岐阜キリシタン小史(32)―『正事記』のこと①―

 『尾濃葉栗見聞集』が終わりホッとしているところではあるが、濃尾のキリシタンに関わる文書で、もう一つ触れておきたいものがある。それが『(せい)()()』である。『正事記』に書かれているキリシタンに関わる記述は『尾濃葉栗見聞集』の中でも引用されている(岐阜キリシタン小史(25)(26)を参照のこと)。

  (せい)()()は、尾張藩士津田(ふさ)(かつ)(藤兵衛)(1629~1701)によって書かれた。房勝は濃州塩村、帷子村のキリシタン捕縛事件と同時代の人物であり、その点で書かれた内容は信憑性が高い。この事件は1661(寛文元)年のことであるから(岐阜キリシタン小史(3)参照)、房勝が32歳の時のことである。『正事記』は巻一から巻三までの三巻からなり、当時の尾張藩を中心とした社会の出来事が記されている。

この『正事記』の中から、何回になるかわからないが、キリシタンに関わる記事を抜き出し、現代語を付していきたい。

 余談だが、筆者は、この『正事記』を国立国会図書館のオンライン閲覧を利用して読むことができた。居ながらにして実際に史料を読むことができるとは、本当にありがたい。しかもPDFの印刷も可能!!


今月朔日御旗本本衆(注1)西尾權左エ門殿より以使者被申上けるハ私領分濃州(注2)志ほ(注3)かたひらと申兩在所も幾利支丹宗門の者共有之由承り候拙者在江戶仕御存之通小身ニ候得ハ領地ニ人(すくなく)指置申候乍恐御國境之儀ニ而御座候閒御家中衆ニ被仰付搦させ被下候ハバ過分難有次第ニ御座候且ハ御公儀を大事ニ奉存候故奉願候私ならざるゆへ申上候との儀也殿樣被爲聞召安き事也と仰られ則御國奉行ニ渡邊新左エ門足輕大將田邉四郞右衞門御代官衆に勝野太郞左衞門御目付鳥居傳右衞門五十人御目付衆一兩人手代取手の者數十人時刻を移さず馳參じ搦捕るへき旨被仰付夜中ニ名古屋を出未明ニかしこに至り能手段をして切支丹共廿四人壹人も不殘搦捕四日(の)夜つれ來る又犬山の城下五郞丸といふ在所に伴天連人有て成瀨信濃守よりからめ出さる其外にも美濃境に有之とて搦に遣わさる十五日の夜ハ五十九人搦來る由なり其後も拾人二十人方々より搦來る由幾十人とも(し)かとハ知れず(原文のまま)



(現代語訳)

今月1日、旗本の西尾権左衛門殿が使者を介して、尾張藩主である殿に次のように申し出た。「私の領地である濃州の塩と帷子(かたびら)の二つの村に、キリシタン宗門の者がいると耳にいたしました。私は江戸在勤で、ご存知の通り身分が低いため、領地には十分な人員を置いておりません。恐れながら、これは御領国境のことでもございますので、殿の家中の者にお命じになり彼らを捕らえさせていただければ、この上ない幸いに存じます。また、公儀(幕府)を重んじるからこその願いであり、私個人の都合ではないことをお伝えしたく、申し上げました」。殿はこの話を聞かれ、「たやすいことだ」とおっしゃり、すぐさま対応を命じられた。国奉行の渡邊新左衛門、足軽大将の田邉四郎右衛門、代官衆の勝野太郎左衛門、目付の鳥居傳右衛門、その他50人の目付衆、1〜2人の手代、そして数十人の捕縛担当者を即座に集め、キリシタンを捕らえるよう命じた。彼らはその夜中に名古屋を出発し、夜明け前に現地に到着した。見事な手際で、キリシタン24人を一人残らず捕らえ、4日の夜には連れ帰ってきた。また、犬山の城下にある五郎丸という村では、伴天連(宣教師)がしたが、成瀬信濃守によって捕らえられた。他にも美濃の国境にいるとの情報に基づき、捕縛隊が派遣された。15日の夜には59人が捕らえられて連行され、その後も10人、20人と各地から捕らえられてきたため、最終的な人数ははっきりとは分からない。

(注1)林権左衛門のことと思われる。

(注2)(注3)塩村、帷子村のこと。

国立国会図書館
所蔵図書の中にはインターネットで読めるものがある。
ただし、事前登録が必要で申請から登録まで
3週間ほどかかるのでご注意を!!

文:笠松キリスト教会 北島智宏