ペンテコステ礼拝 使徒信条の信仰12「聖霊を信じる信仰」2025/06/08 ※11は次週になります。

聖書箇所:ヨハネの福音書14章16-31節
鴨下直樹牧師

使徒信条の信仰12 

ヨハネの福音書14章16-31節 「聖霊を信じる」 

2025.06.08

ペンテコステ主日

 今日は、ペンテコステの主の日です。ペンテコステというのは「50日目」という意味のギリシア語です。主がよみがえられてから50日目のこの日に、主イエスが約束してくださっていた聖霊が弟子たちに与えられました。この日をお祝いするのが、ペンテコステです。いつも、使徒信条の内容を順に説教しているのですが、今回、本当なら11回目で、この「聖霊を信じる」の前の部分である「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生けるものと死ねる者とを裁きたまわん。」という箇所から説教するはずでした。けれども、ペンテコステと説教箇所からずれてしまいますので、今日は来週と聖書箇所を入れ替えて、今日はこの「聖霊を信じる」というところのお話しをしたいと思っています。

まずはじめに、一つの祈りを紹介したいと思います。改革者ルターの祈りです。

 愛する神よ、私たちにあなたの聖霊を与え、私たちが耳で聞いたことばを心の中に書きつけてください。そうすれば、わたしたちはそれを受け入れ、信じ、とこしえにそれを喜び、慰められることができます。 アーメン

 この祈りは、聖霊を求める祈りです。聖霊によって、聞いた御言葉が心の中に書きつけられますようにと願う祈りです。今はあまりこのような祈りを耳にすることはないと思います。ではルターはどうして、このような祈りをしたのでしょうか。これは私の勝手な想像ですけれども、ルターの時代というのは、ちょうど活版印刷という技術が登場した時代でした。それまでは、まだ個人的に聖書を持つなどということができなかった時代です。ルターがドイツ語に翻訳したものをこの時代に発明されたグーテンベルグの印刷機によって少しずつですがさまざまな読み物が読めるようになりますけれど、聖書の言葉はまだ身近なものではありませんでした。当時の教会ではラテン語で聖書が語られていました。日常使っている言葉、ルターの時代であればドイツ語ですが、この自国語で聖書を聞くことはなかったのです。ところが、まさにルターの働きによって日常の自分たちの言葉で聖書を聴くことができるようになりました。そうであれば、せめてこの聖書の言葉を覚えていてほしいとルターが願ったのは当然のことだったのではないかと思うのです。まだ今のように聖書は個人で手に入れることは難しい環境でした。だからこそ、聖書の言葉が心の中に書き記されることをルターは求めたと思うのです。

 私たちは、今、常に身近なところに言葉があります。誰もが、自分の聖書を持っています。聖書を手にとって文字を読むということはなんでもないことです。けれども、ルターの時代はそうではありません。自分で聞き取った言葉を紙に書き写すことでもしないかぎり、教会で語られた聖書の言葉は次々と忘れさられていってしまうのです。そうだとすれば、それで信仰の歩みをしていくことができるか、というのは当時の真剣なキリスト者たちの問いであっただろうと思うのです。だからこそ、こう祈らざるを得なかったのではないかと思うのです。信仰を保つことができるためには、聖霊なる神に期待せざるを得なかったのです。

 けれども、印刷されている聖書を持っているとはいえ、このことは今日の私たちにとっても全く同じことだと言わなければならないでしょう。私たちも同じように聖霊によって、聖書の言葉が私たちの心の中に深く刻み込んでいただく必要があるからです。あるいは、私たちの信仰がなくならないように、聖霊によって支えていただく必要があります。ですから、このルターの祈りというのは、現代の言葉にあふれた時代であったとはいっても、やはり祈られ続けなければならない祈りだということができると思うのです。

 さて、今日は使徒信条の第三項目といわれる部分の最初の信仰告白である、「我は、聖霊を信ず」から、御言葉を共に聞きたいと願っています。先ほど司式者の方が読まれたのは、ヨハネの福音書14章16節から31節のところでした。その最初の16節にこうありました。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

 ここで「助け主」と記されているお方は、「聖霊」のことですけれども、新改訳聖書では注が載っていまして、その下を読んでみますと、「ギリシア語『パラクレトス』。『援助者』『とりなし手』を意味する」と書かれています。 ここでは、珍しくギリシア語が記されていまして、「パラクレトス」あるいは「パラクレートス」と発音した方が良いようですけれども、その言葉の本来持つ意味が書いてあります。これは、少し説明が必要なことだと、新改訳の訳者は考えたようです。というのは、「助け主」という言葉を見ると、「ヘルパー」というようなイメージをしてしまいがちになるわけです。この言葉はもともとは、「誰かのお世話をする人」のことを指す言葉ですので、その意味とは多少異なることを注意しておく必要があると言っているのです。この「パラクレートス」という言葉は、新約聖書の中には5回しか出てこない言葉で、このヨハネ福音書で四回、ヨハネの手紙第一で一度使われている、言ってみれば珍しい言葉です。新共同訳ではこの言葉を「弁護者」と訳しています。あるいは、ルターの翻訳では「トロースター」、「慰め主」という言葉が使われています。実に翻訳が異なっているかがよくお分かりになると思います。それほどに、豊かな意味を持つ言葉で表現されていることが分かります。

