主日礼拝メッセージ「カインの末裔とセツの子孫」2025/05/18

聖書箇所:創世記4章17-26節
鴨下直樹牧師

創世記4章17-26節 「カインの末裔とセツの子孫」

2025.05.18

今、笠松教会の礼拝において創世記の御言葉を聞き続けています。この創世記は、神がこの世界をお造りになったことと、その後、人々がどのように神と歩んだのか、いや、どうして神と共に歩むことができなくなったのかが丁寧に語られています。ここまでのところで、この創世記は、人間が神のように生きたいと願った結果、神から離れて生きることを選び取ってしまったことがしるされていました。そして、前回のところでは、アダムとエバの二人の息子カインが、弟アベルと共に生きることを拒み殺してしまうことを通して、一緒に生きていく者を失ってしまったことが語られていました。つまり、信頼すべき神を失い、愛すべき隣人を失っていったことが記されていました。こうして人間は孤独な存在となったのです。ここまでが、前回までのところです。

さて、今日の聖書の個所ですが、読んでみますとそれほど重要なことが語られていないように一見、見えます。そして、実際に、私のところにある様々な創世記に関する書物も、このところは飛ばしてしまっているものが多いのです。けれども、良く読んでみますと、この物語は私たちがすーっと通り過ぎてしまうことはできないほどの、大切なことが語られていることに気づかされます。

 今日のところは、この孤独になってしまったカインがどのようになっていくかが語られているところです。正確に言いますとカインの子孫、カインの末裔の事が語られています。みなさんは、今日の聖書箇所を聞いて、少しおかしいと思われる方があると思います。何がおかしいのかと言いますと、アダムとエバには二人の息子しかいなかったはずなのに、どうしてひとりぼっちになったカインが結婚できたのか?ということが気になるのです。

 以前、金山のCLC書店だったか、東海聖書神学塾だったかの壁に、英語で書かれた聖書の系図が張ってありました。その系図というのは、アダムとエバから始まる家系図です。このアダムとエバの二人の下に、子どものカインとアベルと名が載っておりまして、アベルの名が消されています。カインに殺されてしまったからです。隣に並んだカインの方にはどこからか分からない女の人と子を産んで、その下にエノクという名が記されていたのです。私はこの家系図がどうしても気になりました。どうして、アダムの家族以外世界には誰もいないはずなのに、カインは一体誰と結婚できたのかということが気になってしかたがありません。それで、誰であったか名前は忘れましたけれども、神学塾の先生のひとりに尋ねました。「カインはいったいどこの誰と結婚したんですか?」すると、その先生がにやりと笑って、反対に私に尋ねるのです。「どうしてだと思う?」と。そう聞いて、その先生は私の質問には答えずにどこかに行ってしまいました。それで、仕方がないので自分で調べてみたわけです。説明を読めば「なんだそんなことか」ということですけれども、そのように、疑問をもって考えるということが、大事だということをそこで学びました。

 ですから、私も、今日はカインの奥さんがどこから来たのかはここで言わないことにしたいと思います・・・と、言いたいところですが、そうもいきませんので、お話しします。結論から言うと、聖書はいつも、全てのことが書いてあるわけではないわけです。アダムとエバというのは、もともと固有名詞ではありません。個人の名前ではないわけです。ということは、神は男と女を創造されたわけですから、当然、アダムとエバという固有名詞を持った人以外にも人がいて、その中の誰かと結婚したのだろうということです。私たちは細かなところが気になるわけですけれども、聖書はそういうことまで細かく全てが書かれてはいないのです。

前回の箇所でも、カインが、最初にアダムとエバと共に住んでいた場所から追い出された時、すでにカインは「私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう」と恐れています。ここを読んでもすでに、アダムたち家族以外にも他の人がいることが語られています。

私が、この系図を見た時に初め考えたのは、アダムとエバには聖書には書かれていないけれども、カインとアベル以外にも女の子どもがいて、その娘と結婚したのか?でもそうすると兄弟で結婚したことになるからおかしいなとか、色々考えたことがあります。けれども、色々想像力を膨らませて考えたとしても、聖書に書かれていないことは結局聖書が伝えたいことではないわけで、やはり大事なのはここに何が書かれているのかということに注目することが大切だということです。

