岐阜キリシタン小史(36)―大垣藩戸田氏鐵(うじかね)と島原の乱―

前回、大垣藩の初代藩主であった石川康通(やすみち)(1554-1607)について触れた。康通は晩年にキリスト教に入信し、亡くなる前年に洗礼を受けた。
康通の死後、石川家は2代家成、3代忠ただ総ふさと続くが、忠総の時に大坂の陣の功績により、豊後日田藩へ移封となった。その後、大垣藩では藩主が短期間に交代を繰り返す時代が続いた(石川家 → 久松松平家 → 岡部家 → 再び久松松平家)。
寛永12(1635)年、この流れは一変する。摂津国尼崎藩より、徳川譜代の戸田氏鐵(1576-1655)が10万石で入封した。氏鐵は尼崎藩主時代、築城技術を認められ、大坂城の改築工事の総奉行に任命されたことがあった。また、4代将軍徳川家綱誕生時の「へその緒を切る役目」を任されるなど、彼の徳川幕府内における信頼の厚さは、きわめて堅固なものであった。
寛永14(1637)年、九州で島原の乱が勃発する。乱の原因は、島原藩(藩主松倉勝家)、唐津藩(藩主寺沢堅かね高たか)による苛烈な重税と、幕府が推し進める非情なキリシタン弾圧であった。幕府は、乱の鎮圧のため板倉重昌(重昌の父勝重は京都所司代在任中に「京都大殉教」(元和5(1619)年)に関与)らを派遣し、九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。

幕府の権威を揺るがしかねないこの重大な内乱に対し、幕府は事態収拾のため、主将格として松平信綱を、副将格として戸田氏鐵を討伐軍の指揮官に新たに任命した。大垣藩主となってわずか2年にもかかわらず氏鐵が抜擢された理由は、大坂の陣での武功、徳川家への絶対的な忠誠心、そして儒学を修めた知略と行政手腕が幕府にとって不可欠だったからであろう。
しかし、ここに歴史の強烈な皮肉がある。大垣藩は、初代藩主がキリシタンであったという、禁教下において異質な歴史を持つ藩である。その大垣藩が幕府の威信をかけた「キリシタン大反乱」の鎮圧において、副将という中核を担う役割を命じられたのである。かつて信仰の灯がともった大垣の地の旗印が、その信仰の徹底的な根絶のために九州の戦場へと向かうことになったのだ。これは、歴史の悲劇的な巡り合わせであったと言えるのではないか。
氏鐵に近い大垣藩の人物が、島原への出陣について、『耶蘇征罰私記』という記録を残している。道中の経路なども興味深いので、少し長くなるが以下に現代語訳を添えて記す。


寬永十四年丁丑氏鐵公參勤御在府之處十一月廿八日御奉書ヲ以被爲召御登城今度肥前國島原一揆蜂起ニ付征罰ノ御將代トシテ松平伊豆守信綱ト兩人被仰付ノ旨御直ノ上意御蒙リ老中各御對顏(注1)土井大炊頭利勝內意之味コレアリ中三日ノ御用意ニテ十二月二日江戶御發駕同七日ノ朝大垣御歸城同十二日大垣御出陣同夜江州醒井御宿十三日武佐十四日今日於草津驛(注2)伊豆守殿ト御出會伊豆守殿ハ今月四日江戶出陣東海道御上リ同夜大津御宿十五日伏見御着陣是ヨリ舩ニテ十六日ノ朝大坂御着陣十七十八兩日大坂滯留御供ノ面々用事相調十九日ノ晚大坂出舩御舩ハ爲御馳走(注3)紀伊大納言賴宣卿ヨリ(注4)八十艇立ノ關舩引舩アリ御舩(注5)卯十三段吹貫ニ(注6)九曜紋御乘替舩ハ(注7)松平安藝守光晟みつあきらヨリ出之七十艇立關舩ナリ御供ハ卌艇立各舩卯擧提燈立之自大坂兵庫江十里兵庫ヨリ明石江五里ヨリ室津江十三里室ヨリ牛窓江十里牛窓ヨリ下津久井江十里下津久井ヨリ鞆へ十里鞆ヨリカタミノ江十里カタミノヨリ蒲刈江十里蒲刈ヨリ上之關江戶廿三里上之關ヨリ下之關江丗五里同廿八日豐前小掠御着舩廿九日小倉御出馬小屋ノ瀨御宿陣此閒六里同十五年戌寅正月元日山ノ井二日寺井二日寺井御出舩同晚島原四日朝有馬御着陣翌五日朝御見分ノ上小屋塲御取同九日小屋替右御舩之刻黃金千兩御時暇等拜賜之諫早へ廻り候ヘハ山ノ井ヨリトゞロキ江七里トドロキヨリ牛津江九里牛津ヨリ濱江九里濱ヨリ諫早江七里諫早ヨリ島原江十里
二月廿八日一揆落城跡御仕置等被仰付三月九日有馬御出舩伊豆守殿御同伴長崎平戶天草唐津邊筑紫有增御順撿豐前小倉江御歸着此閒御供人數ハ小倉ニ相待五月朔日大垣御歸陣四日江戶御下向御發駕十日江戶御着御登城直ノ上意正宗ノ御脇差御手カラ御拜領橫須賀正宗ト號ス御感狀御頂戴之其感狀ノ趣
一今度其方以分別令發起之一揆徒黨輙令落居之事神妙之覺悟御感不斜候猶可援忠勤者也
八月 日


