岐阜キリシタン小史(55)―織田信忠と岐阜のキリスト教―

 これまで織田信長とキリスト教、そしてイエズス会宣教師との関わりについて詳しく述べてきた。今回は、信長の嫡男であり後継者である織田信忠と、キリスト教との関わりについて記していきたい。
 織田信忠は、1557(弘治3)年、織田信長の長男(嫡男)として尾張国に生まれた。幼名は奇妙丸である。1572(元亀3)年、近江国での対浅井氏戦で初陣を飾り、その後は伊勢長島平定や長篠の戦いなど、信長が進める主要な戦役に従軍して軍功を重ねた。1575(天正3)年、19歳の時に信長から織田家の家督を譲られ、同時に美濃・尾張の両国を相続して岐阜城主となった。翌1576(天正4)年には従三位左近衛中将に叙任され、名実ともに織田政権の後継者としての地位を確立した。
 信長が安土城へ移った後、信忠は岐阜を拠点として東国方面の軍事・内政を一手に担い、1582(天正10)年の甲州征伐では総大将として武田氏を滅亡させるなど、優れた指揮能力を発揮した。信忠の統治は理知的かつ着実であり、父・信長の革新性を引き継ぎつつも、家臣団や領民に対しては節度ある態度で臨んだ。岐阜におけるキリスト教や宣教師への対応も、こうした彼の冷静な統治姿勢の一環として捉えることができるだろう。
 織田信忠とキリスト教、そして岐阜の地を巡る関わりは、父・信長の影に隠れがちである。しかし当時の宣教師の記録やイエズス会年報を紐解くと、そこには若き城主としての節度ある振る舞いと、異文化に対する比較的冷静な態度が浮かび上がってくる。

織田信忠 像


 信忠が岐阜において西洋の宣教師と初めて接触したのは、1569(永禄12)年のことである。この年、織田信長は岐阜城下においてルイス・フロイスらイエズス会の宣教師と対面しており、信忠も父に伴われてその場に居合わせていた可能性が高い。信忠は当時まだ年少(12歳)であったが、宣教師側の記録には、織田家の子弟が礼節をわきまえ、落ち着いた態度で応対していたことが記されており、信忠もまたその一人であったと考えられる。信長はキリスト教の教義や西洋文化を、純粋な信仰対象としてではなく、天下統一に必要な知識や文化の一要素として捉えていた。信忠もまた宣教師やその教えを排斥することなく、領主として慎重に受け止めていたとみられる。ただし、信忠自身がキリスト教の教理をどのように理解していたかについては、直接それを示す史料は残されていない。
 信長が安土へ本拠を移した後、岐阜の実質的な城主となった信忠は、父と同様にキリシタンに対して比較的寛容な態度を取り、領国内での布教活動を妨げなかった。1579(天正7)年のイエズス会『日本年報』には、美濃・尾張におよそ200人の信徒が存在し、信忠から修道院および教会建設のための用地が与えられたことが記されている。これは、岐阜城下におけるキリシタン共同体が、一定の公認を得て活動していたことを示す重要な史料である。
 これにより、それまで個人宅や半ば非公開の場所で行われていた礼拝は、次第に城下町の中で可視的な形を取るようになった。教会の具体的な所在地については断定できないものの、宣教師の記述や後世の調査から、岐阜城麓の市街地、現在の岐阜市金屋町周辺(岐阜市の水道山展望台の西直下、鶯谷中学高等学校の西南600m)に比定する説が有力である。当時の礼拝は西洋の典礼に基づきつつも、畳敷きの空間に祭壇を設けるなど、日本的な住環境と折衷された形で行われていたと考えられている。
 また、フロイスの『日本史』には、岐阜城下において大きな十字架が公然と掲げられ、人々に強い印象を与えたことが記されている。十字架は日本では処刑具として忌避される象徴であったため、その存在は城下の人々に少なからぬ驚きをもって受け止められた。この出来事は、キリスト教信仰が単なる私的な信仰にとどまらず、織田家の支配下において一定の容認を受けていたことを示す事例といえよう。ただし、その規模や設置場所、恒常的な構造物であったかについては、はっきりとわかっていない。
 1581(天正9)年には、安土に教会堂や洋楽堂が建設され、織田家関係者や家臣の子弟に対して、ラテン語、西洋音楽、天文学などを含む教育が行われるようになった。これに関連して、信忠が安土に先を越されたことを残念がったとする逸話が宣教師の記録(イエズス会年報や、宣教師オルガンティノの書簡)にある。信忠は西洋文化、特に音楽に対しても強い関心を抱いていた。安土のセミナリヨにはオルガンなどの楽器が持ち込まれており、その音色に触れた信忠は、西洋音楽の芸術性を高く評価したと伝えられている。彼が安土の施設を羨んだ背景には、単なる建物への興味に留まらず、こうした最新の学問や芸術を、自身の拠点である岐阜にも積極的に取り入れたいという領主としての向学心があったと考えられる。
 こうした政策のもとで、岐阜城下には一定規模のキリシタン信徒の集団が形成された。これは後に織田秀信(三法師)の時代に展開する岐阜のキリシタン文化の基盤となり、武士層のみならず町人層にも教えが浸透する土壌を生み出したと考えられる。
 岐阜における信忠の治世は、1582(天正10)年の本能寺の変によって突如として断ち切られた。この時、信忠は京都の妙覚寺に滞在していたが、父・信長の自害を知ると、防御に適した二条新御所へと移り、明智光秀の軍勢を迎え撃った。わずかな手勢ながらも数度にわたって敵軍を押し戻すなど、総大将として最期まで果敢に戦った。逃亡を勧める家臣に対し、「これほどの重責にある者が、今さら逃げ隠れて再起を期すなど、天下の笑いものになる」と語ったという逸話は、彼の責任感の強さと誇り高い気性を物語っている。万策尽きたことを悟ると、信忠は建物に火を放ち、父の後を追うように自害した。26歳という若さであった。