岐阜キリシタン小史(15)―尾張の五聖人のこと②―

前回に続いてルドビコ茨木のことから始めたいと思う。

ルドビコ茨木[1585-1597.2.5]

 二十六聖人のひとりで、最も若い殉教者。尾張出身で「尾張の五聖人」のひとり。

 同じ殉教者のパウロ茨木とレオン烏丸は叔父にあたる。1596年京都のフランシスコ会の教会で受洗。教会とその付属の病院で手伝いをしていた。1596年12月9日、捕らえられ、長崎で殉教。12歳であった。

聖ルドビコ茨木像
(長崎・浦上天主堂)

二十六聖人の殉教は、1596年7月の「サン・フェリペ号事件」に端を発する。この事件のことは、「岐阜キリスト小史(7)」に書いた。台風で被害を受け土佐沖に漂着したサン=フェリペ号の船員が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている」との発言に驚いた太閤・秀吉がキリスト教弾圧を始めた。

この事件の頃、ルドビコ茨木は都の教会で宣教師に仕え、病人たちの世話に励んでいた。そしてサン=フェリペ号が漂着した年に洗礼を受けた。彼はおじのパウロ茨木やその弟であるレオン烏丸の信仰を受け継いだのであろう(ルドビコの父はクリスチャンではなかった)。レオン茨木はルドビコを自分の家に招いて信者になるまで導き、受洗後はフランシスコ会の修道院で同宿で育てられるようにした(『二十六聖人と長崎物語』結城了悟著より)。

 捕らえられたキリシタンたちは、京都の一条の辻に連れて行かれて耳と鼻をそぎ落とされ、都から長崎まで引きまわし、その長崎で磔刑にすることに定められた。長崎までおよそ約220里(880キロ)、厳冬の中、彼らのほとんどが裸足だったと伝えられている。彼らの通る沿道には、たくさんの見物人ができ、一行に石や雪を投げつけた。

京都から長崎までおよそ880㌔、厳冬の中を裸足でほぼひと月かけて歩かされた

秀吉はなぜ捕らえた宣教師や信徒たちを京都で処刑せず、長崎まで移動させたのであろうか。当時、禁教令が出ていたにもかかわらず長崎には多くのキリシタンが居住していた。秀吉自身は長崎の教会に宣教師が住むことを認め、長崎に住む者たちの信仰の自由を黙認していた。そこへ耳鼻をそがれた京都から惨めな姿で歩かされてきた殉教者たちを、長崎の住民の前で敢えて残酷な磔刑にすることで、自分のキリシタンに対する断固たる思いを示したかったのであろう。

ルドビコ茨木のことを調べていたら、少し寄り道をしたくなった。

この絵は、ヴァチカン美術館蔵の「日本二十六聖人画像」の中の一枚、「聖ルドビコ像」である。画家は岡山(せい)(きょ)(1895~1977)、1930(昭和5)年に受洗し、カトリック信者となった。聖虚の代表作は「日本二十六聖人画」で、殉教した一人ひとりの肖像が描かれている。15年がかりで作成し、1930年に発表した。この作品がローマ教皇庁の目とまり、翌年1931年、当時の教皇ピオ11世に献上された。それからおよそ100年、現在大阪で開かれている「関西万博」にヴァチカンが出展することにあわせて、この「日本二十六聖人画」を日本に持ち帰り、展示しようという計画があるそうだ。場所は大阪のカトリック玉造教会(​大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂)。現在はヴァチカン美術館が肖像画の修復を進めており、修復が終わった12枚をまず貸し出す予定で、残りは修復が終わり次第、追加するとのことであるらしい。未修復分は、ヴァチカン提供の画像を基に同プロジェクトが写真を実物大に引き伸ばしたレプリカを用意するとのことで、万博期間中には、レプリカを含めた全26枚が大阪市の玉造教会などで展示される。(浦上キリシタン資料館には「二十六聖人画」のレプリカが収蔵されている。

文:笠松キリスト教会 K