1581(天正9)年、織田信忠の次男として誕生した織田秀則は、兄の秀信より2歳年少であった。兄同様に、1582(天正10)年の本能寺の変により祖父・信長と父・信忠を同時に失ったとき、彼はわずか1歳であった。その後の清洲会議において3歳で織田家の家督を継いだ兄・秀信とは異なり、次男である秀則は、家督を背負う兄を支え、一族の血脈を守る補佐役としての道を歩むこととなった。
秀則の資質を物語る記録が、宣教師ルイス・フロイスの日記に残されている。フロイスは秀則を「素性を知らずに話せば、その品格からドイツの貴族と判断してしまう」と記した。この評は、彼が武将としての勇猛さだけでなく、当時の支配層に求められた洗練された教養と立ち居振る舞いを、若くして身につけていたことを示しているのではないだろうか。秀信が織田家の家督継承者として周囲から強い制約を受けていたのに対し、秀則は一族の実務を担いつつも、制約を受けることは兄ほどではなかった。

(作庭は後の小堀遠州の弟子による)
1595(文禄4)年、秀則は兄の秀信とともに、宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノから受洗した。霊名は「パウロ」である。兄弟がキリスト教を信仰していたことは、その後の動乱期における行動の指針となったのではないか。実際、兄が岐阜城主として豊臣政権下で重要な役割を担う中、秀則は秀信の名代として政務の最前線に立った。
1598(慶長3)年には、弱冠十七歳前後でありながら京都の妙心寺に塔頭・見性院(現在の桂春院)を創建している。この時期、秀則は大坂城下で暮らし、豊臣秀吉の側近に近い立場にもあった。兄が岐阜にあって領国経営に注力する一方で、秀則は政治の中心地である大坂や京都において、諸大名や宗教界との太い人脈を築いていたのである。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いにおいて、織田兄弟の歩みは重大な分岐点を迎える。兄弟は石田三成ら西軍に与し、居城である岐阜城を死守する決断を下した。籠城戦において秀則は一族の武将たちを率い、東軍の猛攻に対して一歩も引かぬ奮戦を見せた。戦記物『江源武鑑』にはその戦いぶりが記録されており、祖父・信長譲りの軍才が彼の中に確かに息づいていたことがうかがえる。しかし、岐阜城は激戦の末に陥落し、兄・秀信は降伏、改易を言い渡された。
関ケ原の戦いの後、家督を継いでいた秀信が家臣団とともに高野山へ追放されたのに対し、秀則は大坂の豊臣家を頼る道を選択した。これは秀信が高野山の厳しい環境を案じ、また将来の織田家再興の望みを託すために、あえて秀則を豊臣家に差し向けた配慮であったのかもしれない。織田家の看板を背負い、孤独な追放生活を余儀なくされた兄に対し、秀則は淀殿や織田有楽斎といった親族が集まる大坂の陣営に身を投じた。実際、関ヶ原の戦い後の豊臣家には、秀則の他に、信長の次男織田信雄、信長の弟織田有楽斎、織田信包ら多くの織田家関係者がいた。淀殿の側近として豊臣秀頼を支える役割を担い、1605(慶長10)年に兄が病死した後は、信忠系の織田家の事実上の当主として一族を束ねる立場となったのである。
その後、1615(元和元)年の大坂夏の陣において豊臣家が滅亡に追い込まれると、秀則は城を脱出し、京都へと逃れた。かつて自身が創建した見性院のある妙心寺の近くに身を寄せ、剃髪して「宗爾」と名乗り、世捨て人としての生活を送った。1625(寛永2)年、秀則は京都で45歳の生涯を閉じた。
織田信忠の正嫡として天下を見据えた兄・秀信が20代で無念の死を遂げたのに対し、秀則は二度の滅亡という絶望的な状況を生き抜き、信長の孫としての矜持を保ち続けたのであった。
