岐阜キリシタン小史(33)―『正事記』のこと②―

前回の続きである。

今回の箇所には、幕府がなぜキリスト教を禁止したのか、その理由が記されている。その理由とは…奇想天外で思いもよらない話が書かれている。この逸話は、当時の人々の間で語られていたものなのか?


抑吉利支丹の事昔ハ御制禁もなく寺を建法を廣めると聞ゆ中比より今ニ至て悉さがし出し根をたち葉をからし御退治被遊事ハ如何成子細より如此成るなりと云ニ或る老人語られけるハ數十ヶ年以前ニ八丈島の邊へ(おびただ)(しく)大舩沖ニ懸りて數日を經るかようの事前代未聞のよし嶋々より江戶へ言上仕る則鄰國の大名小籏下を差添られ樣子御尋被成候得とも舩中の者共申やう是ハ唐國の商人舩ニて候が南蠻國へ渡申て大風に逢心ならず此海上ニ舟懸り仕なり(さて)(ここ)は日本地ニて候や一兩年海上ニ漂ひ方角に迷ひて南蠻へも渡り得十難儀ニ及候其上(注1)粮米ニ詰まり候舩內の財寶殘らず相渡し可申候間米穀を阿たへて給り候へと申此よし言上仕れハ其時の(注2)台德院の公方樣不便ニ思食させられ舩中の財寶一物も得へからず米穀ハ何ほと成とも望申程とらせよと仰有て數百名の米を被下けるほとに歸唐ニ趣けり誠ニ御仁政是ニ過へからずと世以て申けるとかやさありて又翌年右の舩ニ相替らふ大舩海上に浮ふ嶋人驚き急き注進仕上にも不思議と思召上使を以て御尋有けれハ舩中の者とも申やう是ハ去年此所ニ舩懸り仕御芳志ニ預り奉りたる者共なり歸國いたして國王へ言上仕れハ王悅ひ玉ひて御禮の爲ニ我等を指越被申候とて種々の珍物とも取出し是を將軍樣へ上け被下候へと申中にもちいさき箱壹ツ殊更これを大事の物とぞ申ける人々奇異のおもひをなし一々改め受取て江戶へ差上ける樣々の音物言ふに言葉もなかるべし中ニも大事と申箱の內ニハ書簡一通有之とぞ文章ハ志らねとも其趣ハ去年我國の商人舩惡風ニおとされ日本の地ニ着粮米(ことごとく)(つき)て若干の唐人海上ニおゐて餓死ニ及ひ骸を(注3)鯨鯢(げいじ)(あぎと)ニかけ數萬の財寶海底ニ朽なんとす其費ハこれ幾ならず人の命あたひ限なし天ニ仰き舩底になき悲む事切なり然天人をころさずに仁者國へ此舩をよせ給ふ大日本國これなり尊君廣大の仁心を以て不死の藥をあたへ玉ふ依て吾國の嘆さつて恰も悅の眉をひらく天下ハ天下の天下なり國土を治る事ハすへからく仁愛にあり文武其內に然り國民ハ家を守て親とし我又萬民を子の如くす是天のゆるす德ならずや幸何事かこれに志かん志かしなから貴君の厚恩ニこたへたり報せんとするに一世にたらず寧一紙を認(注4)滄海萬里の東ニ贈る所所謂爰ニ吉利支丹と云宗門有近年普く衆人を誘て邪法をのぶ尤天地體胖にしての萬物を入る善意ハ其者ニ有厭而厭ましきなれとも彼が意趣末々謀叛を企國を奪ん事を謀る然は朝敵惡逆の徒黨たり忽然として(注5)秋津國に至る事あらん御用人るへし此一ツを以て先以右の厚恩纔ニ謝す依志らしめ奉ると書載せられけるとや依之君も臣も大ニ驚き玉ひ御大悅の旨御返書ニ色々の重寶を相添られ唐使ニも數の御引出物下されけり扨こそ吉利支丹改有て悉御退治被爲遊と申傳ふるなり    (原文のまま)



(現代語訳)