戶田左門トノ
松平伊豆トノ
右ノ御感狀伊豆守殿ニ納ル由


『耶蘇征罰私記』
(岐阜県歴史博物館蔵)

(現代語訳)

寛永14(1637)年丁丑の年に、戸田氏鐵公が参勤交代のため江戸に在府されていたところ、11月28日に将軍からの書状をもって召し出され、登城した。今般、肥前国島原にて一揆が蜂起したため、その征伐の御将代(将軍の名代)として、松平伊豆守信綱と両名で任命された旨を上意(将軍からの直接の命令)として拝受し、老中方と対面した。老中筆頭の土井大おお炊い頭かみ利勝(当時筆頭老)のからは、内密の指示や配慮を頂戴した。中三日の準備期間を経て、12月2日に江戸を出発し、同7日の朝に大垣へ帰城した。同12日に大垣を出陣し、同夜は近江国醒井(米原市)に宿泊、13日は武佐(近江八幡市)、14日は本日、草津宿にて松平信綱殿と合流した。松平信綱殿は今月4日に江戸を出陣し、東海道を上り、同夜に大津に宿泊、15日に伏見に着陣した。 伏見からは船にて移動し、16日の朝に大坂へ着陣した。17日、18日の両日は大坂に滞在し、供の者たちが準備を整えた後、19日の晩に大坂を出船した。使用された船は、紀伊大納言(徳川)頼宣卿より提供された八十人漕ぎの関船(引船有)である。氏鐵公の乗船には、卯十三段の吹き流しに九曜紋が掲げられ、お乗替船は松平安芸守光晟より出された七十人漕ぎの関船であった。供の船は四十人漕ぎであり、各船には卯上げ提灯が立てられた。大坂より兵庫(神戸市兵庫区)へ十里、兵庫より明石へ五里、明石より室津(兵庫県たつの市)へ十三里、室津より牛窓(岡山県瀬戸内市牛窓町)へ十里、牛窓より下津井(岡山県倉敷市)へ十里、下津井より鞆(鞆の浦:広島県福山市)へ十里、鞆よりカタミノ(詳細不明)へ十里、カタミノより蒲刈(広島県呉市の島)へ十里、蒲刈より上関(山口県熊毛郡上関町)へ二十三里、上関より下関へ三十五里の道のりを進んだ。同二十八日に豊前国小倉へ着船し、二十九日に小倉を出発し、小屋ノ瀬(木屋瀬こやのせのことか?小屋瀬は福岡県北九州市八幡西区)に宿泊した。この間の距離は六里であった。 寛永15(1638)年戊つちの寅とらの正月元日は山ノ井(福岡県筑後市)に、二日は寺井(詳細不明)に滞在した。二日に寺井を出船し、同晩に島原へ、四日の朝に有馬へ着陣した。翌五日の朝に検分の上、野営地を確保し、同九日に野営地を移動した。船での移動中に黄金千両を褒美として拝領した。もし諫早(長崎県諫早市)へ廻った場合は、山ノ井より轟(諫早市高来町轟)へ七里、轟より牛津(佐賀県小城市牛津町)へ九里、牛津より浜(西海市大瀬戸町)へ九里、浜より諫早へ七里、諫早より島原へ十里の道のりである。 二月二十八日に一揆が落城し、その後の戦後処理などが命じられ、三月九日に有馬を出船した。松平信綱殿と同行し、長崎、平戸、天草、唐津辺りの九州全域を巡見した。豊前国小倉へ帰着したが、この間の供の者は小倉にて待機していた。 5月1日に大垣へ帰陣し、4日に江戸へ向けて出発し、10日に江戸へ到着した。登城した際、将軍からの上意により、正宗の脇差を将軍の手から拝領した。これは横須賀正宗と称されている。また、感状(感謝状)を頂戴した。その感謝状の趣旨は以下の通りである。 一、今般、貴殿分別をもって一揆の輩を容易に鎮められたること、まことに見事の覚悟にして、その功績、この上なく 感銘いたすところなり。今後とも忠義の勤めを怠らず、いよいよ励むべし。 8月?日 戸田左門殿へ 松平伊豆殿へ この感謝状は松平伊豆守殿に納められた、ということである。


