岐阜キリシタン小史(38)―日本宣教を支えた修道士・ロレンソ了斎(1)―

16世紀、日本にキリスト教が伝来し、多くの宣教師たちが来日して宣教活動に励んだ。ザビエル、フロイス、ヴァリニャーノ―彼らの働きは広く知られているが、その陰で日本人イルマン(修道士)のすばらしい働きがあったことをご存じであろう。もし彼がいなかったなら、日本の宣教は大きく遅れていたに違いない。その名はイルマン・ロレンソ(ロレンソ了斎)。そのロレンソ了斎(以下ロレンソとのみ記す)について、今回から数回にわたり紹介したい。また、このロレンソと岐阜とはわずかではあるが関わりがあるので、そのことについても触れていきたい。

光なき目で、真理を掴む
時代は大永6年(1526年)頃。肥前国平戸島の片隅に、ロレンソは生まれた。幼くして光を失った彼は、盲目の宿命を背負い、杖と琵琶を友として諸国をさまよう琵琶法師(座頭)となった。この流浪の旅路で、彼は日本の古典と仏教、そして戦国の世に生きる人々の孤独と渇望を知り尽くした。
彼の人生は、光なき瞳にこそ、真の光が灯る劇的な転換を迎える。天文20(1551)年、周防国山口の街角。彼は異国の宣教師、聖フランシスコ・ザビエルが説く「唯一絶対の創造主デウス」の教えを耳にした。後に「山口宗論」と呼ばれるときのことである(ザビエルは、京都で後奈良天皇への謁見が叶わなかったため、目的を果たせないまま京を離れ、その後、失意のうちに立ち寄った山口で、方針を転換して布教活動を行っていた)。
琵琶法師時代に培った深い知識を背景に、ロレンソはザビエルと対話を重ね、その魂は「永遠の真理」に打ち震える。彼は日本人として初めてイエズス会に入会し、イルマン(修道士)となった。外見は粗末で貧しく、視力もほとんどなかったが、宣教師ルイス・フロイスは彼を「神から照らされていた盲人」と称賛した。彼の弁舌は、天性とも言える理路整然とした思考能力と、万民を惹きつける語り口によって、ヨーロッパの難解な神学さえ日本の言葉と比喩に置き換え、庶民から武将まで、あらゆる人々の心に深く響き渡った。

フランシスコ・ザビエル像(鹿児島市ザビエル公園)

畿内を掌握する、言葉の剣

ロレンソの献身は、宣教師団の活動に不可欠であった。彼は日本語に不自由な神父たちの通訳を務め、布教の最前線を牽引した。
永禄2(1559)年、彼はガスパル・ヴィレラ神父と共に京に入り、ザビエルさえ果たせなかった室町幕府の将軍・足利義輝に謁見を果たす。彼の真理に即した話に感銘を受けた将軍は、布教を許可し、教会への税金免除まで行ったという。
彼の言葉は、畿内を席巻した。特に奈良では、キリシタンに非友好的な松永久秀の招きに対し、危険を冒さずロレンソが代わって赴いた。彼は仏僧や学者との宗論で、理路整然と「世界の創造主」の教えを説き、ことごとく論破した。
この宗論の場に居合わせたのが、武将・高山友照(飛騨守)であった。ロレンソの雄弁さに心動かされた友照は、彼を居城に招き、教えを請うた。この結果、友照とその息子、後にキリシタン大名として知られる高山右近(ジュスト)が洗礼を受け、キリシタン勢力の拡大に決定的な影響を与える、強固な礎が築かれたのである。彼の布教なくして、キリシタン武将が日本史の表舞台に出ることはあり得なかった。

文:笠松キリスト教会 北島智宏