岐阜キリシタン小史(46)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑥―

岐阜における信長とカブラル(『カブラル書簡』より)(2)

 今回から数回にわたり、『カブラル書簡』に記された信長との面談の様子を見ていきたい。訳文の全文掲載はできないため、ここでは信長の発言や振る舞いなど、重要と思われる箇所を中心に抜き出し、紹介したい。なお、訳文は岡美穂子氏の「フランシスコ・カブラルの長崎発書簡(1572年9月23日付)に見る岐阜」(岐阜市歴史博物館研究紀要21』2013年)より引用させていただいた。そのことをお断りしておく。

1.岐阜への到着と謁見
 この書簡は、1571年にカブラルが九州から畿内へ旅した際の旅行記とも言える。
カブラル一行は、1571年10月21日豊後(大分)の臼杵うすき港を出発、途中土佐の清水湊、紀州の紀之湊、堺を経て京都に至る。その後、琵琶湖を渡った。その後、大変な雪の中を4日間徒歩で進み、信長の居城がある岐阜の市まちに到着した。信長の執事を通じて訪問を交渉すると、信長は大名や領主からの使節がいたにもかかわらず、その日の予定をすべてキャンセルし、カブラル等一行にが自分と食事を共にするよう命じた

2.織田信長の言動(1)

⚫信長は一行の到着を知ると、すぐに重臣を遣わして一行に入室を命じた。
⚫信長はカブラルらを近くに招き寄せ、厳寒の中、遠方から訪問したことをねぎらい、「大いなる慈愛の証である」と述べるなど、思いやりに満ちた言葉をかけた。
⚫信長は一行の衣装に目をとめ、「なぜこれまでそのような衣装を着用してこなかったのか」と問いかけた。それに対してロレンソは答えた。「これは我らの会でインドにおいて用いられている装束です。しかし、人々が初めて見て奇異に感じないように、これまでは日本の風習に合わせた衣服を着用してきました。けれども今では、多くの地で我らは歓迎され、状況も確かなものとなりましたので、もはやその必要はないと考えています。また、準管区長のカブラルが来日した際にすでに命令が下り、日本にいる我らの会員は絹布を着用しておりません。」信長はこの説明を聞き、「(イエズス会の)宗旨に即した方法で装束を考えたことは、
まことに良い」と述べて評価した。
⚫ロレンソが仏僧と修道士の教えの違いを説明すると、信長はそれに大変満足し大いに拍手をし、「これらの者たちこそ、自分が探し求める明敏で正直な人々であり、日本の邪悪な僧侶たちとは異なる」と述べた。
⚫信長は同行の信長の部下たち(この謁見の場には大身の者たちが大勢いた)に向き直り、「パードレたちが誠実で正直であることが分かった。まことにこれらのパードレたちと予の心は寸分の隙もなく一致している」と語った。
⚫信長は立ち上がり、上等のイチジクなどの果物を乗せた皿をカブラルの前に置き、「食事の時間になるまで少しそれを食べよ」と言い、自ら最良のイチジクを手ずから選んでカブラルに振る舞った。
      (次回に続く)

イエズス会士の会服