16世紀の世界の潮流、日本そして岐阜への宣教の道
これまで『岐阜キリシタン小史』では、岐阜を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスについて、断片的に触れるにとどまってきたが、あらためて彼のことを深く掘り下げてみたいと長く考えてきた。また、フロイスとは異なる宣教方針をもちながらも、同じく岐阜の地を踏んだフランシスコ・カブラル、そしてオルガンティノやロレンソ了斎のことも岐阜との関わりで記してみたいと考えた。
今回から数回にわたって彼らの生涯を辿りつつ、彼らが日本キリシタン史に残した功績、そして当時の論争について記していきたいと思う。
宣教師たちの日本渡来は、15世紀末から16世紀にかけての世界的な大航海時代の拡大と、ヨーロッパの反宗教改革によるカトリック勢力の布教強化という二つの大きな潮流を背景とする。この潮流に応じる形で組織されたのがイエズス会であり、彼らが日本への派遣を実現させたのである。
大航海時代は、ヨーロッパ諸国がアジアの富、特に香辛料や絹、貴金属を求めて新航路を開拓し、それまで分断されていた世界が初めて本格的に一つに繋がっていく時代の幕開けであった。この動きの先鞭をつけたのが、イベリア半島の二大国であるポルトガルとスペインである。1494年、両国はローマ教皇の仲介のもと、歴史的なトルデシリャス条約を結んだ。これは、大西洋上に引かれた境界線(教皇子午線)をもって、世界の植民地支配権を西半球(主にアメリカ大陸)をスペイン、東半球(主にアフリカ、アジア)をポルトガルが支配するよう二分するという、極めて大胆なものであった。彼らの海外進出は、単なる経済活動や領土拡大に留まらず、キリスト教の布教と領土拡大を一体のものとして進めるという、レコンキスタの精神を継承したものであった。
ポルトガルは、アフリカ大陸の沿岸を南下し、東回りの航路でインドのゴアを拠点とし、マラッカ、マカオといった交易都市を経由して日本へと到達した。宣教師たちの来日は、単なる宗教活動という枠を超え、このポルトガルの東方貿易ネットワークと、それによってもたらされたヨーロッパ文明(鉄砲、活版印刷、新しい医学、世界地図など)が、当時の戦国時代の日本と出会う、まさにグローバル化の初期段階における大きな歴史的な瞬間であったと言える。
一方、ヨーロッパの16世紀は宗教的な大動乱の時代であった。1517年にマルティン・ルターが始めた宗教改革は、ローマ・カトリック教会の権威を揺るがし、ヨーロッパの信仰世界を二分した。カトリック教会はこれに対抗するために、自らの刷新を図る反宗教改革(カトリック改革 Counter-Reformation)という運動を進めた。この激動の中で、1540年にスペインの貴族出身であるイグナチオ・デ・ロヨラによって創設されたのが、新しいタイプの修道会であるイエズス会(Societas Iesu)である。彼らは、伝統的な修道会の枠を超え、「教皇への絶対服従」と「異教徒への布教」を活動の柱とした。イエズス会士は、教養と学問を重んじ、ヨーロッパ中で教育機関(コレジオ)を設立して知識人を育成した。彼らの宣教戦略は極めて組織的で知的なものであり、現地の文化や習慣を理解し、その上で布教を行うという柔軟性も持ち合わせていた。そして、フランシスコ・ザビエルに代表されるように、高い教育を受けた優秀な人材が、アジア、特に「日本」という極東の重要な布教地へ次々と派遣された。彼らが持ち込んだものは信仰だけでなく、当時のヨーロッパの最先端の知と技術であり、これが日本の文化や社会に大きな影響を与えることとなった。
この初期の日本宣教を主導したのは、東回り航路を独占したポルトガル国の支援のもと、ポルトガル系のイエズス会であった。フロイスもカブラルもポルトガル人である。これに対し、後にフィリピンを拠点に日本へ進出したスペイン系の宣教会であるフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会(これらは托鉢修道会とも呼ばれる)などは、豊臣秀吉の時代になってからようやく日本に渡航を始めるが、その活動は主に京都や長崎などに限定され、信長が本拠とした岐阜の地を訪れることはなかった。
こうした「東洋の富を求める大航海時代のエネルギー」と「カトリック教会の勢力回復を図るイエズス会の熱意」という、世界史的な二つの大きなベクトルが合流し、1549 年のザビエルの日本上陸という形で結実した。そして、このグローバルな使命を帯びた組織の一員として、フロイスとカブラルたち宣教師は、時の権力者・織田信長が拠点とする岐阜の地へも足を踏み入れることになったのである。こうした世界史のダイナミックな流れの中で、日本のキリシタン史を捉え直すことは必要なことだと思う。
(参考)フロイスとカブラルの略年譜 ※赤字は信長関連


