岐阜キリシタン小史(45)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑤―

岐阜における信長とカブラル(『カブラル書簡』より)(1)

 イエズス会宣教師フランシスコ・カブラルと岐阜における織田信長との関わりについて、しばらくの間調べてきたが、思うような成果が得られずにいた。ネット上には、カブラルが岐阜で信長と謁見したという事実そのものを否定する記述すら見られ、行き詰まりも感じていた。
 何か糸口が得られないかと訪れた岐阜県図書館で、司書の方の協力をいただき、思いがけず、ある史料を見つけた。それが『岐阜市歴史博物館研究紀要21』(2013年)に収載された、岡美穂子氏による「フランシスコ・カブラルの長崎発書簡(1572年9月23日付)に見る岐阜」の論考である。この中では、1572年9月23日付のカブラル書簡のうち、岐阜滞在に関する記述が取り上げられ、ポルトガル語から日本語への訳出がされている。カブラル自身の手稿はすでに行方不明となっており、現在はマドリッドのスペイン王立史学士院図書館に所蔵されている写本があるのみである。その点から見ても、極めて信頼性の高い一次史料といえるのではないかと感じた。


 この手紙が誰に宛てて書かれたものかは明確ではないが、ゴア(インド)の管区長宛であったことは間違いないであろう。その理由として、書簡の末尾近くに「尊師」という語があり、さらに尊師へ働き人の派遣を求める記述があるからである。当時、日本のイエズス会は「日本準管区」として組織されており、カブラルはその準管区長であり、彼の直接の上位権限者は、インド管区の責任者(管区長)であった。
 本書簡には、信長との面談の様子や、信長が実際に発した言葉がきわめて生々しく記されており、内容は非常に興味深い。戦国の権力者としての信長の実像、そして宣教師に対して彼がどのような態度を示したのかを知る上で、貴重な史料であると思う。
 この面談には、カブラルのほかルイス・フロイス、ロレンソ了斎も同席していた。カブラルにとって信長と会うのはこれが初めてであり、信長と面識のあるフロイスが仲介役として振る舞う場面も見られる。また、特筆すべきはロレンソ了斎の存在である。彼はイルマンでありながら、信長に対してキリスト教の教義を直接説明する大事な役割を担っていた。

世界遺産・ゴアの教会群と修道院群
16世紀のゴアは、ポルトガル領で、ポルトガルの首都リスボンをモデルに作られた。「東方一の貴婦人」という異名を持つ、ヨーロッパの街並みが広がる美しい都市であったという。現在はその街並みは無くなり、教会と修道院だけがアジアにおけるヨーロッパ建築の痕跡として残されている。ゴアの地はフランシスコ・ザビエルの眠る場所。ザビエルはインドのカースト制度で苦しむ人々に、神の恵みは等しく受けることができるというキリスト教の教えを伝えたという。

ザビエルの眠る「ボム・ジェム聖堂」「ボム・ジェム」とは、ポルトガル語で「幼子イエス」の意。

金箔で覆われた木彫り彫刻がある「アッシジ聖フランシス修道院教会」
最も規模の大きい「セ・カテドラル」