―信長・信忠父子によるキリスト教保護―
「岐阜の市(まち)に到りましたが人々の語るところによれば、8,000~10,000 人の人口を数えるとのこと、往来する人の数がおびただしく、バビロンの混雑を思わせる程でした。…」これは1569(永禄12)年5 月、イエズス会宣教師ルイス・フロイスがその著書『日本史』の中で岐阜について記した一文である。
岐阜に入城した信長は商業を活性化させるため楽市楽座を置き、武士と農民を切り離し専業の武士団を創設したほか、「天下布武」の印章を使うなど次々と新しい施策を推し進めた。また、キリスト教を手厚く保護し、フロイスが岐阜を訪れた際には自身の館を案内したほどであった。信長はフロイスのほかカブラルやオルガンティーノといったイエズス会宣教師と頻繁に会い、彼らから西欧のことや自然科学の知識を得て喜んだという記録が残っている。
その後、信長が安土に移った後、岐阜の城代となった長男信忠も信長同様にキリスト教を保護し、領国の美濃尾張にキリスト教が広まることを願った。
1579(天正7)年のイエズス会の『日本年報』には美濃・尾張には200人のキリシタンがおり、信忠から領国内に修道院と教会の建設用地を与えられたという記事がある。
また、信忠はそれまで日本人から処刑の道具として嫌悪されていた巨大な十字架を岐阜の中心地に建て、人々を驚かせたりもした。
1581(天正9)年、安土に教会堂や洋楽堂が建てられ、信長の親族や家臣の子弟の教育が行われるようになったことに対し、信忠が「安土に先を越され遺憾である」と悔しがったという逸話も残されている
文:笠松キリスト教会 K
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