岐阜キリシタン小史(37)《証し》感謝!!「美濃のキリシタン」展

この夏、岐阜県美濃加茂市にある美濃加茂市民ミュージアムで「美濃のキリシタン秘められた祈りの証し」展が開催された(2025.7.12-8.24)。私は、個人で、現地ミニツアーで、講演会で、そして妻と、都合4度、足を運んだ。少し遅くなったが、今回はこの企画展を通して教えられたこと、気づかされたことを書いてみたい。

「美濃のキリシタン 秘められた祈りの証し」展(美濃加茂市民ミュージアム)


歴史家E.H.カーは、主著『歴史とは何か(What is History?)』の中で、「歴史とは、歴史家と事実との間の相互作用の絶え間ないプロセスであり、現在と過去との間の尽きることのない対話なのである」と述べている。歴史とは単なる過去の記録ではなく、今を生きる私たちが過去と向き合い、問いかけ、応答する「営み」である。
かつて岐阜の地に多くのキリシタンが暮らし、厳しい弾圧の中でその信仰を守り通したという事実は、今、岐阜の地に住む私に何を語りかけているのか。そして、そのことを通して私は何を学ぶべきなのか。この企画展は、その問いに改めて向き合うきっかけとなった。
今、私は岐阜の地に住みながら、この地に生きたキリシタンたちの「足跡」に耳を澄ませている。彼らは、信仰を理由に弾圧され、命を脅かされながらも、祈りを捨てず、信念を貫いた人々であった。時の権力に抗い、沈黙の中で神に語りかけ、迫害の闇の中で神の光を求め続けたのである。その存在は歴史の片隅に埋もれがちであるが、私に、今この地に生きる者への深い問いを投げかけてくる。ここには、かつて信仰のために命を懸けた人々がいたという紛れもない事実があるからだ。
現代の私たちは、信仰の自由を享受している。教会に通うことも、聖書を読むことも、誰に咎められることもない。しかし、その自由の中で、私たちは果たして彼らのような信仰を生きているだろうか。信仰を持つとは、単に宗教を選ぶことではなく、人生の根幹に何を据えるかという選択である。キリシタンたちは、命よりも大切なものとして信仰を選んだ。
その究極の選択は、私にとって、日々の生き方や価値判断をあらためて問うものである。彼らは私にこう語りかけてくる。「あなたは、何を信じて生きるのか。あなたの信仰は、困難の中でも輝きを放つものか」と。
イエス・キリストは「わたしが、道であり、真理であり、いのちなのです」と言われた(ヨハネ14:6)。この世がどう変わろうとも、私の地上の歩みでぶれてはならないのは、まさにこのことではないだろうかと、この企画展を通してあらためて教えられたことであった。感謝!!

左:キリシタン硯石(可児市塩)
右:平和の聖母マリア像(可児郡御嵩町謡坂)
 (現地ツアーに参加したときの写真から この日は暑かった!!)

文:笠松キリスト教会 北島智宏