聖書箇所:ヨハネの手紙第一 1章1-10節
鴨下直樹牧師
使徒信条の信仰をよく理解していただきたいと願いながら、少しずつ使徒信条の聖書箇所からみ言葉を聞いてきまして、今回で14回になります。今日のところは使徒信条の「聖徒の交わり」という部分です。
この礼拝に集っておられる方々は、この笠松教会で洗礼を受けられた方が少なくありません。けれども、他の教会で洗礼を受けて、引っ越しや、結婚や、あるいは何らかの事情でこの笠松教会の礼拝に集っておられる方もあると思います。あるいは、まだ洗礼を受けておられない方もおられます。今この礼拝に、実にさまざまな地域で生活され、また信仰に導かれた方々がここで一つにされているという不思議さを感じます。生まれた地域も違えば、信仰に導かれた教会も違う、あるいは、さまざまな異なる考え方をしている人たちが、こうして一つの教会にされています。これが、「聖徒の交わり」という言葉で表現されている教会の一つの姿です。
それはこのように言い変えることもできるかもしれません。どのような教会で生活していようと、どのような家庭環境にあろうと、どのような立場にあろうと、病気であろうがなかろうが、裕福であろうがなかろうが、仏教の家で生まれようがそうでなかろうが、あるいは、若くても、年をとっていても、この世のありとあらゆる違いを越えて、すべての人が教会という場所で一つになることができるという信仰の告白です。私たちはそのことを信じていると告白しているのです。
先ほど読まれた聖書ではこう語っています。 ヨハネの手紙第一1章3節の後半部分をお読みします。「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」
とんで、1章7節をお読みします。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」
私たちは御父と御子イエス・キリストと交わりをもっていますと、ここに書かれています。そうして私たちは今、「互いに交わりを持つ」者とされたのです。これが、教会に集って一つとされている私たちに与えられているものです。教会というのは、この「お互いにキリストとの交わりに生きるようにされているものたちの集い」のことだということができます。
使徒信条はこの教会を信じるという、信仰の告白の部分で、それに続いて教会というのは「聖徒の交わり」が行われるところなのだと告白しています。ここでまず「聖徒」という言葉が使われていますが、この言葉はもとの言葉はラテン語でかかれています。この「聖徒」という言葉ですが、この言葉は、「聖なる人」とも訳すことができますが、「聖なるもの」という翻訳をすることも可能な言葉です。
「聖なる人」と訳したのが、この使徒信条の翻訳に表れていまして、これは西方教会と呼ばれるカトリックやプロテスタントの教会の中で理解されている考え方です。私たちの教会もその伝統の中に生きています。この理解は、まずこの「聖なる人」との交わりというのは、つまり、先ほどご一緒にお読みした第一ヨハネに書かれている「キリストとの交わり」という意味で理解しているのです。まず、私たちは聖なる人であられる「主イエス・キリスト」との交わりに生きているということを第一に理解しているわけです。
そして、そこからさらにこのキリストと共に生きている者たちが、互いにキリストにあって結ばれて、一つの交わりを形作ります。それが、「聖なる者」とされた者同士の相互の交わりである教会の交わりということに広がっていくわけです。これが、「聖徒」の持っている意味です。
けれども、この教会による互いの交わり、聖徒たちによる交わりというのは地域や時間に限定されない交わりです。それは、本当に大きな、また豊かな交わりを表しています。先日私たちは韓国のオンギジャンイの方々をお招きしてコンサートをいたしました。このように国を超えて、言語を超えて、お互いに結び付けられているのが、この「聖徒の交わり」でもあるのです。さらには、時間も超えているわけですから、すでに天に引っ越しをなさった愛する信仰の先人たちも、この交わりに含まれていることになります。
ヨハネの手紙ではこのことを、「光の中を歩む」という言葉で表現しました。「父なる神またキリストとの交わりに生きる者は、光の中を生きている。なぜなら御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめるからだ」と語っています。7節にある「光の中を歩む」というのは、罪の中を歩む、罪がもたらす暗闇に生きることがないようにされるということです。主イエスは、罪からきよめてくださる。これは、ただ罪が赦されるということに留まりません。罪がもたらすさまざまなもの、たとえば暗い気持ち、悲しい気持ち、滅入ってしまうようなあの感覚から、私たちを神の救いの光の中へと移してくださるのです。それは本当に光の中を生きる喜びです。あの、暗い支配の中に、身を置く必要がなくなるということです。それが主イエスによって起こる救いの出来事です。
教会には、洗礼を受けておられる方と、まだ受けておられない方がおられます。今日私がぜひお勧めしたいことは、「ぜひ、まだ洗礼を受けておられない方々は洗礼を受けていただきたい」ということです。キリストによって罪をきよめていただいて、光の中を生きていただきたいのです、罪の中に生きる重荷から解放されて、喜びの中を歩んでほしいのです。この喜びの歩みを一緒に歩みたいのです。
