岐阜キリシタン小史(54)―岐阜を訪れたイエズス会宣教師⑭―

織田信長に最も信頼された宣教師・オルガンティノ(3)

 オルガンティノの生涯は、織田家三代との深い関わりの中にあった。父・信長の後を継いだ信忠とも親交を結んでいたが、信忠の嫡男である秀信(三法師)に対しては、その人生の節目において大きな役割を果たした。1595(文禄5)年、秀信はオルガンティノの熱心な導きによって洗礼を受け、受洗名を「ペトロ」とした。これには弟の秀則も同行し、兄弟そろっての受洗であったとされる。この出来事は、かつてキリスト教を庇護した信長の嫡孫がキリシタンとなった点において、オルガンティノ個人にとっても、また日本におけるイエズス会にとっても、大きな象徴的意味があった。秀信は岐阜城下での布教を公認し、教会の建設を許可するなど、オルガンティノを精神的師として厚く遇した。(秀信のことは、機会を改めて書いてみたいと思っている。)


 しかし、時代の流れは非情であった。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いにおいて西軍に属した秀信は敗北し、岐阜城を追われて高野山へと追放された。この没落の過程において、オルガンティノは愛弟子とも言うべき秀信の身を深く案じた。禁教の兆しが次第に濃くなる厳しい情勢の中にありながらも、彼は高野山にある秀信のもとへ密かに人を遣わし、励ましの書簡や生活のための援助を届けさせたという。武家としての地位も居城も失った秀信にとって、彼の変わらぬ慈しみは、孤独な晩年を支える数少ない支えであったであろう。1605(慶長10)年前後、秀信は若くしてこの世を去る。

 秀信の死後、オルガンティノ自身も老いと病に悩まされながら、布教の拠点であった長崎へと移った。
晩年、病に伏したオルガンティノは、長崎のコレジオにおいて静かに最期の日々を過ごした。1609(慶長14)年1月2日、織田信長との出会いからおよそ三十九年後、波瀾に満ちた生涯をこの地で閉じた。享年76歳。彼の遺体は、長崎の「被昇天の聖母教会」に葬られたと伝えられている。


 長崎が開港された翌年の1571年、イエズス会宣教師のフィゲイレド(ポルトガル)は、町ができた岬の突端に「岬の教会(サン・パウロ教会)」を建てた。さらに、新教会堂を増築中に秀吉の命で解体されたが、その後も増改築や建て替えを繰り返し、1601年、長崎で一番大きな「被昇天の聖母教会堂(被昇天のサンタ・マリア教会)」、同じころに司教館、コレジヨなどの建物が建てられ、教会堂は日本司教が着座する司教座聖堂となった。また、これ以前の1593年には、日本イエズス会本部が置かれている。
16世紀後期から17世紀初頭にかけて、長崎には多くの教会堂が建てられ、南蛮貿易の中心地として、その繁栄ぶりはさながら「小ローマ」のようだと伝えられたが、1614年、徳川幕府の禁教令により、岬に建つ教会を含むほとんどの教会堂が破壊され、キリシタンの町並みは姿を消した。
後に、1633年に長崎奉行所西役所、1855年に海軍伝習所、1857年に医学伝習所が設けられ、1874年に長崎県庁(2018年移転)と、この地には代々重要な施設が置かれた。 旧長崎県庁舎跡地には、「イエズス会本部跡」「奉行所西役所」「海軍伝習所」の碑が建てられ、入口付近には3つの施設を紹介した案内板がある。

被昇天の聖母教会堂(被昇天のサンタ・マリア教会)跡
長崎:岬の教会(サン・パウロ教会)跡