 主イエスは、私たちに「助け主」あるいは「弁護者」または「慰め主」ということもできるお方を私たちに与えてくださるようにしてくださいました。これは、聖霊なる神のことを指しています。この聖霊なる神は、最初に言いましたように、私たちがみ言葉を心に刻むことができるように、私たちを文字通り「助けてくださるお方」です。そして、それだけでなくて、私たちを「弁護してくださる方」だと言うこともできます。誰に弁護するのかと言うと、もちろんそれは、神の御前でです。私たちが罪を犯す。過ちを犯す。すると、聖霊が私たちに代わって弁護してくださる。それは、本当に私たちの日常の生活の大きな助け主となることでしょう。あるいは、私たちが神を見失いそうになるとき、不安に苛まれ、悲しみに飲み込まれそうになる時に私たちを慰めてくださる、「慰め主」としても、私たちを助けて下さるお方なのです。そのように、この言葉は、私たちの実際の生活の中で、神が私たちと共に喜びも、悲しみも共にしてくださる方という、豊かな意味があることを、まず覚えていただきたいのです。

 もう少し、このヨハネの福音書の語る内容に耳を傾けてみたいと思います。少し注意しながら16-17節までと、18節から20節までとの内容を見てみたいと思います。

 ここには対立するようにして4つのことが記されています。まず、16-17節を見てみます。「助け主を与えくださり」とあり、「世はこの方を見ることも知ることもない」「あなたがたは、この方を知っています」、そして、「このお方、あなたがたとともにおられ」と書かれています。まず、「聖霊がすでに与えられていること」、次に「この世は理解しないこと」、そして三つ目は「あなたがたすでに知っていること」、そして、四番目に「この方は共におられるお方」ということが書かれています。

続く18-20節でもこの4つの内容が繰り返されています。「わたしは・・・あなたがたのところに戻って来ます」、「世はもうわたしを見なくなります」、「しかし、あなたがはわたしを見ます」そして、「わたしは生き、あなたがたも生きることになる」

 カトリックの聖書学者で雨宮(さとし)とういう聖書学者の方がおられます。この方は、ギリシア語もヘブル語の理解も非常にすぐれた聖書学者です。この方が、この箇所でこんな説明をしています。ここで二つのこと、「主イエスがやがて来られること」と、「助け主がやがて仕わされること」が語られているとまず説明します。そして、この聖霊に対立するものとして書きだされているものとして「世」が記されているのだと説明しています。けれども、この16節から20節の中心的な話の前後にある15節と21節に、主イエスの愛が語られていることに注目します。そこで雨宮先生はそこでこう言うのです。「この世と戦い続けなければならない弟子たちに、主はご自身を語り、助け主を語ります。そして、その両脇を愛が取り囲んでいるのだと。それは、弟子たちを、『孤児にはしない』、あるいは『みなしご』にしないためだと言うのです」。雨宮先生によると、主イエスの愛の配慮が、こんな文体の中にまで現われているのだというのです。この説明を読むまで、私などはこの文章の構造に気づきもしませんでしたけれども、言われてみて本当にそのとおりなのです。

 主イエスの弟子たちが、そして、今日の主イエスの弟子である私たちが、「この世」に支配されてしまうことがないために、主イエスは、私たちに聖霊を与えてくださって、内側から助けてくださるだけでなくて、ご自身の愛で完全に私たちを取り囲んでくださるのです。主イエスはこのように、私たちがこの世で、この世界の真っ只中で、喜んで生きることを願っていてくださるのです。というのは、私たちの生かされているこの世というのは、このような助けなしに真実に生きることに困難な世界だということをよくご存知なのです。

 生きることが困難なのは、今に始まったことではありませんが、この混迷ぶりは日毎にひどくなっているという印象です。政治不信がここまでひどくなったのは、個人がそれぞれの思いを気軽にSNSなどで発信することができるようになったからでしょうか。SNSでは、政治不信だけでなく、経済も、医療も、食品も、健康も、ありとあらゆるジャンルで「不安感」を訴えています。今日ほどさまざまな分野で不安感を覚えさせられている時代はないのかもしれません。けれども、この世界が厳しいのは、世界の政治や経済や、宗教の争いや教育の問題のためではないのです。根本的なこところから、私たちの生きる世界は間違ってしまっているのです。

