ロレンソと美濃、そして信長の心を捉えた宗論
ロレンソ了斎と天下人・織田信長との出会いは、日本のキリスト教史における決定的転換点となった出来事である。
信長が岐阜に入城する数年前、ロレンソの言葉は既に美濃の地に届いていた。永禄3(1560)年、美濃の武将・山田庄左衛門が京都でロレンソと宗論(一度目の宗論)を交わし、その論理的な回答と信仰の深さに心を奪われ、洗礼を受けて改宗した。庄左衛門は美濃のキリシタン伝道の先駆者となり、ロレンソが後に岐阜を訪れる道筋をつけた(このときの顛末は岐阜キリシタン小史(6)を参照のこと)。
そして永禄12(1569)年、ロレンソは宣教師ルイス・フロイスと共に、岐阜から京へ進出し始めた信長に初めて謁見した。この歴史的な会見の場で、信長の側近でもあった日蓮宗の僧侶・朝山日乗との宗論(二度目の宗論)が繰り広げられた。日乗が「眼に見えぬ天主を拝む根拠はどこにあるのか」と問い詰めると、ロレンソは琵琶法師時代から培った雄弁な弁舌をもって、理路整然とキリスト教の教義に応じた。
宗論の終盤、完全に論破された日乗は逆上し、「霊魂を見せよ」と叫んで刀を抜き、ロレンソに斬りかかろうとする蛮行に出た。しかし、ロレンソは微動だにせず、その冷静さと不屈の信仰心、そして卓越した論理が信長の心を深く捉えた。
信長はこの結果を極めて高く評価し、キリスト教に深い理解を示しただけでなく、ロレンソに親愛の情を示した。この宗論の勝利こそが、信長に京都での南蛮寺(教会)建設を許可させ、キリスト教を事実上公認させる決定的な転換点となり、日本におけるキリスト教布教の黄金時代を招く決定打となったのである。
その後、ロレンソは1572(元亀3)年に宣教師カブラルと共に岐阜に再度赴き、布教の永続的な許可と拠点確保を目指した。この動きは、ロレンソが日本人修道士として布教の主体的な役割を担おうとした試みであった。しかし、宣教師団内部の対立や、軍事に集中する信長の関心の変化により、残念ながらこの時の願いは叶わなかった。だが、彼が信長と築いた揺るぎない信頼関係は、その後の布教活動における巨大な後ろ盾となり続けたのである。
キリスト教布教の「黄金時代」を築いた功績
親しい関係を結んだ。彼は天下人との信頼関係を築くことで、布教が広まるための政治的な基盤を確立した、稀有な存在であった。
彼の最大の功績は、献身的な生涯と二度にわたる宗論の勝利によって、当時の畿内や九州をはじめ各地で数多くのキリシタンを生み出したことにある。彼がいなければ、武士階級の間でキリスト信仰があれほど普及することはなく、信長や秀吉といった天下人に信頼され、布教が広まるための政治的基盤も築けなかったであろう。
秀吉の九州征伐後、バテレン追放令(1587年)が発布され、布教活動が未曾有の危機に瀕した後も、ロレンソは危険を顧みず日本に留まり続けた。彼のこの不屈の姿勢は、迫害下の日本人信徒たちにとって、精神的な希望の光であり続けたであろう。
ロレンソは、生涯を通じて「神から照らされていた盲人」であった。これは彼の視覚障害を指す通称であったが、同時に彼の信仰の深さを象徴するものであった。彼は、まさに日本のキリスト教布教の黄金時代を築き上げるために神に選ばれた器であったと言える。
彼は、激動の安土桃山時代を生き抜き、天正19(1592)年、長崎のコレジオ(神学校)で静かに息を引き取った。彼の残した卓越した功績は、日本のキリシタン史の深部に、消えることのない光として永遠に刻み込まれているのである。

ロレンソ了斎の生誕地の長崎県平戸市
春日地区は世界遺産(「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」)に認定されている
文:笠松キリスト教会 北島智宏
