岐阜キリシタン小史(48)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑧―

岐阜における信長とカブラル(『カブラル書簡』より)(4)

 最後に、『カブラル書簡』に記された信長との謁見場面を改めて総括し、三名(カブラル、フロイス、ロレンソ了斎)が伝えたキリスト教の教えの要点を整理して締めくくりたい。

3.キリスト教教義についての問答

質素な衣装と来世観に関する説明(仏僧との対比)

この教えが伝えられたのは、信長がカブラル一行の質素な衣装(絹を着用していない貧しい身なり)に注目し、なぜそのような衣装を着ているのかを尋ねたことに端を発する。
ロレンソの説明の核心:ロレンソは、この衣装がイエズス会がインドで用いる装束であり、日本でもこれ以上の絹布を着用しないという会の決まりを伝えた。その上で、彼は、仏僧とキリスト教修道士の来世に対する考え方の違いを信長に説明した。キリスト教が現世の世俗的な富ではなく、来世の報いに焦点を当てているという価値観を伝えるものであった。 ロレンソ:「仏教の僧侶たちは、来世について知らず、天国の至福についても期待していないため、今生において良い扱いを受けることに執心しています。それゆえ、彼らは格別の方法で衣装をまとい、食するのです。しかしながら、我が会の修道士たちは、真実を知り、今生の後には地獄と天国があることを知っておりますので、後に天に召されんがため、慎ましくかつ貧しく生きるように努めております。」
信長の反応:信長は、「(イエズス会の)宗旨に即した方法で着想するのは、彼には大変良いことに思われる」と答えた。そして、ロレンソの説明には大変満足し、大いに拍手をした。「これらの者たちこそ、自分が探し求める明敏で正直な人々であり、日本の邪悪な僧侶たちとは異なることよ」と称賛し、同行の大身たちにもその言葉を伝えた

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岐阜キリシタン小史(47)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑦―

岐阜における信長とカブラル(『カブラル書簡』より)(3)

前回からに続き、『カブラル書簡』に記された信長の言動について記したい。

織田信長の言動(2)

食事の際の命令と発言

⚫信長は召使いに、「パードレたちは予と食事を共にするので、食卓で用いられる食器一式はすべて新品でなければならぬ」と伝えさせた。
⚫カブラルが肉食の理由を説明させると、信長は大変気に入り、再び大いに拍手をし、「これらの者たちこそ、自分が探し求める明敏で正直な人々である」と述べた。
⚫信長は召使いを呼び、庭で飼っていた愛玩用の鳥を殺させ、「それらを十分に焼くことを承服するよう」命じた。
⚫ロレンソが説教している最中、信長はカブラルに向き直り、喜悦に満ちた顔で、「パードレたちよ、僧侶たちがそなたらに害をなし迫害するのは、そなたたちが真実を話すからである」と話し、「神も仏もないということは事実であり、信長らは世間を欺いているからである」と述べた。
⚫信長は1時間半ほど説教を聴いた。
⚫信長は足利義昭の重臣(注1三淵藤英)を招き入れ、「予がパードレたちを招いたので、彼らを先に入らせた。今、パードレたちへの相伴を探していたが、貴殿以外にふさわしい人物があろうか」と述べ、三淵に相伴を命じた。
⚫信長は召使いの少年たち3人を呼び、「日本の僧侶たちとは全く違うパードレ方に給仕するのであるから、衣裳部屋にある絹の衣服をすべて与えて新しく着替えさせよ」と命じた。
⚫食事の最中、ロレンソは、将軍義昭の重臣であった三淵に対し、京都(ミヤコ)において助力が必要な時、あるいは将軍への取りなしが必要な時、または誰かが宣教師団に危害を加えようとしているのが分かった時などに、味方となってほしい旨を伝えた。三淵が返答する前に、それを聞きつけた信長が即座に口を挟み、「確かにそうされるがよかろう。貴殿は、予がパードレたちにしてやることに準じて、頼まれたこと以外のこともしてやるべきである。決して反対のことはしないように願う」と断言した。この信長の有無を言わせぬ指示に対し、三淵は恥じ入りながら地上に目を向け、「御意のままに」と返答した。そして、三淵はすぐに注2過去の件に関して深く謝罪した。
(注1)三淵藤英(みつぶち ふじひで、生年不詳~1574年)は室町幕府末期の幕臣で、足利義輝・義昭に仕えた重臣。細川藤孝(幽斎)の兄にあたり、義昭の将軍就任を支えたが、義昭追放後もなお義昭方に忠誠を示したため、信長の命により切腹を余儀なくされた。
(注2) 過去の件…足利義昭は、織田信長に擁立された後も自立した将軍権力を確立しようと努めていた。そのため、義昭政権は京都(都)の支配において、基盤とする多くの寺社勢力との連携と協調を図る必要があり、このことを指しているのではないか(具体的なことは不明)。

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岐阜キリシタン小史(46)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑥―

岐阜における信長とカブラル(『カブラル書簡』より)(2)

 今回から数回にわたり、『カブラル書簡』に記された信長との面談の様子を見ていきたい。訳文の全文掲載はできないため、ここでは信長の発言や振る舞いなど、重要と思われる箇所を中心に抜き出し、紹介したい。なお、訳文は岡美穂子氏の「フランシスコ・カブラルの長崎発書簡(1572年9月23日付)に見る岐阜」(岐阜市歴史博物館研究紀要21』2013年)より引用させていただいた。そのことをお断りしておく。

