岐阜における信長とカブラル(フロイス『日本史』より)(2)
前回からに続き、フロイスの『日本史』より、カブラルの信長との謁見時の記事のまとめである。カブラルたち宣教師一行と信長に加え、三淵藤英や丹羽長秀が登場することから、『カブラル書簡』の記事と同じ場面の出来事であると断定できる。
2.岐阜訪問と信長との会見 当時、織田信長は美濃の国・岐阜に滞在していた。
⚫訪問の経緯と準備
都到着後数日を経て、カブラルはルイス・フロイス、日本人修道士ロレンソ、およびコス メを伴って岐阜に向かった。
積雪が深く厳寒の悪天候の中、美濃に達するまでに五、六日を要した。
信長は、インドから訪ねて来たカブラルの労苦に感謝し、昼食後の来訪を許した。
信長は若い貴人や重立った人々に礼装をまとい、美しく装って賓客を迎えるよう命じた。
⚫信長からの異例の寵愛
信長は仏僧を軽蔑する傲慢な人物であったが、異国人司祭に対し、その高慢な性格とは不似合いな特別の寵愛を示した。
政庁の諸貴族職の許で、キリスト教に対する見解や尊敬を高めさせた。
信長は通常の紹介役を退け、彼らより高位の一老人に職務を命じた。
信長は司祭らを階上に上げて自分の近くに坐らせた。
信長は突然別の部屋から、おのおのの手に一枚ずつ茶皿を持ってきて、司祭らに渡した。
⚫ロレンソ修道士の談義
信長はロレンソ修道士に、日本の神や伊弉諾いざなぎ・伊弉冉いざなみが日本の最初の住民であるという説ついて質問した。
ロレンソ修道士はデウスの正義と慈悲に関し詳細な談義を行った。
信長は修道士の返答を喜び、「これ以上に正当な教えはあり得ない」と語った。
信長は(注1)林佐渡守通勝殿に、「予は伴天連らの教えと予の心はなんら異ならぬ」と白山権現の名において誓った。
(注1)林通勝…信長の父・織田信秀の代から仕え信長の筆頭家老であったが、1580(天正8)年に過去の罪を問われ、信長によって追放された。
⚫信長による饗宴と配慮
信長は、修道士が魚や肉を食べることについて質問し、その答えをことのほか喜んだ(仏僧の欺瞞と虚偽を諷刺するため)。
信長は司祭たちのために非常な御馳走を、新品で未使用の食器で用意するよう命じた。
公方様の使者である三淵大和殿(藤英)を招き、寵愛の目撃者にさせた。
食事の時間には、信長自身が第一の膳をカブラルの前に運んだ。
⚫出発時の特別待遇:
信長は(注2)丹羽五郎左衛門(長秀)に、初日の旅程のための乗馬、荷物運搬人、通行する城の司令官たちへの十分なもてなしと人馬の給付を命じる書付を準備させた。
さらに、家臣の一人を都まで司祭たちに同行させ、途中の城主たちに書状を渡させた。これは信長がいまだかつてしたことのない異例の処置であり、人々を驚嘆させた。
(注2)丹羽長秀…信長の宿老で、誠実温厚な人柄から「良将」と称された。美濃・近江攻略や安土城築城総奉行などで活躍し、信長の信頼を得た。本能寺の変後は秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで勝利に貢献。越前北ノ庄城主として大名に列した。(次回に続く)
