岐阜キリシタン小史(17)―コンスタンチノのこと―
美濃・尾張のキリシタンについて記すにあたり、コンスタンチノという人物のことを避けて通れない。しかし、残念ながら残されている史料はわずかしかない。
コンスタンチノについて調べるにあたり、参考にさせていただいた史料は二つある。ひとつは小生が今作成中の「岐阜キリシタン小史」の年表の基にさせていただいている『尾濃切支丹年表』森德一郎著(1935)。もうひとつは『尾張と美濃のキリシタン』横山住雄著(1978)である。どちらにもコンスタンチノに関する記述はわずかしかない。
まず、小生が作成した「岐阜キリシタン小史」の年表(すなわち森氏の『尾濃切支丹年表』になるが)、コンスタンチノについてに関連する箇所を抜き出す。
- 1562(永禄5)年 伊賀国の澤城主・高山飛騨守(友照・高山右近の父)以下150名が受洗。…城中に会堂を建立し、
尾張・海部郡花正(現在のあま市花正)出身の下僕コンスタンチノを神に仕えさせる。(筆者補足:コンスタンチノについての最も古い記録だと思われる。遅くともこのころには既に洗礼を受け、「コンスタンチノ」という洗礼名も得ていたことになる)。
- 1564(永禄7)年 修道士アルメイダが澤城教会堂のコンスタンチノを遇する。
- 1566(永禄9)年 コンスタンチノ、このころ尾張・花正に帰り、布教を始める。(筆者補足:コンチタンチノの生まれは尾張の花正(現在の愛知県あま市花正)である)
- 1569(永禄12)年 尾張・花正のコンスタンチノ、常にロザリオを持って祈り、洗礼に勤める。
- 1571(元亀2)年 尾張のコンスタンチノ、この10年間に600人に洗礼を授ける。
- 1577(天正5)年 コンスタンチノは70歳を超えたが、10人または12人の信者を率いて、しばしば上洛して教会を訪ねる。尾張でも300人に洗礼を授ける。
上記以外の記録として、横山住雄氏の『尾張と美濃のキリシタン』には以下のようにある。
- 1573(天正元)年 尾張から三人のキリシタンを引き連れて上洛。うち二人はコンスタンチノが尾張で洗礼を授けた者であった。このキリシタンが宣教師に語ったところによると、コンスタンチノはファナマサ(花正)に国の祈禱所を造り、日曜日にはキリシタンを集めて十戒を説明した書物を読み聞かせていた。
- 1571(元亀2)年 尾張のコンスタンチノ、この10年間に600人に洗礼を授ける。
- 1581(天正9)年 尾張に約200人のキリシタンがいたが、ほとんどすべてこのコンスタンチノが洗礼を授けた人たちであり、この年やっと宣教師(ガスパル・クエリヨ)の訪問を受けることができた。
【ガスパル・クエリヨがイエズス会総長に送った手紙】
美濃のキリシタンの告白を聴き、これを慰めたる後、パートレは美濃国と境を接したる尾張国のキリシタンを巡視することとした。この国には二百人余りのキリシタンがあったが、ほとんど皆コンスタンチノと称するキリシタンが帰依させて洗礼を受くるに至った者である。この人は我等の主が同国において多く収穫をなすために起たせ給うた人であり、聖堂を維持し、絶えず異教徒に説教し、その高き徳とよき模範によってかの地の少数のキリシタンの信仰を堅うし、多数の異教徒の間に居りて、彼等を教ふるバードレなきにかかはらず、徳を積み信用を得ることパードレ等の間に在る都地方の人々にも劣らざりしめた。
コンスタンチノに関する記録は残念ながらこれぐらいしかない(横山氏の記録はおそらく、ルイス・フロイスの『日本史』によるものだろう。森氏のものは90年前に出版されたもので、何に依拠しているものなのか不明)。コンスタンチノは武士であったのではないかと言われているが、日本名すらわからない。また、尾張の花正から高山飛彈守(右近の父)のもとへ、いつ行ったのか、なぜ行ったのかもわからない。コンスタンチノの故郷花正というところはどんなところであったのだろう。ある人は「キリシタン村」と書いているが、まさしくそのようなところであったのだろう。1577年のとき70歳を越していたというのだから、1562年に高山飛彈守の下僕として仕えていたときには、すでに55歳にはなっていたはずである。
もうひとつ、重要なことを書き添えなくてはいけない。「尾張の五聖人」との関係である。これもまた推測の域をでないのであるが、若いときに洗礼を受けたコスメ竹屋やパウロ鈴木は、まだ尾張にいたころにコンスタンチノから洗礼を受けた可能性は十分にある。であるならば、とても興味深いことである。

写真はあま市の法光寺にある小さな石塔である。コンスタンチノの供養塔だといわれている。600人もの人を洗礼に導いたという人のものとしては、あまりにも寂しい…
文:笠松キリスト教会 K