生活環境がどうであったとしても、これまでの自分の生き方がどうであったとしても、どこで生まれようと、どのように育とうと、どのように生きていようと、このキリストは私たちを光の中を歩むことができるようにしてくださるお方です。そして教会というところは、あらゆる違いを超えて、神がわたしたちを一つにしてくださるのです。光の中を生きる者としてくださるのです。
どのように一つにされるかというと、それは特に聖餐においてです。この使徒信条の「聖徒」と言う言葉は、「聖なる人」とも訳せますが、もう一つは「聖なるもの」と訳すことができると始めに言いました。これは、東方教会と呼ばれる教会、ロシアやギリシャの教会の伝統ですけれども、「聖なるもの」に預かる。つまり、「聖餐」にあずかる。「パンとぶどう酒」にあずかることで、私たちは一つとされると信じてきたのです。このような東方教会の理解も大切な理解の一つです。
今日の礼拝では行いませんが、私たちは礼拝の中で聖餐の祝いをいたします。この聖餐ほど、私たちはキリストご自身と深い交わりをしていることを表すものはありません。キリストの血は、私たちの罪を赦すために流された血です。ぶどう酒をいただくとき、私たちはこのことを覚え、感謝してこれを受けます。キリストの体は、私たちが神からの裁きによって引き裂かれるべき体を、キリストが変わってくださったことを覚えます。パンを頂くとき、わたしたちはこのことを覚え感謝していただきます。それは、具体的で、感覚的にもそのことが分かります。聖餐に預かる時、私たちは神のものとされたことを、実際に体験することができます。まさに、「聖なるもの」に預かっていることが分かるのです。こうして、キリストの血と体によって、キリストの者にされたこと、聖なるものにされたことが分かるのです。そして、ここで、聖なるものとされた者たちの交わり、聖徒の交わりが実際に起こるのです。
聖餐において、私たちは主にあって一つにされていることを覚えることができます。キリストに結びあわされていることが分かるのです。これは洗礼を受けられた者だけが預かることのできる礼典です。洗礼を受けて、聖餐に預かる時、私たちは言葉通り、ひとつとされていることを体験することができます。それぞれが、異なる生活の中にいながらも、こうして、聖餐を通して、聖徒の交わりを形造っているのです。聖餐を祝うということは、それほどに意味深く、大切なことなのです。だからこそ、この聖餐に預かる仲間に、一日も早く多くの方が加わることができるようにと、そのつどお招きしているのです。
前回の使徒信条の「我は教会を信ず」の箇所を説教した時に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉を紹介しました。「教会は他者のために存在する」という言葉です。実は、来月の11日から岐阜の柳ヶ瀬にある映画館で、このディートリッヒ・ボンヘッファーの映画が上映されることになりました。「ヒトラーの暗殺を試みた牧師」といういかにも人の関心を呼びそうな宣伝の短い映像が流れています。もちろん、聖書には「人を殺してはならない」と書かれていますから、暗殺などというのはいかがなものかという評価もあるのは事実です。けれども、この時代教会はヒトラーをまるでキリストであるかのように人々からあがめられる対象とし、ドイツの国教会は、ヒトラーの考えに支配されてしまうような暗黒の時代を迎えます。ユダヤ人の迫害に留まらず、多くのキリスト教会の牧師も捕えられ、迫害された時代の中にあって、何人かの牧師たちが「ドイツ告白教会」を立ち上げ、信仰の回復のために立ち上がります。その中の指導者の一人が、このディートリッヒ・ボンヘッファーでした。
そして、このボンヘッファーが何もよりも重んじたのがこの「聖徒の交わり」という使徒信条に記された信仰だったのです。
このボンヘッファーは「第一信仰問答」という信仰を教える書物を書きました。その教会のところにこう書いています。
問 まことの教会はどこに存在しますか。
答 説教があらゆる人間的自己義認を打ち砕く恵み深い神についての純粋な福音と共に、立ちもし倒れもするところに、教会は存在します。聖礼典が、あらゆる魔術的要素を抜きにして、キリストの言葉にもとづいているところに、教会は存在します、聖徒の交わりが、支配することによってではなく、互いに仕えあうことによって立てられているところに、教会は存在する[1]
まことの教会とは何かということを語る中で、説教と聖礼典、つまり聖餐式と洗礼式を通して福音が知らされ、そして「聖徒の交わり」が互いに仕え合うことによって教会は存在するのだと教えました。
このボンヘッファーの言葉は、もともと宗教改革者ルターの作成した信仰告白の文章、「シュマルガルテン条項」の文章を、ボンヘッファーなりの言葉で表現しなおしたものです。ルターが大切にした「聖徒の交わり」の中に福音がありとどまるのだという教えを、ボンヘッファーはもう一度このことが大切だと強調したのです。
ここで、ボンヘッファーは「聖徒の交わり」というのは、「互いに仕え合うこと」と表現しました。お互いが、お互いに仕え合う、誰かを支えようとする交わりの中に福音は示されると言ったのです。
