過日、今年(2025年)7月に岐阜公園内にオープンした「岐阜城楽市」に妻と初めて出かけた。そして隣接する岐阜市歴史博物館で、開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長」を見学した。岐阜城というと、私は金華山山頂の天守を思い浮かべるが、この特別展では山麓にあった信長の居館跡の発掘についても詳しく紹介されており、大変興味深く観覧した。(図録もすばらしい!! ぜひ購入すべし!!)
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが、この山麓居館に訪れたのは永禄12(1569)年のことであった。フロイスは京での伴天連追放令を受け、織田信長に庇護を求め岐阜にやってきた。フロイスはその著書『日本史』のなかで、信長の御殿について次のように記している。
「ポルトガルやインド、日本の他の地域で見てきた宮殿や居館の中でも、信長の御殿は精巧かつ豪華で、最も優れていた。御殿は非常に高い山の麓にあり、外側には巨大な石垣が築かれていた。入口には儀礼や演劇を行う屋敷があり、一階には15〜20の座敷が並び、5〜6つの庭園が設けられていた。池には魚が泳ぎ、中央の石には花や草木が生えていた。二階には信長の奥方や侍女たちの部屋があり、町側にも山側にも縁と見晴らし台があった。山の高さに達する三階には、非常に静かな茶室がいくつか設けられていた。三階や四階の見晴らし台からは町屋が一望できた」。
また、岐阜の城下町についてはこう記している。
「取引や用務で往来するおびただしい人々で道はにぎわい、一歩店に入れば、商いと雑踏で家の中では自分の声が聞こえぬほどだった。昼夜、ある者は賭け事をし、飲食、売買、また荷造りに忙しく立ち働いている。人口は八千人ないし一万人で、バビロンの雑踏を思わせた」。
そして、フロイスは信長自身から手厚い接待を受けたようである。『日本史』には、信長は客として招いたフロイスに対し、豪華な座敷でお茶や食事を振る舞った際、自ら食膳を運んで給仕したと記されており、フロイスはこれに大変驚いたようだ。
更に信長はフロイスに対し、山上の本城を見せたいから滞在を二日延ばしてほしいと願い、山上を案内した。そのときのことをフロイスはこう記している。
「信長公に別れのあいさつをしたところ、城を見せたいから出発を二日間延期するようにといわれた。こうして翌日、山に登ることになった。……城の入り口にはある種の堡塁のようなものがあり、そこには絶えず15ないし20人の若者がいて、昼夜見張りに立ち、ある者が他へ替われば他の者がやってきた。城へさらに上ると、入り口の次に2〜3の座敷や部屋があり、信長の領国における主だった諸侯の若い子息、年令12歳から15歳の者約100人がいた。信長は彼らを物運びや警戒の番として使っていた。‥‥‥彼は、次男をやって茶をもってこさせ、私に初めの磁器の碗を与えて、自分は別のを飲み、そして三番目を(注)ロレンソに与えた。次に私に美濃と尾張の国を見せたが、城から見えるのはすべて平野であった。縁に向いた内側には、すべて金の屏風で豪華に飾られた座敷があり、周囲を二千本もの矢で取り囲まれていた」。
現在、岐阜城の山麓と山上で大規模な発掘調査が続いている。先日NHKで「戦国サムライの城」という番組が放送されたが、その中で信長の山麓居館に使われたであろう「金箔飾り瓦」を紹介していた。(菊花紋と牡丹紋で写真下は復元品。直径約30㎝)。特別展「岐阜城と織田信長」でも展示されていた。信長は自身の権力を誇示するため、城下からでも見える場所にこの瓦を用いたという。

今後、どんな新しい発見があるのか、非常に楽しみだ。
(注)日本人最初のイエズス会会士でイルマン。盲目で元は琵琶法師であった。1551年ザビエルから受洗した。

岐阜市歴史博物館 開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長」
文:笠松キリスト教会 北島智宏