 さて、そこで今日の聖書にしっかりと目にとめていきたいと思います。この4章17節以下には、二人の人物の系図が語られています。最初の系図はカインの子孫です。けれども、興味深いことに「カインの子孫」と私は今言いましたけれども、日本では一般的に「カインの末裔」と呼ばれることが多いのです。おそらく、その一つには作家、有島武郎(たけお)の書いた小説「カインと末裔」と無関係ではないでしょう。少し前のことですけれども、同じタイトルの映画もあったようですから、カインの末裔という言葉を耳にしたことのある方も多いと思います。有島武郎の小説というのは古い作品なので今はあまり読まれなくなりましたが、人を殺害してしまう悲しい男の生き様が描き出されていました。ただ、この作品についていまここで説明する時間はありませんけれども、ここでは、弟アベルを殺したカインの末裔というのが相応しく、このカインの末裔が七代にわたって記されています。

 ここで、まずこのカインが町を建てたことが語られています。エデンの園を追われて、この世をさまようことになった者が、町を建てる。町が築かれるということを描くことをとおして、ここから文化が生まれていくことが物語られていきます。ですから、ここで天幕に住む者の先祖となった者、家畜を飼う者の先祖となった者、音楽を奏でる者の先祖となった者、鍛冶屋になった者などという、一つの文化の祖先を記して、こうして文化が起こったのだということが物語られていくのです。

その最初に「カインは町を建てていた」(17節)とありますけれども、町というのは、自分の家族か住み着くわけです。なぜ、町を建てるかといいますと、一つには自分達家族の生活を守るためです。一緒に生活することで、外的から身を守ることもできます。このような自己防衛の考えが、今日の個所に大きく支配しているということができるかもしれません。

カインは、この町を自らの子どもの名にちなんで「エノク」と名付けます。この物語は、こうしてカインについて語るのではなく、すぐに「エノク」に移り、次々に子孫たちの名前がつづきます。そして、五代目の「レメク」という名が出てくるところで、少し立ち止まりまして、というか、特筆すべきことがあって、このレメクについて語ります。

 この「レメク」という名前は「強い者」という意味があります。この強い者はそこで何をしたかというと、「レメクは二人の妻を迎えた。一人の名はアダ、もう一人の名はツィラであった」(19節)と記されています。

 この創世記は、女と出会った時、

「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男か取られたのだから。」それゆえ、男は父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。 と創世記2章23-24節に記されておりました。これは、夫婦が、互いに切り離すことができない、まるで一つの体の要であることを語っています。夫婦というのは、それほど深い関係であることが語られていたのであって、このことは、聖書の原則として、夫婦は、一夫一婦であるということが語られているということを表しています。

 ところが、神の世界から外へ出て、自分の町を建て上げ、生活をし始めた時に、レメクは、二人の妻を娶ったのです。二人の妻を持つことは、その名のように、強さを表すことだと考えたのです。妻が二人あれば、こどもも沢山できる。子供がたくさんあれば、自分の身を守ることに都合がよいのです。

 それで、このレメクは、その名を示すかのように自分の強さを誇る歌を記しています。それが今日の4章23-24節にあります。

 レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のためには殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。』

 傲慢この上ない歌です。歌ということもはばかられるようなものです。これは、自分に少しでも危害を加えるものがあれば、その者に対しては完全な復讐で報いるという宣言です。自分に傷つけるものがあれば子どもであってもその命を殺すと宣言しているのです。ある聖書の解説者は、ここにテロ主義の源が記されているとさえ記しました。

 ここにあるのは、神から離れ自分に危害が加えられることを恐れたカインが、その末裔になると、過剰なほどの恐れをもって身を守るためには、どんな復讐でもするという広がりが描き出されています。

神を見失った世界、神を見失った文明というものは、自分のことは自分で守らなければならない世界だと言ってよいと思います。神を失った世界では、もはや人を信じることができないのです。だから、常にびくびくしていなければならない、攻撃されたら、自分の身は自分で守らなければならないと考えるのです。その最たるものが、自主防衛のためと言いながら、どんどんと武器を、武力を増強しつづけているこの国の姿にも表れているのです。そうやって、戦争はしないなどと言いながら、相手を威嚇する。そうしておいて、自分の強さを周りに示すことによって、身を守らなければならないなどというのは、このレメクの歌と何の違いがあるのでしょう。

「カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍」と24節にありますが、旧約聖書はヘブル語で書かれておりますけれども、最初に訳されたのが、七十人訳聖書というギリシャ語の聖書です。この翻訳はパウロも使用していましたから、どれほど古いものであるか良く分かると思いますけれども、この七十人訳によると、「七度を七十倍するまで」と訳されております。

