岐阜キリシタン小史(29)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑪―

下の写真は岐阜県歴史資料館所蔵の江戸幕府によるキリシタン禁制の御定書である。


前回のこの「小史(28)」では、寛文元(1661)年の御定書を紹介した。今回のものは正徳元(1711)年であるから、50年後のものである。比較をすると、嘱託銀(江戸幕府が犯罪に関する密告を奨励するために設けた褒賞金制度)が大幅に増額されていることがわかる。伴天連の場合は銀三百枚から五百枚へ、イルマンの場合は銀二百枚から三百枚へ、同宿や日本人キリシタンの場合は銀五十枚から百枚へとそれぞれ増額されている。また、「立ちかへり者」という項目が増えている。「立ちかへり者」とは、一度棄教したが再びキリシタンに戻った者のことである。厳しい弾圧下にあったにもかかわらず、再びキリシタンに戻る者があったとは驚きである。嘱託銀はイルマンと同額であることから、信仰が厚くキリシタンの教えを弘めるおそれがある者として幕府が警戒していたことが想像できる。ちなみにこの時代の銀五百枚が現在の金額に換算するといくらになるのか、AIに調べてもらったところ、660万円という試算が出た。不確かではあるが、相当の金額にあたることは間違いない。
さて、前回の「御定書」の続きである。


被仰出候條々
一、吉利支丹宗門御制禁たりといへ共密々弘之族有之と見え今に断絶無之條常々無油断家中並領内念を入れ可改、不審成者無之様に可申付之旨今度従公儀被仰出候。
一、幾里支丹は庄屋組頭五人組可存筈之處、此以前より高札に書戴候趣致違背不申出、其一町一郷に軒をならべ乍罷在常々願申事を不存儀は有之間敷候、已來脇より顕るにおゐては御穿鑿之上存知ながら不申出候は可被断罪科事。
一、右宗門穿鑿に付五人組手形を可指出候儀諸国は毎歳一度つゝ手形取置、不依何時従公儀御尋之砌申出様にと被仰出候、御領分中は未だ宗門之殘党有之由に候間断絶仕迄は町人百姓面々召仕之者に至迄当年より毎歳二月中旬、十一月中旬兩度宛手形を取り年々の手形溜置従公儀御尋之節指出候様可仕候、右手形公儀へ指出不念之趣におゐては可爲越度事。



(現代語訳)

仰せ渡されし条々
一、キリシタン宗門は厳しく禁じられているにもかかわらず、密かに信仰を広める者がいる。今に至るまで根絶されていないのはその証しである。よって、常に油断なく、家中ならびに領内をしっかりと調べよ。不審な者が一人もいないように取り締まれ。この旨、御公儀より申し渡された。
一、キリシタンは、庄屋、組頭、五人組が把握しているべきである。これまでの高札の趣旨に背き、届け出ない者がいるが、同一の町や郷に軒を連ねて暮らす者が、その日頃の行いを知らないはずはない。今後、他の場所からキリシタンが露見した場合、調べの上で、知りながら届け出なかったと判明すれば、死罪に処す。
右の宗門の調べに際し、五人組は手形を提出せよ。諸国では年に一度の手形でよいとされるが、この領内には未だ宗門の残党がいるため、根絶するまでは、町人百姓、各自の召使に至るまで、今年より毎年二月中旬と十一月中旬の二度、手形を取り、年々の手形を保管せよ。公儀よりお尋ねがあった際に提出できるようにせよ。もし手形を提出せず、怠慢があった場合には、落ち度と見なす。

文:笠松キリスト教会 北島智宏