日本二十六聖人のことを書いているが、参考にしている『日本26聖人者物語』(ゲルハルト・フーバー著、アンジェロ・アショフ訳 聖母文庫)のまえがきの中に、次のように記されていた。「…さまざまな国の人を含んだこの集団は、言ってみれば、宣教に従事する人たちの国際協力団体のようであり、まさしくカトリック教会を代表していたといってよいでしょう」(アンジェルス・アショフ)。明治維新後や第二次大戦後の日本にたくさんの宣教師が来日した。同じことがこの時代にもあったのだと思わされた。 この本のなかに、26人の国籍や所属修道会、職務が簡潔に書かれているので、あわせて紹介したい。
国籍…スペイン4名、メキシコ1名、ポルトガル1名、日本20名
所属修道会・職務
・フランシスコ会6名(司祭3名、修道士3名)
・在世フランシスコ会員と協力者17名(伝道士5名、伝道士見習2名、奉仕者7名、京都・大阪の修道院に住み込みの手伝いをしていた少年3名)
・イエズス会修道士3名
尾張の五聖人について、ルドビコ茨木について前回までに随分紙幅を割いてしまった。他の4人について記してみたい。(下の肖像は『日本二十六聖人画像』岡山聖虚画。数字は、長崎・西坂の二十六聖人記念碑の右からの順番)
2.コスメ竹屋

伝道士。侍で刀研師であった。既婚者。イエズス会士から洗礼を受けた古い信者。殉教時38歳?大坂のフランシスコ修道院で伝道士として働き、マルティン神父(二十六聖人の一人、長崎・西坂で殉教)を助けた。深い愛をもってらい病患者たちの世話をし、精神的にも彼らの支えとなった。大坂で捕縛された。
7.パウロ茨木

伝道士。侍で樽職人であった。レオン烏丸の兄。ルドビコ茨木は甥。既婚者。殉教時54歳。京都に移り住み酒屋を営みながら、レオン烏丸とともに貧者や病人の世話をし、布教に力を尽くした。雄弁ではなかったが、簡単な説話でイエスの教えを知らせた。十字架上で槍に刺されたとき、「神よ、あなたにいのちをささげます」と祈ったと言われる。
18.レオン烏丸

伝道士。若い頃は僧であった。パウロ茨木の弟、ルドビコ茨木は甥。既婚者で娘がいた。殉教時48歳。 イエズス会のイルマンに会ってイエスの教えを聞き、寺を離れ宣教師のもとで勉強し受洗。フランシスコ会士らが教会を建てようとしたとき、その世話係を務めた。京都市中の病人たちに尽力し、聖アンナ病院の管理にあたった。人々から「神の聖役者」と呼ばれた。
26.パウロ鈴木

伝道士。13歳のときイエズス会士より受洗。殉教時49才。若いときには武器を持って手柄を立てようとしたが、信仰を深めるにつれて世俗のことから離れ、刀を収め京都の修道院の近くに妻とともに転居して、聖ヨゼフ病院の管理人を務めた。彼には二人の子どもがあったが、幼いときに亡くなったので、孤児を妻とともに育てた。肖像画に子どもが描かれているのはその象徴だろう。
文:笠松キリスト教会 K