実は、私が同盟福音の正教師になる時に、論文を書く必要があったのですが、その時に出されたテーマが「牧会における牧師のリーダーシップとは何か?」というテーマが与えられていました。当時の私はまだ若かったこともあるのですが、この与えられたテーマに反発を抱きました。牧会というのは、牧師のリーダーシップで成り立つのではなくて、ここでボンヘッファーが言っているように、教会の人たちが互いに仕え合うことによって牧会というのは成り立つのだと、私はその時の論文の結論で書いたのです。今思えばいろんな書きようがあったと思うのですが、まだ若かった私は少し向きになって論文を書いてしまったなと思う部分があるのですが、このことは教会を考える上でとても大切なことだと今でも思っています。
そして、私はこの笠松教会の皆さんが、お互いに本当によく支えあっている姿にいつも感動を覚えているのです。
牧会というのは、福音を何らかの事情で聞くことができなくなってしまった人に、もう一度福音を届ける働きのことです。ですから、それは牧師だけがすることではなくて、私たちがお互いに支え合うことで、福音を聞くことができるようになります。たとえば、足が悪くなって礼拝に来られないならば、車を出して迎えに行くことで、その人が福音を聞けるように支えるというのは、まさに牧会そのものです。それこそが「聖徒の交わり」ということができるものです。あるいは、何らかの都合で教会に通えないけれども、YouTubeでなら礼拝をみることができる、その人のために配信をするというのも牧会の働きです。あるいは、ホームページの説教の校正をして、原稿や音声をUPすることも、聖徒の交わりです。また、祈りのしおりを通してお互いのことを覚えて祈り合うことも、聖徒の交わりです。私たちは、ありとあらゆることを通して、お互いに支え合う、キリストの恵みを分かち合う交わりを作っています。これが、教会というところなのです。
お互いに祈り合い、励まし合い、仕え合う交わり、その中心にはキリストがおられます。キリストに預かる礼拝や聖餐が中心にあります。けれども、それに付属してあらゆるお互いの支え合いを通して、私たちは「聖徒の交わり」を大切にし続けているのです。
それでは、こんどはこの「交わり」という言葉についても考えてみたいと思います。この「交わり」という言葉の持つ意味は「一つのものを共有する」という意味です。「一つ」というのは、先ほども言ったように「聖なる人」や「聖なるもの」ということになるわけです。ですから、私たちはまず第一に、この主イエスご自身を共有する交わりを持っていることになります。それが、「説教」や「聖餐式」のことに繋がってくるわけです。「共有する」わけですから、奪い合うわけではありません。仲良く分けあうのです。喧嘩、恨み合い、争いというような人間関係の中で問題となるこれらの姿は、交わりを拒絶した姿、本当に幼い姿に他なりません。一つのものを共に分かち合うことができなくなってしまう姿というのは、本当に残念な姿です。
この「交わり」という言葉は、また「あずかる」という言葉で訳すことができる言葉です。漢字で書くと「預言者」の「預」、「預金」の「預かる」という字を書きます。私たちは交わりを通してキリストに預かっているのです。キリストと交わっている、キリストに預かっているのにもかかわらず、そこに争いや憎み合いが起こるのは、分け合っているお方、キリストからしてみれば、本当に残念なことです。主からしてみれば、なぜわたしを共有しているはずの者同士が、争い合ってしまうのか、恨み合い、憎み合ってしまうのかということになってしまいます。
もちろん、人の集まりですからそこで色々な意見があっても良いのです。異なる者どうしが、一つにされるのですから、それは当然な姿です。けれども、そこでいつの間にか、キリストに預かっていることが忘れられてしまうと、それぞれの思い、願いや言い分の競い合いになります。そうなってしまうと、それは教会の姿では本来ないのです。
私たちは、キリストに預かっている。キリストの恵みにそれぞれが預かっている。そこで分け合っているのは、神の恵みです。喜びです。愛です。ですからこのようなものを分け合うことができるときに、そこには争いが入り込む余地はないのです。
この第一ヨハネの1章4節では次のように書いています。「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」以前の第二版では「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」となっていました。
主イエス・キリストとの交わりに生きる時、そこには喜びがあるというのです。それも、ここでは全き喜びです。完全な喜びです。このような素晴らしい喜びの世界に私たちは招かれているのです。そして、この喜びは、互いにキリストを分け合うことによって、キリストにある恵みを分かち合うことによってより完全なものとなるのです。
私たちは、使徒信条を私たちの信仰の告白として受け入れ、信じています。私たちは、この教会が「聖徒の交わり」をする教会であると告白しています。お互いに全き喜びをいただきながら、主に預かり、み言葉に預かり、聖餐に預かる。そして、お互いに仕え合う交わりを通して、この喜びは完全な喜びとなっていくのです。
祈りをささげます。
[1] ボンヘッファー 「第一信仰問答」 1931 森野善右衛門訳 現代信仰問答 新教出版社 p.21-22
