聖書箇所:創世記8章20-9章19節
鴨下直樹牧師(本日は姉妹による代読です)

創世記8章20-9章19節「ノアの箱舟4 虹の契約」
2025.12.14
まず初めに今日はインフルエンザになってしまったために、この礼拝説教が代読という形になってしまいましたことをお許しください。そのために聖餐式や役員会、みなさんの相談会の予定もすべて変更となってしまいました。代読ですが、説教をお聞きになられて、みなさんがそこから神様の福音を聴き取ることができるよう願っています。
さて、私たちは来年から新しい牧師を迎えるための準備をしようとしています。そのために牧師館の改修のことなども話し合うことになっています。新しい牧師を迎える時というのは、私たちもどこかで期待と不安が入り混じるような不思議な思いになることがあると思います。
それと同じように何かを新しくこと始めるという時にも、私たちは新鮮な思いになります。新しい職場に行く、新しい車を買う、そのような時はもちろんですけれども、新しいノートを使う時でさえ、不思議な緊張感と楽しさがあります。これからどうなるのかという想像が、そこから膨らんでいきます。そこには、様々な期待があるのです。今日の聖書の個所も同じです。この天地を創造された神であられる主は、この罪に満ちていた世界を一度洪水によって滅ぼしてしまわれました。そして、ここから新しいことを起こそうとしておられるのです。私たちでさえ、新しいことを始める時には期待を込めているのですから、神ご自身が創造されたこの世界を、もう一度新しく始めようという時に、その神自身は、どんな思いだったのでしょうか。
今日の聖書の個所は少し長いところですけれども、とても特徴的な箇所とも言えます。洪水が終わりを迎え、ノアたち家族に対して神は次々と言葉を語られています。洪水の終わりは、前回あまり丁寧にお話しできませんでしたが、8章13節以下から記されています。特に今日の聖書の箇所は、特徴的な箇所と言えます。というのは、この8章の20節以降に四回、神の語りかけが記されています。一気に神が心のうちを曝け出したかのように、神の口から言葉が次々と発せられているのです。今日の箇所はそういう意味でもとても興味深い箇所と言えます。というのは、その四度とも神が一方的に語っておられるのであって、人は一言も発していないのです。それは、言ってみれば、ここで神がうれしくって思わず饒舌になっておられるかのように感じにも読めるかもしれません。このところは、神は、世界を再び再創造された世界の中で、明確な意思を持って語ろうとしておられる「現れ」と言ってもよい部分です。ですから、今日の聖書の箇所はそれほどに大切な神の意志の表れているところと理解してくださると良いと思います。
この神の独り語りのきっかけは、箱舟から出たノアと、その家族が捧げた礼拝の全焼のささげ物の香りです。この時、祭壇で焼かれたのは「きよい鳥」とあります。神はこの鳥が焼かれる時の香ばしい香りをかがれ、そのお心が動かされたのです。そして、ここから神がどんな言葉を発せられたのかが記されています。
21節をお読みします。「主は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で主はこう言われた」とあります。驚くことに、神は口に出して、ノアに聞こえるようにはお語りになったのではないのです。「心の中で」とありますから、自分自身に言い聞かせるように語ったということでしょう。つまり、ここには神の決心が記されているのです。
21節の続きでは「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。」と言われました。神は「大地にのろいをもたらしはしない」と、決心なさったのです。この言葉の中には、神がこの世界を洪水によって滅ぼすことに対して、どれほど厳しい思いで望まれたのかということが語られています。それほどの神の決心です。
けれども、このすぐ後に、神はこのように語られました。「人の心が思い図ることは、幼い時から悪であるからだ」。これは新改訳が2017になって変えられた大きな変化の一つです。以前の第二版では「初めから悪であるからだ」となっていました。以前の「初めから悪」という翻訳をすることでいわゆる「原罪」の教理を強調したかったのかもしれませんが、この2017年訳ではヘブル語の原文の意味をそのまま訳しています。
神は、罪人を全て滅ぼされて、新しい世界に再創造なさいました。しかし、そのような新しい世界ではあっても、人間の持つ罪というものが、何の解決も見出されていないことが、ここを読むと良く分かります。人間は幼い頃から、子どもの時から、その心の中に悪いことを思うのです。誰かが教えなくてもです。この個所は特に「原罪」という、キリスト教の教理を強調するところではありませんけれども、私たちはそのことを心に覚えておかなくてはなりません。そして、だからこそ、子どもの時から、神の前に生きることの尊さを教えていくことの大切さを覚えたいのです。このことは、教会の使命でもあります。
