岐阜県西濃地方のキリシタンについては、これまで詳しく触れる機会がなかった。
西濃地方にもキリシタンがいたことは、『尾濃葉栗見聞集』に記録が残されている(「岐阜キリシタン小史(20)」参照)。また、「岐阜キリシタン小史(11)」の年表の中で、天正10(1582)年と慶長11(1606)年の出来事について言及したが、それ以外の記事を見つけられなかった。
今回は、最初にこの慶長11(1606)年の出来事に注目する。
大垣藩の初代藩主石川康通(1554-1607)は、徳川家康の重臣であった石川家成の長男として生まれ、徳川譜代大名として重要な地位にあった。また、康通の従兄には石川数正(後に豊臣家に仕える)がおり、彼はキリスト教に関心を持っていたとする説があるなど、石川家とキリシタンとの関わりは以前からあった可能性がある。康通は関ヶ原の戦いでの功績により、慶長6年(1601年)に美濃大垣藩の初代藩主として5万石で入封した。
慶長11(1606)年、康通は正式にキリスト教に改宗し、「フランシスコ」という洗礼名を授かっている。しかし、改宗の翌年慶長12(1607)年に病のため亡くなった。その後、彼の妻が京都でキリシタンの支援者になったという記録が残されており、康通の死後も石川家とキリスト教徒の関係が続いていたことが窺える。
康通が受洗した同年に、稲葉政貞夫妻とその家臣50名も受洗している。稲葉家は将軍家光の乳母春日局とゆかりのある家であり、政貞は春日局の夫・稲葉正勝の養子である。彼は徳川家康に仕えて御小姓となり、美濃国十七条(現在の岐阜県瑞穂市十七条)で千石を拝領した。その後、尾張藩主徳川義直の家臣となっている。
そして、今回はもうひとつの別の出来事を紹介する。下記は『大垣宿問屋留書』の中の記事である。
今度吉利支丹之宗旨ゆふけんと申坊主之儀先年岡部內膳殿御代當地へ出入仕候然所に彼ゆふけん吉利支丹之由內膳殿御聞被成當地七八年以前に御拂被成候後は一度も大垣御城下之儀ハ不及申、在々へも出入不仕候、尤近年之儀ハ彼者有所も不存候、若此旨僞リ於申は此連判之者如何樣之曲事にも可被仰付候、爲後日仍如件
寬永拾貳年亥霜月廿三日 大垣町年寄
御奉行衆
(現代語訳)
今度、キリシタンの宗旨を説いていた僧侶のゆうけんについて、この僧侶は先年岡部内膳殿(岡部長盛)が当地域の領主であった時代(1624~1632)に、当地へ出入りしていました。ところが、そのゆうけんがキリシタンであるということが内膳殿のお耳に入り、当地から七、八年ほど前に追放されました。追放されて以降は、一度も大垣の城下はもちろんのこと、村々へも出入りしておりません。もっとも、近年のことは、その者がどこにいるのかも存じ上げません。もしこの申し上げた内容が偽りであったならば、この連判した者たちは、いかなる重罪でも仰せつけられる覚悟です。後日のために、よって件の如し(以上の通り)。 寛永12(1635)年 11月23日 大垣町 年寄一同 御奉行集(お奉行様方)
寛永12(1635)年といえば、島原の乱の2年前。キリシタン弾圧がいよいよ厳しくなろうという時期である。それ以前に大垣では「ゆうけん」というキリシタンが宣教活動を行っていたのである。
キリシタンとは関係ないが、大垣は松尾芭蕉の『奥の細道』のむすびの地(終着点)。大垣城の近くには「奥の細道むすびの地記念館」という大垣市の施設があり、一見の価値があります!!

7月29日の大垣空襲によって焼失した
文:笠松キリスト教会 北島智宏