1.岐阜への到着と謁見
 この書簡は、1571年にカブラルが九州から畿内へ旅した際の旅行記とも言える。
カブラル一行は、1571年10月21日豊後(大分)の臼杵うすき港を出発、途中土佐の清水湊、紀州の紀之湊、堺を経て京都に至る。その後、琵琶湖を渡った。その後、大変な雪の中を4日間徒歩で進み、信長の居城がある岐阜の市まちに到着した。信長の執事を通じて訪問を交渉すると、信長は大名や領主からの使節がいたにもかかわらず、その日の予定をすべてキャンセルし、カブラル等一行にが自分と食事を共にするよう命じた

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岐阜キリシタン小史(45)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑤―

岐阜における信長とカブラル(『カブラル書簡』より)(1)

 イエズス会宣教師フランシスコ・カブラルと岐阜における織田信長との関わりについて、しばらくの間調べてきたが、思うような成果が得られずにいた。ネット上には、カブラルが岐阜で信長と謁見したという事実そのものを否定する記述すら見られ、行き詰まりも感じていた。
 何か糸口が得られないかと訪れた岐阜県図書館で、司書の方の協力をいただき、思いがけず、ある史料を見つけた。それが『岐阜市歴史博物館研究紀要21』(2013年)に収載された、岡美穂子氏による「フランシスコ・カブラルの長崎発書簡(1572年9月23日付)に見る岐阜」の論考である。この中では、1572年9月23日付のカブラル書簡のうち、岐阜滞在に関する記述が取り上げられ、ポルトガル語から日本語への訳出がされている。カブラル自身の手稿はすでに行方不明となっており、現在はマドリッドのスペイン王立史学士院図書館に所蔵されている写本があるのみである。その点から見ても、極めて信頼性の高い一次史料といえるのではないかと感じた。

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岐阜キリシタン小史(43)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師③―

フロイスとロレンソの信長謁見、フロイスの『日本史』のこと

 私が所属する教会の母団体である教団には、遠いドイツの地よりイエス・キリストの福音を伝えるために来日された宣教師が何人かいる。その尊い献身に対し、私は心からの尊敬と感謝を捧げたい。
 かつて、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・フロイスもまた、同じ熱意をもって海を渡った。1532(享禄5/天文元)年にリスボンで生まれたフロイスは、1548(天文17)年、わずか16歳でイエズス会に入会し、すぐにアジア布教の拠点であるインドのゴアへと旅立った。ゴアで司祭となった後、1562(永禄5)年にゴアを出帆し、マラッカやマカオなどを経由し、1563(永禄6)年、ついに日本の長崎に到着した。16歳でリスボンを出てから実に15年。この長く困難な旅路の果てに日本を見つめた彼の福音への熱意と忍耐には、私は改めて畏敬の念を抱かざるを得ない。

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岐阜キリシタン小史(42)―岐阜を訪れた宣教師たち②―

順応者フロイスと厳格者カブラル

 16世紀の戦国時代に日本へ渡来したイエズス会宣教師たちは、キリスト教の布教という共通の使命を帯びながらも、その宣教戦略においては大きく異なる考え方を持っていた。巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノやルイス・フロイスに代表される「順応主義」と、フランシスコ・カブラルに体現される「非順応主義」は、異文化との接触における二つの対照的なアプローチを示しており、日本における初期キリスト教の展開に影響を与えた。この両者の思想と行動の対立は、単なる個人的な意見の相違に留まらず、イエズス会全体の東方宣教方針を巡る重要な議論を内包していた。

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岐阜キリシタン小史(41)岐阜を訪れた宣教師①

16世紀の世界の潮流、日本そして岐阜への宣教の道

 これまで『岐阜キリシタン小史』では、岐阜を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスについて、断片的に触れるにとどまってきたが、あらためて彼のことを深く掘り下げてみたいと長く考えてきた。また、フロイスとは異なる宣教方針をもちながらも、同じく岐阜の地を踏んだフランシスコ・カブラル、そしてオルガンティノやロレンソ了斎のことも岐阜との関わりで記してみたいと考えた。
 今回から数回にわたって彼らの生涯を辿りつつ、彼らが日本キリシタン史に残した功績、そして当時の論争について記していきたいと思う。

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岐阜キリシタン小史(40)―ロレンソ了斎と岐阜、そして信長、秀吉との関わり―

ロレンソと美濃、そして信長の心を捉えた宗論

ロレンソ了斎と天下人・織田信長との出会いは、日本のキリスト教史における決定的転換点となった出来事である。
信長が岐阜に入城する数年前、ロレンソの言葉は既に美濃の地に届いていた。永禄3(1560)年、美濃の武将・山田庄左衛門が京都でロレンソと宗論(一度目の宗論)を交わし、その論理的な回答と信仰の深さに心を奪われ、洗礼を受けて改宗した。庄左衛門は美濃のキリシタン伝道の先駆者となり、ロレンソが後に岐阜を訪れる道筋をつけた(このときの顛末は岐阜キリシタン小史(6)を参照のこと)

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岐阜キリシタン小史(39)―『南蛮屏風』に描かれたロレンソ了斎―

下の老人の絵をご覧いただきたい。
和服姿で、右手に杖、左手にロザリオを握った年老いた日本人修道士。この人物こそ、イルマンのロレンソ了斎であるとされている。白い眉毛で背中が曲がった老人の姿は、当時の記録に基づいた彼の特徴であったという。
この図像は、狩野内膳(1570~1616)が描いた『南蛮屏風』の右隻に描かれている。

内膳の落款を伴う『南蛮屏風』は5 件確認できるそうであるが、この屏風は神戸市立博物館蔵のものである。(余談であるが、この博物館は前身のひとつが神戸市立南蛮美術館であったため、南蛮美術の世界的なコレクションを多数所蔵していることでも知られている。)

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