(注1)幼少期から徳川秀忠の傅役(教育係)を務め、後には家光の補佐役となる。初代大老。
(注2)松平信綱のこと。「知恵伊豆」の異名があった。
(注3)徳川家康の十男、初代紀州藩主。
(注4)関船は戦国時代から江戸時代にかけて使用された軍船。艇は櫓のこと。櫓の数が八十あるとはかなり大型のものであったと思われる。
(注5)吹き流しは長く細長い布を旗竿の先に垂らした飾り。風を受けて棚引くことで目立つ。卯とは「卯の花色」、つまり白色を指す。十三段とは十三色の段染め、または十三の横縞を意味していると考えられる。全体として白を基調とした十三段の彩色を施した、長大な吹き流しであったことが想像できる。
(注6)九つの星を図案化した家紋。太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、および二つの架空の星(羅睺・計都)の九つの天体(九曜)を円形に配置した模様。九曜紋は戸田家の家紋であった。
(注7)広島藩第2代藩主浅野光晟のこと。彼は徳川家康の孫にあたり、松平姓が許されていた。


島原の乱 幕府軍の陣立図(黄色が戸田氏鐵)
(『耶蘇征罰私記』より)

幕府軍は松平信綱を総大将とし、九州を中心とした諸藩から兵力が動員され、その総勢は12万〜13万人に上った。主な諸藩の出兵人数は以下の通りである。
・佐賀藩(鍋島勝茂):35,000人。討伐軍として最大の兵力を動員し、開戦当初から戦闘に参加したが、甚大な損害を被った。
・熊本藩(細川忠利):23,500人。2番目に多い動員数。
・福岡藩(黒田忠之):18,000人。
その他にも、唐津藩(寺沢堅高、7,570人)、久留米藩(有馬豊氏、8,300人)、小倉藩(小笠原忠真、6,000人)など、多くの藩が軍を派遣した。副将として参戦した大垣藩(戸田氏鐵)も2,500人を動員した。
一揆勢の総大将は天草四郎(益田四郎時貞)である。四郎の父は益田甚兵衛(好次)といい、もとはキリシタン大名であった小西行長の遺臣であった。母は洗礼名がマルタとされる人物で、両親ともに熱心なキリシタンであった。当時まだ16歳の少年であった四郎は、奇跡を起こすというカリスマ的な指導者として領民やキリシタンたちに擁立され、一揆勢の精神的な盟主として活躍した。四郎の存在こそが、一揆勢の信仰に基づく団結と士気の源となっていたのである。
一揆勢は島原城などを攻めたが落とすことができず、最終的に当時廃城であった原城に約3万7千人が集結し、籠城した。一揆勢の頑強な抵抗に遭う中、幕府軍の総大将である板倉重昌は、功を焦って総攻撃を仕掛けた結果、流れ弾に当たって討ち死にした。そのため幕府軍は新たに松平信綱を総大将とし、大軍をもって原城を完全に包囲した。
信綱は力攻めを避け兵糧攻めに戦術を転換し、さらにオランダ商館長クーケバッケルを介してオランダ船の協力を得て艦砲射撃を行った。長期間の兵糧攻めにより、食糧や弾薬が尽き飢餓と疲弊に苦しむ一揆勢に対し、幕府軍は1638年4月12日に総攻撃を敢行した。原城は陥落し、籠城していた全員が討ち取られるか処刑され、約4か月にわたる乱は終結した。乱後、島原藩主の松倉勝家は改易の上、斬首、唐津藩主の寺沢堅高は天草領を没収され(のちに自害)、両名は乱の責任を厳しく問われた。この乱は幕府によるキリシタン弾圧に拍車をかけることとなり、鎖国政策が強化される決定的な要因となった。
戸田氏鐵は、島原の乱後、藩主として大垣に戻ると、新田開発や治水治山事業を積極的に行い、藩の財政と民衆の生活基盤を安定させた。これにより藩政の基礎を固め、以後、明治維新まで戸田家が大垣藩主として存続する礎を築いた。また、学問・文化の振興: 儒学に精通し、林羅山(林家学派の始祖)らに師事、自らも修養を説いた『八道集』などの著作を残し、藩士の教育と学問を奨励した。

戸田氏鐵の騎馬像と大垣城

文:笠松キリスト教会 北島智宏