岐阜キリシタン小史(58)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(3)―

1600(慶長5)年、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、秀信は石田三成らの誘いを受け西軍に加わった。これに対し、徳川家康率いる東軍は岐阜城攻略を目指し、木曽川を渡り美濃へと侵攻した。この前哨戦となったのが、現在の岐阜県笠松町で行われた「米野の戦い」である。秀信は自ら軍を率いて米野
の堤防に陣を張り、木曽川を渡河しようとする福島正則や池田輝政らの軍勢を迎え撃った。激しい戦いが繰り広げられたが、数に勝る東軍の猛攻の前に秀信軍は敗走し、岐阜城へと退却を余儀なくされた。この敗北は岐阜城陥落の決定打となり、秀信は改易(領地没収)の憂き目に遭うこととなった。

①米野の戦い地図
②米野の戦いの碑
③笠松町歴史未来館未来館にある「合戦の陶板」

1601(慶長6)年に高野山へ送られた秀信を待っていたのは、仏教の聖地におけるキリシタンへの冷遇であった。彼は山内での居住を制限され、厳しい監視下での隠遁生活を余儀なくされる。そして、1605(慶長10)年、26歳の若さでこの世を去った。

織田秀信の墓所(高野山)
終焉の地の碑(和歌山県橋本市向副)

 織田家の家督を継いだ信忠と、その嫡子である秀信。この親子は、いずれも26歳という若さでその生涯を閉じている。戦国という激動の時代を駆け抜けた父と、信仰を抱きながら静かに散った息子。奇しくも同じ年齢でこの世を去った二人の歩みには、織田家嫡流が背負った過酷な宿命を感じる。
 もし、秀信が関ヶ原の戦いを生き延び、あるいは東軍に属して岐阜領主の地位を保ったまま長命していたならば、日本のキリシタン史は大きく変わっていたのではないだろうか。織田信長の正統な後継者という血統的権威に加え、オルガンティノら宣教師との深い信頼関係、そして日本の中心部に広大な信仰拠点を維持していたならば、徳川幕府もこれほど急進的な弾圧を強行することは難しかったかもしれない。秀信の存在は、西の長崎、中央の岐阜、東の江戸を繋ぐキリスト教ネットワークの要となったはずである。彼の若すぎる死と岐阜城の廃城は、濃尾地方における公然たるキリスト教時代の幕を強制的に引き、後の「濃尾崩れ」へと続く悲劇的な伏線となっていく。