先週も、教会で子どものクリスマス会が行われました。何人かの子どもたちが風邪をひいたと聞いていましたので心配していましたが、あとで写真を見て、子どもたちが集って楽しそうにクリスマスのお祝いをしている姿を見ながら、本当に嬉しい思いになりました。子どもたちに、私たちの救い主のことを知らせるのは私たちの大切な働きです。主ご自身が、そのことを何よりも望んでおられるのです。
9章に入りますと、今度は言葉を口に出して語りかけます。その言葉がノアとその息子たちへの祝福の言葉です。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と、神が天地創造の時にすべての被造物をお造りになられた後で語られた言葉を、ここでもう一度語り直しておられるのです。そして、この祝福と同時に、食物のことがここで語られます。ここでは「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である」と3節で言われています。この時から、人は肉を食べることがゆるされたのだと考えられています。
肉を食べる。神はこのことを祝福の一つとしてここで語っておられます。もちろんさまざまな理由で、肉を食べない人たちが出てきております。それぞれの人たちの考えもそこにはあるのだと思います。しかし、この9章の1節から3節は、鳥、魚、動物、そして、野菜や木の実といったものを、神はすべて人に与えると語ってくださいました。これは、神の祝福の言葉ですから、私たちは喜んでこれを口にしたら良いのです。
ただし、ここに一つのことが注意事項として告げられています。それは、そのあとの4節の言葉です。
「ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」とあります。
ここで、主が言われておられることもまだ同時にとても大切なことです。主は、動物や家畜もむやみに殺してはならないのだということがここで言われているのです。つまり、人間が弱肉強食の頂点に立つ存在だなどいうのではなくて、むしろ命を尊むものだということを、ここで語っているのです。
というのは、このあとの5節以降は食べ物の話というよりも、ここからはいのちの尊さの話が展開されていきます。もし、人間が命に対する尊厳を失ってしまうなら、人間は獣と化してしまうことになるのです。肉を食するということは、他の命を、他の生を犠牲にして、自らが生きるということです。だからこそ、そこには命への畏れが必要なのです。このことを忘れてしまうなら、この世界は再び、すぐにでも間違った世界になっていってしまうのです。だからこそ、神はここで肉を食べることを祝福の一つとして教えられながら、同時に、いのちの尊厳ということと対にして人に語っておられるのです。
事実、大洪水によって神は、全ての命を滅ぼしてしまわれました。けれども、神はその命を誰よりも大切にしておられた方です。神は全ての命を滅ぼしたのだから、今後は、何をやっても許されるというような誤った考えが出てこないためにも、神はここで人に対して語られたのでした。
ですから、この5節では「わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。いかなる獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。」と語られています。
これは「いのちにはいのちを」という、後に「目には目を、歯には歯を」で知られる有名な「同害同復法」といわれる戒めがありますが、この戒めに先立つ戒めです。けれども、原則的には同じことが教えられていると言えます。人の命を奪うものは、自らの命を奪われる、だからむやみに人を殺してはならないのだと、主は再創造された新しい世界になった最初に、このことを宣言しておられるのです。
その理由として続く6節ではこう語られています。
「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。」ここに語られている人を殺してはならない理由は、「人は神のかたちであるから」とされています。人間のいのちは神に基礎を置いているのだから、それを軽んじることは、神を軽んじることになる。だから、人の命を軽々しく奪うものは、神のさばきの対象になるということを、ここで改めて明確に教えておられるのです。
こうして、それまでは楽しい食べ物の話しであったはずなのに、気づいてみれば、人間の根本的なあり方の話へと展開されていくのです。話が飛躍しているようですけれども、まさに、神の作られた世界というのは、そのような人間の自分勝手な振る舞いが、そのような破滅を招いたことを、どうしても理解して欲しいのだという神のみ思いがここに、込められているのです。