キリシタンについては、昔は取り締まりもなく教会を建てたり布教活動をしたりしていたと聞く。それが最近になって、徹底的に根絶やしにするほど取り締まりが厳しくなったのは、いったいどのような理由があるのだろうか」。そう尋ねると、ある老人が次の話をした。「数十年前、八丈島のあたりに、巨大な船が何日も沖に停泊していた。このようなことは前代未聞であったため、島々から江戸へ報告された。そこで幕府は、近くの大名に家臣を遣わして様子を探らせた。すると、船の乗組員たちは『我々は唐(中国)の商船である。南蛮国へ向かう途中で大嵐に遭い、漂流してこの海に流れ着いた。ここは日本であろうか? 一年か二年ほど海をさまよい、方角も分からなくなり、南蛮へも行けずに大変困っている。その上、食料も尽きてしまった。船にある財宝は全て差し上げるゆえ、米を少し分けてはもらえないか』と申し出た。この話が江戸へ報告されると、当時の公方台徳院様は彼らを不憫に思い、『船の財宝は一切受け取ってはならない。米は彼らが望むだけ与えよ』と命じた。そして数百人分の米を分け与えたところ、彼らは唐へ帰っていった。人々は『これほど素晴らしい仁政は他にない』と口々に語っていたという。」

そのようなことがあって翌年、また去年の船とは違う大きな船が海に浮かんでいるのを、島の人々が発見した。人々は驚き急いで注進し、それを聞いたお上も不思議に思い、使者を送って尋ねさせた。すると、船の中にいた人々が言うには、「われらは去年この場所に船が着いて、お世話になった者たちである。国へ帰って国王にこのことを申し上げたところ、国王は大変喜ばれお礼のためにわれらを遣わされた」。そう言って、さまざまな珍しい品物を取り出し、「これを将軍様にお渡しくだされ」と頼んだ。その中でも、特に小さな箱が一つあり、これを大事な物だと言った。人々は不思議に思いながらも、一つひとつ確かめて品物を受け取り、江戸へ送った。さまざまな贈り物の中で大事だと言われた箱の中には、手紙が一通入っていた。文章は分からなかったが、その趣旨は以下のようであった。「去年、わが国の商船が悪天候で流され、日本の地にたどり着いた。食糧はすっかり尽き、多くの商人が海上で餓死しかけ、命の危険にさらされ、数えきれないほどの財宝が海底に沈みそうになった。その損失は計り知れず、人の命は値段がつけられぬ。天を仰ぎ、船底で泣き悲しむことは耐えがたいものであった。しかし、天は人々を見捨てることなく、仁徳のある国にこの船を寄せられた。それが大日本国である。貴君の広大な仁の心によって、われらは命を救われた。おかげで、わが国の嘆きは消え、喜びの顔がほころんだ。天下は天下の人々のものであり、国を治めるには、何よりも仁愛が必要である。文武はそれに従うものである。国民は家を大切にし、親のように敬い、われはまた万民を子のように大切にしている。これは天が許した徳ではないか。他に何を望むことがあろうか。しかしながら、貴君の厚いご恩にお応えしようと思っても、一生では足りぬ。そこで、この手紙を一枚、万里の東の海を越えてお送りする次第である。ここで知っていただきたいのは、キリスト教という宗派があることである。近年、広く人々を誘って(よこしま)な教えを広めている。天地は万物を受け入れる広さがあるが、彼らの意図は、やがて謀反を起こして国を奪おうと企むものである。したがって、彼らは朝廷に敵対する、悪逆な者たちの仲間である。もし彼らが日本の地に来ることがあれば、警戒なさるべきである。この一件をもって、まずもって厚いご恩に心ばかりのお礼を申し上げ、このことをお知らせする」と書かれていた。これによって、将軍様も家臣も大いに驚き、大変お喜びになった。お礼の手紙にさまざまな貴重な宝物を添え、使者にも多くの引き出物を下された。そして、このことをきっかけとして、キリシタンの取り締まりが行われ、徹底的に排除されたと伝えられている。

(注1)食糧としての米のこと

(注2)江戸幕府第二代将軍徳川秀忠のこと

(注3)文字通りの意味はクジラのあごのこと。慣用句として使われると、海上で命の危険にさらされること。

(注4) 広くて青い大海原が、どこまでも果てしなく広がっている様子。

(注5) 日本国を指す古称。 さて、続いて次は島原の乱のことが書かれている。島原の乱は、1637年から1638年にかけて、肥前国島原(現在の長崎県)と肥後国天草(現在の熊本県)で起こった、農民とキリスト教徒による大規模な一揆である。徳川幕府の厳しいキリスト教弾圧と、領主による過酷な年貢の取り立てに苦しんでいた農民たちが蜂起した。この一揆には多くのキリスト教徒が参加し、彼らは16歳の少年、天草四郎(益田時貞)を総大将に祭り上げた。一揆軍は、廃城となっていた原城に立てこもり、幕府軍と戦った。しかし、幕府は全国の大名から兵を集め、数カ月にわたる籠城戦の末、一揆軍は食糧が尽きて全滅した。島原の乱は、日本の歴史において非常に重要な出来事である。幕府は、キリスト教の背後にポルトガルがいると疑い、この乱をきっかけに、残っていたポルトガル人との貿易を完全に禁止した。これにより、日本の鎖国体制が確立された。また、この一揆を機に、幕府によるキリスト教徒への弾圧はさらに厳しさを増し、潜伏キリシタンという日本独自の信仰形態を生み出すことにもなった。濃州の塩・帷子におけるキリシタン弾圧も、この島原の乱が遠因とされている。また、この島原の乱には近隣の九州の諸藩などの他に大垣藩が出兵している。そのことについてはまた別の機会に記したい。