 「人間」をあらわす聖書のギリシア語は「アントローポス」という言葉です。この言葉は「上を向く者」という意味の言葉です。「神を見上げて生きる」、これが人間の姿なのです。けれども、顔をあげて生きることができない、私たちは神の方を向いて生きることができなくなってしまっています。なぜなら、私たちは自分たちの利益ばかりを求めて、自分の見たい方向に顔を向けて生きているからです。自分の見たい方ばかり見ているうちに、神を仰ぎ見て生きることができなくなってしまいました。これが、今の人間の姿です。神を見上げることができない人間は、もちろん、お互いの方を向きあうこともできません。イザヤ書53章6節にあるように「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」のです。

 創世記の説教をした時に、私たちは「神のかたち」に創造されたけれども、罪を犯した結果、この「神のかたち」を失ったという話をしました。神のかたちを失った人間というのは、本当は神を見上げて生きる存在だったのですが、自分の見たいものばかりを見つめる存在となってしまったといことです。そうして人間は、ここでイザヤ書に記されているように、自分勝手な道に向かって行くものとなったのです。

 ところが、神は私たちに「助け主」である「聖霊」を与えてくださいました。これをお祝いするのがこのペンテコステの日です。この聖霊は、主イエスが父にお願いして、私たちに与えられます。もう一箇所聖書を読みたいと思います。

第一コリント12章3節の後半にこういう言葉があります。

「また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」ということはできません。」

 パウロはここでこう言っています。聖霊が与えられることによって、私たちは「イエスを主です」と告白することができるというんです。

 これは、私たちがお祈りすることができるかどうかということにかかっていると言ってもいいと私は思っています。もう一つ、これと似た聖書の言葉があります。

 ローマ8章15節にはこういう聖書の言葉があります。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父。』と呼びます。」

 このローマの8章と言うのは、神様は与えてくださる救いのことが語られているところです。パウロはこの8章で何度も聖霊について語っています。救われるということは、聖霊をいただくということだと説明しているのです。このところで、神に祈る時に、「父よ、」と祈る。この言葉をも、聖霊があなたの心の中で、神に祈る思いを与えて下さっているから、そのように祈ることができるということです。続く、8章の16節ではこう書かれています。「御霊ご自身が私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」とあります、また17節では、「子どもであるなら、相続人でもあります」とも書いてあります。

 これはとても大切なことですが、私たちが神様に「天のお父様」とお祈りすることができるのは、私たちの心の中に聖霊が働いていてくださるからなんだということです。その時に、その人はもう「神の子ども」になっているとパウロは言っているんです。ということは、お祈りする心を持っている人は、もうすでにその人の心の中に聖霊が働いてくださっているということです。そして、その子どもには相続権があるとまで言っています。「相続人」というのは、天のお父さんの財産をもらえる権利があるというわけです。神様が持っている莫大な財産を、いただくことができる。それも、私たちの心の中に聖霊が働いていてくださるかどうかで分かるというのです。ここで私たちにもらえる財産とは何か気になる方があるかもしれません。それは、神の国の入国チケット、永遠のいのち、死後の安心感、罪の赦し、神様との和解、目的を持った人生、平安な人生その他の諸々が全部セットになっているわけです。

 この想像人になるということは、私たちがエデンの外を追い出された時に失った「神のかたち」を取り戻したということです。

 だから、ペンテコステは嬉しい日なのです。聖霊が私たちに与えられことがどれほど素晴らしいことなのかを、私たちはこの日に思い起こすわけです。

 そのほかにも、私たちに聖霊が働いてくださっていることを、私たちは、実は毎日様々なところで経験しています。それは、私たちが罪を犯す時にです。これは、いけないことだと、心の中に葛藤が起こる。それは、信仰の歩みをしようと志せば志すほど大きくなるあの葛藤です。それは、日ごとに大きくなる葛藤であるかもしれません。けれども、その時、どうか気づいてください。それは、神があなたの中に働いてくださっているしるしであり、聖霊があなたの中で何が正しいことかを教えようとしてくださっている声だと。そして、私たちは罪の戦いの中でこそ、私たちは聖霊の働きを知ることができるのです。「ああ、私は確かに神のものとなったのだ」ということが分かるのです。それは、とても大きな幸いな知らせなのです。私の中で、罪に心が痛む時、そこに神が働いてくださっているのです。実に、私たちはこの罪の戦いのさなかにあっても、神の聖霊の守りを知ることができるようにされているのです。

 ですから私たちはお祈りをします。私たちの心の中に、神のみことばがとどまるように、聖霊がいつも働いていてくださるようにとお祈りをするのです。

 ルターと共に、この祈りを私たちの祈りとしたいと思います。

愛する神よ、私たちにあなたの聖霊を与え、私たちが耳で聞いたことばを心の中に書きつけてください。そうすれば、わたいたちはそれを受け入れ、信じ、とこしえにそれを喜び、慰められることができます。 アーメン

 お祈りをしたします。