発信、ルイス・フロイス師のイエズス会総長宛、信長の死に関する報告書」
彼の世継ぎの太子は名を城介(信忠)殿といい、もともと我らのことに好意を寄せ、司祭たちを庇護し、自らの市中に教会を築く地所と大きな十字架一基を掲げる場所を与えたが・・・(後略)。
以下に、これらの史料からわかることをまとめる。
① 信忠は1570年代前半からキリスト教に強い関心を抱いていた
1578年7月4日付書簡(史料1)には、
•「何年も前から司祭らと会うことを望んでいた」
•「領国でデウスのことを聴き、キリシタンになりたいと公言したことがある」
•親戚のキリシタン大名や家臣と宗教談義をしていた
とある。「何年も前から」という表現は、1570年代前半から関心を持っていた可能性を示す。 この段階では、信忠の関心は主として個人的な宗教的興味として現れている。
② 信忠は宣教師を厚遇し、美濃・尾張での布教を制度的に支援した
1579年12月10日『日本年報』(史料3)では、
•岐阜でオルガンティノを「これ以上望めないほどの厚情」で迎えた
•美濃・尾張での布教を正式に許可し、許可状を発行した
•岐阜に「都の教会のような立派な教会」を建てたいと述べた
と記される。 信忠の関心は、領主としての政策行為(布教許可)へと発展している。
③ 信忠は岐阜に修道院・教会を建てることを強く望んでいた
1580年10月1580年10月20日『日本年報』(史料4)には、
•安土に先に修道院が建てられたことを「遺憾」とした
•岐阜に修道院・教会を建てる意欲が「益々加わった」
•宣教師に伝言を送り、建設準備を急がせた
とある。 信忠は岐阜を自らの本拠とし、そこにキリスト教の中心施設を置く構想を明確に持っていた。
④ 信忠のキリスト教保護は噂となり、九州の豊後や遠方まで広まった
史料4には、
•「信長はすでにキリシタンになった」
•「嫡子は洗礼を受けた」
などの噂が流布し、豊後や「下地方」まで伝わったとある。 信忠の行動は、地域を超えて全国的な宗教・政治的関心の対象となっていた。
⑤ 信忠の支援により、岐阜・美濃・尾張で大規模な改宗が進んだ
1582年10月31日『日本年報』(史料5)には、
•岐阜で200人以上に洗礼(多くが重立った人々)
•尾張の殿と仏僧が偶像・仏具を焼却
•その後も400人以上に洗礼
•多くの武士が教会建設を望んだ
とある。 仏僧が改宗し仏具を焼却したという記述は、日本宗教史上きわめて異例であり、信忠の後援がなければ起こり得ない現象である。
⑥ 信忠は岐阜に巨大な十字架を建てることを許可し、教会地を提供した
(史料5と史料6が同じ事実を別々に証言している)
史料5(1582年10月31日)には、
•岐阜の市に「都の上の区よりも広い場所」に十字架を建てることを許可
•キリシタンたちが建設準備を進めていた
•伯叔父の所有地を教会建設用に提供した
•武士たちが欲しがるほどの好立地であったと記される。
さらに、史料6(1582年11月5日付フロイス書簡)は、 同じ年の出来事として、信忠が
•「自らの市中に教会を築く地所」
•「大きな十字架一基を掲げる場所」を与えたと述べている。
この二つの史料は、 1582年に信忠が岐阜の中心部に教会建設地と十字架建立地を提供した という事実を、独立した書簡が重ねて伝えていることになる。
⑦ 信忠は教会建設を急がせ、宣教師の活動を継続的に支援した
史料5では、
•信忠が「早急に建てる意思があるか」を宣教師側に確認した
•宣教師派遣を求め、聴聞希望者の増加に対応させたと記される。
史料6も、信忠が
•「司祭たちを庇護した」 と述べており、これは1582年の教会地提供・十字架地提供と同じ文脈で語られている。
両史料を合わせると、信忠は 教会建設の促進・宣教師活動の継続・布教環境の整備 を同時に進めていたことがわかる。
⑧ 信忠の行動は、岐阜・美濃・尾張におけるキリスト教共同体の形成を支えた
史料1~6を通して、信忠は
•個人的関心(1578)
•布教許可(1579)
•教会建設要求(1580)
•噂の全国的拡散(1580)
•大規模改宗(1582)
•教会地・十字架地の提供(1582、史料5・6)
•宣教師の庇護(1582、史料6)
という一連の行動を示している。
これらは、岐阜・美濃・尾張におけるキリスト教共同体の形成に直接つながる動きであった。
【総括】
1578~1582年の宣教師書簡・日本年報は、 信忠が岐阜を中心にキリスト教を積極的に保護し、布教を制度的に支援したことを明確に示す。
特に以下の点は決定的である:
•布教許可状の発行
•教会・修道院建設の強い要望
•十字架建立の許可
•大規模な改宗の発生
•噂が全国に広がるほどの影響力
これらは、 信忠の宗教政策が信長以上に積極的であった可能性を強く示唆する。
岐阜は1580~1582年にかけて、 日本最大級のキリシタン都市へと変貌しつつあった。
【付記】
(2) の記述は信忠ではなく、信長の第二子・織田信のぶ雄かつに関するものである
•信雄は京都のイエズス会修道院を訪れ、長時間にわたり教えについて語り、強い関心を示した。
•「キリシタンになりたい」と書状に記すほどの好意を持っていた。
•ただし、信雄の宗教的関心は信忠ほど継続的ではなく、政治的行動にも結びつかなかった。
信雄も一時的にキリスト教に強い興味を示したが、 継続的な支援者となった信忠とは明確に区別されるべきであろう。

