岐阜キリシタン小史(56)―悲劇のキリシタン大名・織田秀信(1)―

 織田秀信という名は、歴史の教科書では「三法師」という幼名で、あるいは関ヶ原の戦いにおける敗軍の将として、わずかに触れられるに過ぎない。しかし、その生涯を辿れば、戦国時代の終焉という激動のなかで、信長の正統なる後継者という重責と、キリスト教という新たな価値観の間で葛藤し続けた姿が見えてくる。

織田秀信(1580~1605)


 1580(天正8)年、織田秀信は信長の嫡男・織田信忠の長男として生まれた。母については諸説あり、確定していない。いずれにせよ彼は織田家の嫡流を継ぐべき運命の下に生を受けた。しかし、幸福な幼少期は長くは続かなかった。1582(天正10)年、わずか3歳の時に起きた「本能寺の変」が、彼の運命を根底から覆すことになる。祖父・信長と父・信忠を一度に失った幼児は、突如として織田家存続の象徴として、戦国の荒波に放り出されたのである。
 本能寺の変からわずか数週間後、織田家の重臣たちが集まった「清洲会議」の場において、三法師は後継者問題の渦中に置かれた。この会議において、筆頭家老の柴田勝家らは、三法師の叔父にあたる信長の三男・織田信孝を後継者に推挙していた。信孝は既に成人しており、優れた武勇と才覚を兼ね備えた人物として期待されていたのである。しかし、これに反対したのが羽柴秀吉であった。秀吉は信忠の直系である三法師こそが正統な後継者であると主張し、会議を主導した。秀吉が、幼い三法師を抱きかかえて諸将にお目見えさせたという逸話は、秀吉が織田家の権威を利用して天下人への階段を駆け上がるための演出であった。
 清洲会議の結果、三法師が織田家の家督を継承し、近江国・安土に入ることが決められた。しかし、本能寺の変の直後に安土城の天守や本丸は焼失しており、主を失った城下は混乱の中にあった。また、幼少の彼には実権がなく、後見役となった叔父の信孝が三法師を自らの領地である岐阜城へと連れ帰った。これが、秀吉と信孝の激しい対立の火種となる。秀吉は「信孝が三法師を岐阜に留め置き、安土へ引き渡そうとしない」ことを大義名分として、1583(天正11)年に信孝を攻撃した。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れ、信孝が自害に追い込まれると、三法師は秀吉の手によって焼失した安土の仮住まいへ、次いで京の妙心寺へと移された。
 その後、三法師は秀吉の監視下で成長した。ようやく1592(文禄元)年、13歳で元服し、秀吉から「秀」の一字を賜って秀信と名乗った。そして、父・信忠の旧領であり、かつて祖父・信長が天下取りの拠点とした美濃国・岐阜13万石を与えられる。この際、秀信は官位として「権中納言」に任じられた。岐阜城主であり、中納言という高い位にあったことから、当時の人々は彼を「岐阜中納言」と呼んで敬った。これは、豊臣政権下において彼が織田家の嫡流として特別な地位を保証されていたことを物語っている。(次回に続く)