すると、すぐに一つの新約聖書の物語を思い起こします。マタイの福音書18章21-23節にこういう出来事が記されています。

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」

イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

 神を失った世界は、自分で自分の身を守る世界、相手を威嚇して、自分を強く見せることで成り立っている社会です。そういうところでは、学歴がものをいい、地位や、権力が絶対的な力かのように映る世界です。そういう世界を、わたしたちカインの末裔たちは、今日にいたるまで築きつづけてきました。そして、そういうシステムなのだと納得しながら、同時に人を恐れながら生きているのです。

 けれども、主イエスはそのように生きるのではなく、かえってまったく異なった生き方をお示しになりました。「誰かが、自分に対して罪を犯す。自分に対して不利益なことをするなら、どうしたらよいのか」と、主イエスにペテロは尋ねます。それに対しての主イエスの答えが、この言葉です。

 ペテロは「七回まで赦すべきでしょうか」と尋ねます。「仏の顔も三度まで」と言うくらいですから、「七回まで赦す」ということは、かなり寛容だと言ってもいいでしょう。けれども、主イエスは「七回を七十倍するまで」と答えられました。つまり、「完全に赦しなさい」と言われたのです。

 「赦す」ということは、簡単に言ってしまえば、「失う」または「損をする」ということです。自分が何かしらの被害を受けていることを、忘れるというのですから、簡単なことではありません。けれども、それをすることで、自分に危害を与えた相手そのものを失うのではなく、その人そのものを「得る」、「取り戻す」ことなのだと主イエスは言われたのでした。

けれども、この「やられたら、やり返す」ということを繰り返したら、どうなるでしょう。私たちは時々、子どものケンカを見ていますと、はじめにどちらかが、ちょっかいを出します。はじめは、肩に触れた、という程度なのに、それがやり返すうちに、どんどんと強くなっていって、最後には、激しい叩きあいになります。そういう場面を見ることは少なくないでしょう。大したことではないのに、だんだんとブレーキがきかなくなってしまい、最後には顔を真っ赤にしながら、あるいは、泣きながらの大喧嘩に発展してしまう。そのように、私たちも、際限のない争いになっていきます。これは、子どもも、大人であっても、形が違うだけで、まったく同じことをやってしまっているのです。

 しかし、はじめから腹を立てないで、互いに赦し合うことができれば、それほど傷つけあう必要も本当はなかったということが分かるでしょう。そして、それは、実は損をするどころか、さらに踏み込んだ人間関係へと発展させてくれることさえ起るのです。

 どうしたら、私たちは、そのような赦しに生きることができるようになるのでしょう。どうしたら、このカインの末裔の生き方から、抜け出すことができるのでしょう。

 今日の聖書は、もう一つの系図が記されています。アダムとエバから生まれた、もう一人の子、セツの系図です。25節と26節をお読みします。

 アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言った。セツにもまた男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。

 ここに、セツの子孫の「エノシュ」が生まれます。この「エノシュ」は「弱い者」という意味の名前です。「レメク」の「強い者」と正反対の名前です。このエノシュは、強さを示す生き方ではなく、弱い者であるところに留まりました。

 自分で自分を守る強さではなく、エノシュは自らが弱いゆえに、主の名を呼ぶことを始めました。以前の第二版では「主に祈ることを始めた」となっていました。ここに、もうひとつの生き方が示されます。つまり、強さを誇示する生き方ではなく、弱さのままでも、神に守られて平安に生きることができる幸いな生き方です。

 こうして、ここに二つの生き方が示されます。力を求めて生きるカインの末裔としての生き方と、弱さのままに主に祈るセツの子孫の生き方です。「あなたはどう生きるのか?」とここで問いかけているのです。カインの末裔である私たちは、この弱い者として生き方を示してくださる主イエスによって、新しく生きる道があることを知るようにされます。それが、「主と共に生きる」生き方です。それは、主に祈る生活と言い換えることもできるでしょう。主を見上げ、主に信頼する生き方です。もし、私たちがそのように生きることができるなら、この戦いの文化、力の支配する世界の真っ只中にあっても、平安をもって生きることができるのです。私たちはカインの末裔です。けれども、わたしたちは主イエスによってセツの子孫として生きる、神の子どもとして生きることができるように招かれているのです。強さを誇る者としてではなく、弱くとも、神に信頼しつつ、祈りながら歩むなら、この世にあって平安に生きることができるのです。

 お祈りをいたします。