其比上方ては板倉伊賀守殿爲所司代穿鑿せらる國々ハ其守護庄ハ其地頭ニ仰て改させられ六十餘州のきり志たんとも絕て正法ニ成にけり然れとも餘類殘て邪意を含み肥前國天草島原ニ有之寬永の比討手を被遣けれハ切支丹共身の置所なきまゝに生年十四五歲ニなる(注1)四郞大夫と云者大將ニ取立て同國の(注2)はら城とて山城の跡形ばかり殘りける古城に男女三万七千五百餘人取籠やさしくも蟷螂(かまきり)が斧を(と)ぎ重代のさひ刀に刃を付竹槍竹具足を拵て一起の色を顯す比ハ寬永十四丑の秋也家光公樣の御代之いつれも肥州の土民行衞も志れぬ諸牢人徒者とも少々有ける中に懸鳥をもはづさぬ程の弓鐵炮四五百人も有とぞ聞へける小事とハ云ながら幾里支丹の事なれば如何成者の同類たるへき一人も洩すなとて西國東國の大名を少々討手に指向らる御籏本數十人中にも(注3)板倉內膳殿(注4)松平伊豆守ハ上意を含てのぼられけり彼地元來究竟の城郭三方ハ海上渺々として一方は田地にて壹里隔ば木もなき山とぞ聞へける然れとも數萬の武士稻麻竹葦のごとく打圍て責けれハ壹人も殘らず亡けり委ハ(注5)天草物語ニ見へたり松倉長門守殿領分ニてぞ有ける此時に至て邪法いよいよ絕てけり御退治の子細ハ如件語られけり       (原文のまま)


(現代語訳)

当時、京都では板倉伊賀守が所司代としてキリシタンの取り調べを行っていた。全国の藩にはその藩主に、荘園には地頭に命じて改めさせ、60以上の国にいたキリシタンは、ほとんどが正しい仏法に改宗した。しかし、その残党が邪悪な考えを捨てきれず、肥前国(現在の長崎県、佐賀県)の天草・島原に潜伏していた。寛永年間(1624年~1644年)に幕府が討伐隊を派遣しようとしたところ、キリシタンは逃げ場を失い、当時14、15歳であった四郎大夫という少年を大将に立てた。そして、同じ国の原城という、山城の跡形だけが残る古い城に、男女合わせて3万7500人余りが立てこもった。弱々しくもカマキリが斧を研ぐように、代々伝わる錆びた刀に刃をつけ、竹槍や竹の鎧を作って一揆を起こす姿勢をはっきりと示した。これは寛永14(1637)年の秋のことであった。家光公の治世である。いずれも肥前国の農民で、身元の分からない浪人やならず者も少々いたが、中には獲物を逃さないほどの腕を持つ弓や鉄砲の名手も400~500人いたと聞いている。このことは小さな出来事ではあるが、キリシタンのことなので、「どのような者の仲間になるか分からぬ、一人も逃すな」ということで、西日本や東日本の大名を何人か討伐隊に加えた。幕府の直属の家臣も数十人おり、中でも板倉内膳と松平伊豆守は将軍の意を受けて指揮を執った。原城は元々、攻め落とすのが難しい城であった。三方は広々とした海に囲まれ、一方は田んぼで、一里離れたところに木一本もない山があるだけであったと聞いている。しかし、数万の武士がイナゴや竹のように城を幾重にも取り囲んで攻めたため、一人も残さず滅ぼされた。詳しいことは『天草物語』に載っている。この城は松倉長門守の領地であった。この時になって、邪教は完全に滅びたのである。討伐の詳細はこのように語り伝えられた。

(注1)天草四郎のこと。(注2)原城のこと。

(注3)板倉重昌、島原の乱で総大将となるも戦死。

(注4)松平信綱、板倉重昌戦死後、総大将となる。知恵伊豆と呼ばれた。

(注5)詳細不明。

原城の位置
現在の原城跡

今回で『正事記』については終わり。

文:笠松キリスト教会 北島智宏