岐阜キリシタン小史(57)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(2)―

 岐阜中納言となった秀信は、祖父・信長が築いた岐阜の町をさらに発展させるべく、内政にも力を注いだ。彼は楽市楽座の精神を引き継ぎ、商人の活動を保護するとともに、城下の道筋を整えるなどの整備を行った。特に金華山の麓から長良川に至る区域の整備や、寺社への寄進、検地の実施などを通じて、領国経営の基盤を固めていった。城下には宣教師を招き入れるための居住区も設けられ、軍事拠点としての岐阜城は、信仰と文化が交差する都市へと変貌していった。
 しかし、当時の豊臣政権下における秀信の立場は、極めて微妙なものであった。秀吉という巨大な勢力の陰に隠れ、織田家という過去の遺産を背負わされた彼は、常に周囲の期待と警戒の目にさらされていたであろう。そのような状況下で、彼が心の拠り所を求めたのは、力による支配が全てであった戦国大名の価値観ではなく、キリスト教の教えであった。

信長時代の岐阜城図


 秀信がキリスト教という教えを受け入れた背景には、織田家が代々持ち合わせていた新しい価値観に対する寛容な気風があった。祖父である信長は、1569(永禄12)年に宣教師ルイス・フロイスに対し、京都での居住と布教を許可している。信長自身は信者ではなかったが、キリスト教を新しい知識や文化の源として評価し、保護を与えた。その息子であり、秀信の父である信忠もまた、父の意向を汲み、宣教師を排除することなく接していた。このようなキリスト教を否定しない家風の中で育った秀信にとって、岐阜の地で宣教師と接し、その教義を学ぶことは自然な流れであったといえる。幼少期より織田家の跡継ぎとして、新しい教えや思想を学ぶことが当然の環境にいたことが、後の決断を形作った最大の要因であろう。
 1595(文禄4)年、16歳の秀信は、弟の秀則とともに洗礼を受けた。1587(天正15)年豊臣秀吉による「伴天連追放令」が出され、キリスト教への風当たりが強まっていた時期の決断であった。このとき授洗司を務めたのは、信長の時代から日本布教に尽力していたイエズス会宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノである。織田家の嫡流である秀信が「ペトロ」の霊名で洗礼を受けた事実は、宣教師たちに大きな驚きと歓喜をもたらした。(秀則はこのとき14歳、霊名はパウロ。)
 秀信は城主としてキリシタンを保護し、美濃の地に公然たる信仰を定着させた。岐阜城下に教会を建設してオルガンティノらの宣教師を招き入れ、地域の人々に教義を学ぶ場を提供した。領主自らが熱心な信徒であったため、家臣や領民の間にも急速に信仰が広まり、この時期の岐阜は、長崎や京都と並ぶ日本におけるキリシタンの重要拠点となっていた。秀吉による弾圧の目が光る中、秀信という「信長の正統なる後継者」が盾となることで、濃尾の信徒たちは公に祈りを捧げることができた。これは、この地の信徒にとって最後にして最大の希望の灯であった。(次回に続く)