ニュースや新聞を見ていてもそうですが、短絡的な殺人事件というものが頻繁に起こっています。逮捕されて、動機を問うと「むしゃくしゃしたから」という言葉が語られます。何かその言葉に正当性があるかのように、人を殺した理由はそれだと犯人たちは口を揃えて言います。自分の気持ちを支配するということは、子どものころから学んでいかなければならないことでしょう。人をたたけば、痛いのだということは、子どもの頃から身をもって知っていく必要があります。そういう一つひとつの積み重ねが、自分の心を、コントロールする力となっていきます。そして、この自分の感情がコントロールできずに人々が罪に走った結果が、この大洪水を招いたと言えるのです。
最近は動物を飼うことが、そのような心に大きな助けとなるとも言われます。けれども、それは同時に、想像力の足りなさが、動物を虐げることになる現状ともなっています。そうです。まさに、そこで問われているのは、「想像力」を持つことです。
「いのちにはいのちを」と言われていることの本当の意味はそこにあるのでしょう。相手を苦しめることになるということを学ぶのは、想像力しかないのです。まさに、描いてみせる力です。神は、人に、この大洪水という、とてつもないさばきをお見せになって、人が滅ぼされるということが、どれほど恐ろしいことか、決して忘れることがないように、見える形でお示しになられたのです。人の命を奪うことは、それほどに恐ろしいことであると。
そして、箱舟に動物たちを乗せ、すべての動物をお救いになられたさまを、このように示すことによって、神の愛と慈しみの大きさがどれほど細かなものであるかを、すぐに想像できるような形で、世界に示されたのでした。
こうしてノアの箱舟の物語は、世界中で誰も知らない人がいないくらいに、このイメージが語り伝えられ、神の救いのメッセージは世界中に届くようになったのでした。
神は、人も動物をもお救いになられるお方である。これが、このノアも物語を通して世界に示された神の救いのメッセージでした。誰にでも想像できるような形で、神は救いを私たちに示してくださっているのです。
そして、この想像力の豊かな神は、この物語のおしまいには、「虹」をお与えになられました。誰かが虹を見る時に、誰もがこの救いのメッセージを思い起こすことができるようにと。人に豊かなイメージをお与えになられた神は、この虹を用いて神の意思を心に刻むように教えてくださり、人が再び滅ぼされてしまうことがないことを教えようとなさるのです。
けれども、この神はこのメッセージを私たちに「思い出せ」と言われるのではないのです。神ご自身が「思い出そう」と言われるのです。16節です。
「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
神はこの虹を、私たちを滅ぼすことのないことのしるしとして与えてくださいました。この虹は、私たちが思い出すのではなく、神が思い起こしてくださるのだというのです。なんのためか。それは、人へのさばきの思いを神ご自身が踏みとどまるためだというのです。そのために、虹を残そうと言われるのです。人に要求するのではなく、神ご自身への自戒としての虹なのだと。これこそが、恵み深い神の愛の心です。
また、この虹についてはもう一つの大切なことがここで語られています。それは、大洪水でもはや人間を滅ぼすことはしないという、神からの契約のしるしだともここで語られているのです。このノアの箱舟の話の初めの時に、すでにお話しましたけれども、この神の契約というのは、神が一方的に話してくださるという契約です。ここでは、人はひたすら沈黙しているだけにすぎません。ただ、神は私たちを救うためにお一人で働いておられます。
けれども、神はこの雨上がりの虹をご覧になり、永遠の契約をしたことを思い起こそうと言っておられる時に、同様に私たちにもこの約束を思い起こすことを願っておられるのは明らかです。
神は、私たちが神の救いと恵みの御業を思い起こすことを願っておられます。虹は、天と地が一つに結ばれるようにかかります。この虹の姿を私たちが見る時、私たちは神の救いの御業を思い出すのです。神のおられる天と、私たちが住んでいるこの地を、神は虹で一つに結んでくださった。この、私たちと関係を深く結んでくださる神と共に生きるなら、私たちは新しく生きることができるのです。私たちの主は、私たちに一方的に豊かな恵みを示し続けてくださるお方です。この神の豊かな恵みを、私たちは喜びを持って受け止め、この主と共に、愛を希望に支えられながら歩むことができるのです。今週も、この主と共に私たちもまた、新しい歩みを再スタートさせていただきましょう。
お祈りをいたします。
