飛騨高山に刻まれた信仰の最期
これまで岐阜のキリシタンについて書いてきたものの、飛騨地方については触れる機会がなかった。正確に言えば、書くための材料を見いだせなかったと言うべきだろう。図書館などで飛騨のキリシタンに関する資料を探したが、ほとんど見つからなかった。(実のところ、東濃地方についても状況は同じである。)
そうした中で、小西マンショを調べる過程で、思いがけず飛騨との接点を見つけることができた。前回触れたように、マンショが飛騨高山で殉教したのではないかという説がある。あくまで「そのような説もある」という程度で、伝承に近いものではある。しかし、わずかでもキリシタンと飛騨との関わりを示す手がかりを得られたことは、筆者にとって大きな喜びであった。その思いで本稿を書き始めた。
小西マンショの最期の地については、現在も飛騨高山にまつわる伝承が残されている。複数のサイトでは殉教地「音羽」を摂津国の音羽とする説が紹介されているが、高山を流れる宮川周辺にも、かつて「音羽淵」と呼ばれた場所が存在し、古くからこの地こそがマンショの最期の地であったと語り継がれてきた。確証となる史料は乏しいものの、飛騨高山殉教説は地域に根付いた伝承として位置づけられている。
本稿は飛騨高山殉教説を確証するには至らないものの、当時の歴史的状況を踏まえて組み立てた一つの仮説(歴史的想像)としてお読みいただければ幸いである。
当時の飛騨を治めた金森重頼(1580–1656)は、幕府の禁教政策に従い領内のキリシタンを厳しく取り締まった。1624年には高山の下川原(現在の下三之町から大新町にかけての宮川沿い)で大規模な処刑が行われ、その弾圧は苛烈を極めた。こうした飛騨の状況は、禁教期の日本における宗教統制の厳しさを象徴するものであり、キリシタンがこの地で命を落としたとする伝承が生まれた背景として理解できる。
関ヶ原合戦直後、徳川政権は石田三成や小西行長、安国寺恵瓊えけいを三条河原で公開処刑したように、旧西軍の中枢にいた人物を見せしめとして処断した。しかし、禁教政策が強化されるにつれ、キリシタン大名家の子弟や司祭といった宗教的象徴性を持つ人物については、処刑の公開性を避け、遠隔地で静かに処理する傾向が強まっていった。これは、処刑の場が「殉教地」として信徒の巡礼地となり、信仰をむしろ強化してしまうことを幕府が恐れたためである。実際、長崎・西坂や京都・鴨川河原など、殉教者の血が流れた場所は信徒にとって聖地となり、密かな集会や祈りの場として機能した。幕府はこうした「聖地化」を防ぐため、象徴性の高い人物ほど、記録を残さず、目立たない形で処理する方針を強めていった。
この文脈で重要なのが、高山右近の追放である。1614年の全国禁教令により、右近は加賀前田家の庇護下から引き離され、長崎へ移送されることとなったが、その際、幕府は右近が大坂城内のキリシタン勢力と合流することを極度に警戒した。右近の長崎移送は、まさに大坂の陣の直前に行われた。当時大坂城には、キリシタン武将として知られる明石全登(てるずみ)(掃部・宇喜多家の元重臣)をはじめ、小西行長の旧臣らの多くのキリシタン武将が籠城していた。彼らは豊臣政権下でキリスト教に帰依した武将・家臣団の中核であり、宗教的にも政治的にも強い結束を持っていた。右近が彼らと結びつけば、宗教的抵抗と反徳川勢力が一体化し、幕府にとって重大な脅威となり得た。幕府は右近を大坂から徹底的に隔離し、大坂城下を通過させることすら避け、最終的に国外追放(マニラ)とすることで、この潜在的な結集を未然に断ち切った。
右近が加賀藩から追放された後、その家臣の一部は藩内に留まることができず、越中・飛騨の山中へ逃れ、木地師(轆轤で椀や盆などの木工品を作る職人)などに姿を変えて信仰を守り続けた。小西家は隆佐の代から高山家と深い関係を持っており、マンショにとって右近ゆかりの潜伏コミュニティは重要な支えとなり得た。
1644年頃、マンショは飛騨高山で(注)「穴吊りの刑」により殉教したと伝えられる。現在、高山には彼の殉教を示す石碑は残されていないが、高山陣屋や高山市内の桂本寺、宗猷寺の木地師墓地などに当時の弾圧の痕跡が残る。むしろ「記録が残されていない」こと自体が、幕府の徹底した隠蔽と、地方で静かに信仰を貫いたキリシタンの現実を物語っている。
(注)「穴吊りの刑」…江戸時代の禁教政策の中で用いられた、キリシタンに対する最も苛烈な拷問・処刑方法の一つである。囚人の足を縛って逆さに吊り上げ、地中に掘られた深い穴の中へ頭部だけを差し入れる形で行われ、呼吸の困難、悪臭、暗闇、血流の逆転による激痛など、肉体的・精神的に極限の苦痛を与えるものであった。さらに、血が頭に上って早く死なないよう、耳やこめかみに小さな切れ目を入れることもあり、これは「長く苦しませ、棄教を迫る」ための工夫であったと記録されている。この刑は、単なる処刑ではなく、信仰放棄を強制するための拷問であった。しかし、実際には数日以内に死亡することが多く、結果として多くのキリシタンがこの方法で殉教した。宣教師の書簡には「日本で最も恐ろしい拷問」と記され、禁教期の日本における宗教弾圧の象徴的手段として知られている。穴吊りによって殉教したキリシタンとしては、ペトロ岐部、中原ジュリアン(天正遣欧使節)らがいる。

高山には仕事でも何度も行った。「アルプス展望公園スカイパーク」からは北アルプスの山並が一望できる。
宣教師の記録にマンショの名が記されていることは、彼の信仰が同時代人に深い印象を与えた証である。ペトロ岐部が列福された一方、マンショは殉教時期が対象期間をわずかに外れたため福者に列せられていない。しかし、小西家四代の信仰を背負い、右近の残党とともに信仰を守ろうとした彼は、「沈黙の殉教者」と呼ぶにふさわしい存在であった。彼の死によって日本国内から司祭は途絶えたが、その精神は後の潜伏キリシタンに受け継がれていく。
飛騨高山には長崎のような組織的潜伏共同体は存在しなかったが、それゆえにマンショが信仰を保ち続けた場合、早期に発覚し殉教へ至った可能性が高い。天領であった飛騨では宗教統制が厳しく、地方の個別処刑は記録に残らないことも多かった。マンショの最期が史料に明確に残らないのは、このような事情によるとも考えられる。
以上を踏まえると、小西マンショは飛騨高山という歴史の周縁で、名も墓も残さず信仰を告白して倒れた殉教者であった可能性が浮かび上がる。彼の殉教は、華々しい記録に残る殉教者ではなく、地方で静かに消えていった無数の信仰者の姿を象徴している。飛騨高山殉教説は確証史料を欠くものの、時代状況・人物像・地域特性を総合すれば十分な説得力を持つのではないだろうか。史料の沈黙を理由に否定するのではなく、沈黙そのものを歴史の一部として読み解く姿勢も禁教時代の実像に迫る道であると言えるだろう。
