岐阜キリシタン小史(12)―名古屋・切支丹遺蹟博物館を訪ねて―
日本各地にはキリシタンの殉教の地、遺跡が数多くある。いったいどれくらいあるのだろうと、ネットで調べたことがあったが、とても数えきれなかった。殉教で記憶に残るのが、映画『沈黙』(遠藤周作原作)の中で、キリシタンが「雲仙地獄の熱湯漬け」や「水磔」の刑を受けるシーンであった。残酷な処刑方法でとても見ていられなかったことを思い出す。
日本の「三大殉教の地」というものがあるということを知った。「長崎の西坂」、「京都の六条河原」、「江戸の札の辻」だそうだ。長崎の西坂には「二十六聖人記念館」がある(岐阜キリシタン小史(7)を参照)。秀吉による二十六聖人の磔刑は1597(慶長2)年のことだが、1622(元和8)年には、キリシタンが火刑と斬首によって処刑された。「元和の大殉教」である。京都六条河原での処刑は、1619(元和5)年、52名のキリシタンが火あぶりの刑に処せられた。そして、江戸の札ノ辻では、1623(元和9)年50名以上のキリシタンが処刑された。江戸全体では、約2,000名の信者が殉教したとされている。これら三つの事件は、日本のキリシタン迫害の中で多くの信者が同時に処刑された事件として知られている。いずれも江戸初期の元和年間に起こった。ときの将軍は二代秀忠、1619(元和5)年に禁教令を出した人物である。



前置きが長くなった。今回の本題に移ろう。名古屋にある「切支丹遺蹟博物館」である。名古屋に行った際少し時間があったので、妻と立ち寄った。名古屋市中区の東別院のすぐ北側にある栄国寺という寺の境内にある。この寺の建つ場所は、もともとは「千本松原」という処刑場であり、キリシタン200名以上が処刑された場所である(この人数だけをみると上記の「三大殉教地」よりもはるかに多いのであるが・・・)。この200名の中には、可児郡塩村・帷子村で捕らえられたキリシタンも含まれていたと思われる(「岐阜キリシタン小史(3)」を参照)。
その後、1664(寛文3)年、尾張藩二代徳川光友が処刑地を土器野(現在の愛知県清須市土器野、名鉄本線西枇杷島駅の西200mあたり)に移し、その跡地にこの栄国寺が建てられた。
尾張藩はその後もキリシタンの取締りを強化し、1667(寛文7)年には2,000名以上のキリシタンが処刑されるなどし、ここに尾張のキリシタンは壊滅した。

(上の顕彰碑の碑文・原文のまま) 尾張藩の初代藩主義直公ならびに二代藩主光友公は、政道の基本を人間を生かす温厚誠実の精神においていたので、万物の創造神を最高の主君と崇めつつ、同様の精神で忠実に働いていたキリシタンたちには寛大であろうとしていた。しかし、キリシタン宗門禁制を強調する江戸幕府からの圧力のため、寛永8年(1631)以来、キリシタン伝道に努めた者たちを検挙し処刑し始めた。寛永21年から正保2年にかけて(1644と45)は名古屋城中からもキリシタンが検挙されたが、この地で処刑された彼らキリシタンの霊を弔うためか、町岡新兵衛は慶安2年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。 寛文元年(1661)春以来数多くのキリシタンが尾張北部の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文4年12月19日(1665年2月3日)この地で斬罪に処し、他のキリシタンは赦免しようと努めた。しかし、幕府の了承を得ることができず、結局検挙された二千人余のキリシタン全員を寛文7年10月に*村方で処刑せざるを得なかった。藩主光友公は、この地に仏寺を建立して彼らの冥福を祈らせたが、この度カトリック名古屋教区も、栄国寺側の好意溢れる快諾を得た上で、信仰のための彼らキリシタンの熱心と忠誠をたたえつつ、この碑を建立する。 1997年11月23日 カトリック名古屋教区長 (筆者注 *「村方」町方 (まちかた) に対して、農村・漁村などの村をさす語。 |
文:笠松キリスト教会 K