岐阜キリシタン小史(49)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑨―

岐阜における信長とカブラル(フロイス『日本史』より)(1)

 前回までに紹介した『岐阜市歴史博物館研究紀要21』(2013年)に収載の岡美穂子氏の論考により、フロイスの『日本史』の中にも、カブラルが岐阜で信長に謁見した時の記述があることを知った。今回はこのことについて記してみたい。
 フロイスの『日本史』の該当箇所は、第一部95章(中公文庫の『完訳フロイス日本史』では第四十二章)の記事である。私は中公文庫で読んだが、約8ページの短い記述である。(日本語訳のフロイス 『日本史』は他に東洋文庫版もある。)
 以下に必要な項目を立ててまとめてみたいと思う。

1.訪問の背景と目的
•カブラルの地位:フランシスコ・カブラルは、(注1)メストレ・フランシスコ(ザビエル)以来、(注2)最初の布教長であった。
•都地方の訪問:(注3)下の地方で司祭や修道士たちに布教の指示を与えた後、都地方を訪れることを決意した。
•同行者:通訳兼同行者として、日本人修道士の(注4)ジョアン・デ・トルレスを伴った。
•歓迎:堺、河内国、(注5)津の国および都のキリシタンはカブラルの来訪に際し、大いに慰安を覚えた。
(注1)メストレ…ポルトガル語で“師(マイスター)・先生・導師” を意味する語で、16世紀イエズス会文書では 敬称(称号) として使われていた。
(注2)最初の布教長…フロイスの表現「布教長」は、イエズス会内部の正式職名というより “対外的な呼称・一般的称号” であり、カブラルの実際の公式ポストは「日本準管区長」であった。
(注3)下の地方…京都の「上」に対して、下の地方は都から遠い西方の地域を指す。具体的には当時のイエズス会(キリスト教宣教師)の主要な活動拠点があった九州地方のことと思われる。
(注4) ジョアン・デ・トルレス・・・フランシスコ・カブラルが都地方を訪問した際、通訳兼同行者としてカブラルに随行した日本人修道士である。彼は「誕生の8日後に山口でコスメ・デ・トルレス師から受洗した者であった」と記録されており、この洗礼名の「トルレス」は、彼に洗礼を授けたイエズス会士、コスメ・デ・トルレスに由来する。
このイルマンのことは『カブラル書簡』には記述がない。
(注5)津の国…摂津の国のこと。

1.訪問の背景と目的

カブラルの地位:フランシスコ・カブラルは、(注1)メストレ・フランシスコ(ザビエル)以来、
(注2)最初の布教長であった。

都地方の訪問:(注3)下の地方で司祭や修道士たちに布教の指示を与えた後、都地方を訪れることを決意した。

同行者:通訳兼同行者として、日本人修道士の(注4)ジョアン・デ・トルレスを伴った。

歓迎:堺、河内国、(注5)津の国および都のキリシタンはカブラルの来訪に際し、大いに慰安を覚えた。
(注1)メストレ…ポルトガル語で“師(マイスター)・先生・導師” を意味する語で、16世紀イエズス会文書では 敬称(称号) として使われていた。
(注2)最初の布教長…フロイスの表現「布教長」は、イエズス会内部の正式職名というより “対外的な呼称・一般的称号” であり、カブラルの実際の公式ポストは「日本準管区長」であった。
(注3)下の地方…京都の「上」に対して、下の地方は都から遠い西方の地域を指す。具体的には当時のイエズス会(キリスト教宣教師)の主要な活動拠点があった九州地方のことと思われる。
(注4) ジョアン・デ・トルレス・・・フランシスコ・カブラルが都地方を訪問した際、通訳兼同行者としてカブラルに随行した日本人修道士である。彼は「誕生の8日後に山口でコスメ・デ・トルレス師から受洗した者であった」と記録されており、この洗礼名の「トルレス」は、彼に洗礼を授けたイエズス会士、コスメ・デ・トルレスに由来する。
このイルマンのことは『カブラル書簡』には記述がない。
(注5)津の国…摂津の国のこと。

『完訳フロイス日本史』全12巻(中公文庫) かなりのボリューム!!筆者はこのうちの信長関連の数冊しか読んだことがない。