岐阜キリシタン小史(62)―ミゲル・ミノエスのこと―

突然だが、奈良商工会議所主催の「奈良まほろばソムリエ検定」(通称:奈良検定)という検定をご存知だろうか。いわゆるご当地検定である。
2013(平成25)年1月に実施された「奈良まほろばソムリエ検定」で、次のような問題が出た

(問)ルイス・フロイスの『日本史』に記載されている、松永久秀の多聞城を絶賛した書簡を差し出した宣教師は誰か。
「ア」.ドン・ジュスト 「イ」.ルイス・デ・アルメイダ
「ウ」.ミゲル・ミノエス 「エ」.ベルナール・プティジャン

 多聞城は奈良市法蓮町(東大寺の北西)に築かれた松永久秀の城で、南蛮風の館や庭園を備えた壮麗な居館。正解は「イ.ルイス・デ・アルメイダ」であるが、選択肢の中に「ミゲル・ミノエス」の名前が含まれていることに驚いた。


 「ア」のドン・ジュストは高山右近の洗礼名であり、「イ」のアルメイダはイエズス会の宣教師で、自らの財産を投じて病院を建てた人物として知られる。また、「エ」のプティジャンは1865(慶応元)年の「信徒発見」に立ち会ったフランス人司教であり、いずれも歴史的に著名な人物である。それらと並んで、あまり名が浸透しているとは思えない「ミゲル・ミノエス」が選択肢に挙げられていた。
 しかし、このミゲル・ミノエス―この名前の背後には、当時の日本と世界をつなぐ壮大な旅路が隠れている。今回は、このミゲル・ミノエスという人物の歩みをたどってみたい。「ミノエス」という名前から察せられると思うが、美濃出身である。
 ミゲル・ミノエスは1597(慶長2)年、美濃国に生まれた。残念ながら村名まで特定できる史料は残っていない。1597(慶長2)年は長崎の西坂で二十六聖人が殉教した年であり、日本のキリスト教はすでに逆風の中にあった。織豊政権の対キリシタン政策は、当初の保護姿勢から次第に弾圧へと転じていった。美濃もまた、その政策転換の影響を強く受けた地域であった。
 1614(慶長19)年、徳川幕府は全国的なキリシタン追放令を発布する。ミゲルは、原マルティノ、小西マンショ、ペトロ・岐部・カスイ、コンスタンティノ・ドラード(日本名不明)らとともに、長崎からマカオへ追放される船に乗せられた。(この年には、高山右近や内藤如安もフィリピン・マニラに追放された。右近はマニラ到着後、40日後に帰天してしまう。)
 このとき、彼らは「サンチャゴ病院」との別れを告げる鐘の音を聞いていた。長崎には、イエズス会のディエゴ・メスキータが創設したサンチャゴ病院があり、「ミゼリコルディア」と呼ばれる信徒の慈善組織によって運営されていた。1612(慶長17)年の増築時には「HOSPITAL SANTIAGO 1612」と刻まれた銅鐘が鋳造されている。彼らはこのサンチャゴ病院の鐘の音を聞きながら出航したと伝えられる。(「サンチャゴ」とはスペイン語で聖ヤコブを意味し、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼で知られる名でもある。)

重要文化財「サンチャゴの鐘」(大分県竹田市・中川神社)


 五人は、コンスタンティノ・ドラードが最年長で1567(永禄10)年生まれの47歳、天正遣欧使節に随行し、1590年日本に活版印刷機を持ち帰った人物で、ふたたび長崎を出発し後にマカオのセミナリオ院長となる。原マルティノが1569(永禄12)年生まれの45歳、天正遣欧使節の一員で、この後マカオで印刷技術を生かし日本語書籍の出版に携わり、さらに岐部・小西・ミゲルの渡欧を支えた。この二人の大先輩の下に岐部、ミゲル、マンショがいた。岐部が1587(天正15)年生まれの27歳、宣教経験を持つ強靭な信仰者であった。ミゲルは1597(慶長2)年生まれの17歳,国際感覚に優れた青年、そして最年少のマンショが1600(慶長5)年生まれの14歳の若き学徒であった。
 ドラードと原は少年使節以来の旧知の仲であり、長い海外経験を積んだ二人は若いミゲルやマンショにとって父親のような存在でもあった。岐部は、年長の二人と若い二人の間をつなぐような位置にあり、ミゲルやマンショにとっては頼もしい兄のような存在であった。
 ミゲルら三人は、すでに渡航経験のあったドラードや原にどれほどか助けられ、励まされたことであっただろう。マカオのコレジオで三人は共に学んだが、マカオのイエズス会管区を統括していたアンドレ・パルメイロ(1569–1635)は、日本人司祭の叙階に否定的であり、叙階を認めなかった。このため、彼らはローマでの司祭叙階を目指すことにした。

 ミゲルはゴア、喜望峰、を経て、ポルトガルのコインブラ大学に到達する。ここで彼は日本人として初めて哲学の学位を授与された。哲学教育はスコラ哲学・論理学・自然学・倫理学など、神学に進むための厳格な前段階であり、ラテン語による講義と討論、口頭試問を通じて思考を鍛え上げる場であった。

世界遺産 コインブラ大学 (ポルトガル・コインブラ市)
13世紀の創立である。左:大学の外観
右:有名な大学図書館(ジョアニア図書館)


 その後ミゲルはローマに渡り、1621(元和7)年10月、イエズス会に入会して聖アンドレ修練院に入学する。修練院の名簿には、彼が「美濃国出身」であり、「30歳」と記されているが、史料によって年齢に揺れがあり、生年との整合には議論がある。
その後、1626(寛永)3年ローマで司祭に叙階された。マカオで閉ざされたかに見えた「日本人司祭への道」は、遠くローマの地でようやく開かれたのである。しかし、日本への帰国を果たさぬうち1628(寛えど゜永5)年5月14日、高熱と肝臓管閉塞によりリスボンで帰天した。

聖アンドレ修練院(ローマ)

 ミゲルの歩みを思うとき、胸に迫るものがある。美濃からローマへ―その距離の長さを思うとき、彼の人生は、ただの歴史的事実ではなく、静かな感動を呼び起こす物語として立ち上がってくる。美濃の山々を見て育った一人の青年が、長崎のサンチャゴ病院の鐘の音に送られて日本を追われ、追放という形で海へ押し出され、マカオで仲間たちと学び、さらに大海原を越えてポルトガルへ渡り、コインブラ大学で哲学の学位を得る。そしてローマで司祭となり、遠い異国の地で静かに生涯を閉じた。彼が歩いた道のりは、地図の上では一本の線にすぎない。しかし、その線の背後には、言葉も文化も異なる土地で学び、祈り、耐え、そしてなお「日本に仕えたい」と願い続けた一人の日本人の息づかいがある。
 三人の若者のうち他の二人―岐部は1630年(寛永7)に帰国し、潜伏していた仙台で発見され、1639(寛永16)年に江戸の切支丹屋敷で殉教した。マンショも1632(寛永9)年に日本へ潜入し、長い潜伏生活を続けたのち、1644年(正保元)に殉教している。いずれも最期は、残酷な拷問として知られる「穴吊り」の刑であった。三人はそれぞれ異なる道を歩んだが、いずれも「日本の教会を見捨てない」という同じ誓いを生き抜いた生涯であった