織田信長に最も信頼された宣教師・オルガンティノ(2)
1582(天正10)年6月21日(旧暦6月2日)、オルガンティノは日本史上の大事件である「本能寺の変」を、至近距離で目撃することとなった。当日払暁、京都の南蛮寺にいた彼は、激しい銃声と本能寺方面から立ち上る激しい炎に驚き、寺の屋根からその様子を凝視した。当初は信長による軍事訓練かとも考えたが、やがて明智光秀の謀反であることを知る。彼は報告書(オルガンティノが1582年に書いた『1582年度日本年報』または、同年のイエズス会総長宛の報告書)に記されている。この中で、信長が敵の手にかかって辱めを受けることを拒み、自ら火を放って最期を遂げた様子を記している。また、二条新御所にいた嫡男信忠についても、父の危急を知りながらももはや救援不可能と悟り、奮戦の末に自害した経過を詳述した。この未曾有の事態に際し、オルガンティノは死を覚悟して祈りを捧げつつ、変後の混乱に包まれた京都の情勢を克明に記録したのである。(この記録はのちにフロイスの『日本史』に取り込まれた。)
彼の業績の中でも象徴的なものが、1580年(天正8)に安土城下に設立されたセミナリヨ(神学校)である。織田信長から与えられた要地に建てられたこの学舎では、神学にとどまらず、西洋音楽、絵画、語学、算術などが教授されていた。そこは、東西の知が交差する、当時の日本においてもきわめて稀有な文化的空間であった。
信長がこの施設に強い関心を寄せ、生徒たちが奏でる楽器の音色やラテン語の朗読に耳を傾けたことは、同時代の記録にも伝えられている。オルガンティノが深く関与した安土のセミナリヨは、日本人信徒の養成を目的とする教育機関として設けられ、ラテン語、キリスト教教理、典礼音楽などが中心的に教授された。とりわけ音楽教育は重視され、オルガン演奏や聖歌の指導が行われていたことが史料によって確認できる。
また、この教育は日本人学生の文化的背景を一定程度考慮して行われていた可能性も指摘されており、日本語表現や書の素養が尊重されていたとみられる。ただし、日本の古典文学や芸能が体系的に教授されていたかどうかについては、現存史料からは明確に確認できず、慎重な判断が求められる。
オルガンティノが日本人から「宇留岸(ウルガン)伴天連」と呼ばれ、畿内を中心に広く知られる存在であった。それは、彼の布教姿勢と人柄が深く関わっていたと考えられる。彼は、キリスト教の教えを一方的に説くことを避け、日本の社会や慣習を理解しようと努めた宣教師であった。イエズス会の書簡やフロイス『日本史』によれば、彼は日本語の習得に力を注ぎ、通訳に全面的に依存することなく、自らの言葉で人々に語りかけることを目指していた。また、生活面においても日本の風俗に適応し、日本式の衣服を身につけ、米を主食として暮らしていたことが知られている。こうした姿勢は、排他的になりやすかった当時の社会において、日本人との信頼関係を築く一因となった。
また、キリシタン大名との関係においても、オルガンティノは重要な役割を果たした。なかでも高山右近との結びつきは深く、右近は彼を精神的導師として敬い、信仰生活のみならず生き方そのものにおいて助言を受けていたとされる。本能寺の変後の政情不安や、豊臣秀吉による伴天連追放令という困難な状況の中でも、右近が信仰を捨てなかった背景には、オルガンティノをはじめとする宣教師たちから受けた霊的影響があったと考えられる。
豊臣秀吉との関係についても、初期には比較的良好であったことが知られている。秀吉はオルガンティノの知性や物腰の柔らかさを評価し、大坂で対話を重ねたとされるが、後に政治的判断から伴天連追放令を発し、宣教師たちは厳しい立場に置かれることとなった。
さらに、細川ガラシャの最期に際して、オルガンティノが深い悲しみをもってこれに接したことは、後世の伝承や回想録の中で語られている。彼女の死後の扱いについては史料が限られており、具体的な行動を断定することはできないものの、彼が権力や世俗的評価よりも、個々人の尊厳と魂の救いを重んじる姿勢を貫いた宣教師であったことは、同時代人の証言からも窺える。
オルガンティノの生涯を通じて際立つのは、日本社会に深く関わりながら布教を行おうとしたその姿勢である。彼は日本文化に迎合したのではなく、またそれを否定することもなく、その中に身を置きながらキリスト教信仰を伝えようとした。その在り方こそが、彼を「宇留岸伴天連」として日本人の記憶に残る存在とした最大の理由であったと言えるだろう。(次回に続く)
現代の安土を歩く
琵琶湖東岸の安土は、織田信長が築いた安土城を中心に、中世の旧弊を打ち破り近世の幕を開けた変革の地である。1576(天正4)年に築城された安土城は、堅固な防御力を保持しつつ、豪華絢爛な装飾によって権威を誇示しており、軍事建築に高度な芸術性を融合させた画期的な城であった。現在、この地には五つの史跡や施設が点在している。
安土城跡は、近世城郭の構造を残す遺構である。1582(天正10)年、本能寺の変の後に焼失したが、発掘調査を経て石垣や礎石が露出した状態で保存されている。直線的な大手道や山頂に天主を置く構成は、後の城郭建築に影響を与えた。道沿いに配置された家臣の屋敷跡からは、当時の階層構造が確認できる。
安土駅に隣接する安土城郭資料館には、実物の20 分の1 の大きさで再現された天主模型が設置されている。この模型は分割して内部を見ることができ、階層ごとの構造を把握できる。信長が意図した城郭内部の空間利用を客観的に観察するための資料となっている。
安土城天主信長の館では、1992 年のセビリア万博で展示された原寸大の天主最上部を閲覧できる。当時の工法を用いて再現された黄金の壁や障壁画からは、安土城が備えていた色彩や装飾を確認することが可能だ。
滋賀県立安土城考古博物館は、発掘調査の出土品を通じて築城技術や城下町の動態を学術的に整理している。周辺城郭との比較を通じ、信長がいかに既存の枠組みを脱し、近世的な統治システムを創出したかという変遷が浮き彫りとなっている
安土セミナリヨ跡は、1580(天正8)年頃、織田信長が安土城下の土地を与え、イエズス会宣教師オルガンティノの主導によって設立されたキリスト教神学校の所在地である。ここでは神学教育に加え、ラテン語、西洋音楽、学芸などが教授され、日本における初期キリスト教教育の重要な拠点となった。



安土城天守模



安土城天守最上部
