岐阜キリシタン小史(28)―『尾濃葉栗見聞集』のこと⑩―

最初に「切支丹」という音訳が使われた経緯について触れる。


吉利支丹を切支丹と御改之事
(注)栁営秘鑑曰、古来は吉利支丹と書き來る所、公方綱吉公の吉の字を憚て切支丹と改之者也。



(現代語訳) 「吉利支丹」から「切支丹」に改めることについて
「栁営秘鑑」には、古くは「吉利支丹」と書かれていたものが、公方徳川綱吉公の名である「吉」の字を避けるため、「切支丹」と改められた。
(注)「栁営」とは将軍家のこと。『栁営秘鑑』は、江戸幕府の年中行事や格式、故実、旧例、武家の法規などを詳細に記した書物(例えば三つ葉葵の由来など)。著者は幕臣の菊池弥門で、寛保3(1743)年に成立したとされる。全10巻。
※『尾濃葉栗見聞集』では、キリシタンを、「吉利支丹」、「切支丹」、「幾里支丹」と表記されており、作者吉田正直はこのことについてあまり意識していなかったようである。

さて、ここからしばらく『尾濃葉栗見聞集』に書かれている「御定書」の写しについて触れる。幕府のキリシタン政策について具体的にわかる史料でとても興味深い。


(注1)類門御定之寫
一、幾里支丹宗門之事累年雖爲御制禁彌以無斷絕可相改之、若不審成者あらば申出べし。
伴天連之訴人 銀三百枚 いるまんの訴人 銀二百枚 (注2)同宿並宗門訴人 銀五十枚
又は三十枚、品により急度御ほうび可被下之、自然かくし置他所よりあらはるゝにおゐては所の五人組迄可爲曲事旨堅被仰出候也、仍下知如件。
寛文元年六月十三日 奉 行
右之通被仰出候間領内之輩可相守之、彼宗門致訴人召捕之者御書付之外從自分も急度褒美可出之者也。
民 部藤田民部とて此節御國御奉行之由
一筆申入候、吉利支丹宗門御制禁之儀累年被仰出候に今無斷絕候條彌無油斷可相改之由今度從公儀被仰出候、因茲右宗門穿鑿之條御書出被成候に付則差越候間相守此旨面々召仕之者は勿論知行所百姓等迄猶以堅可相改候由御意候、恐々謹言。
寛文五巳正月晦日


(現代語訳)

キリシタン類門に関する御定の写し
一、キリスト教は長年にわたり禁止されてきたが、いまだに根絶されていない。よって、今後はいっそう徹底的に取り締まること。もし疑わしい者がいれば、ただちに報告せよ。
バテレン(宣教師)を報告した者には、褒美として銀三百枚を与える。
イルマン(修道士)を報告した者には、銀二百枚を与える。
同宿の者や信者を報告した者には、銀五十枚、あるいは三十枚、またはそれ以上の褒美を必ず与える。
もしキリシタンを隠していることが、別の場所からの通報で発覚した場合は、その場所に住む五人組全員を処罰する。このことを厳しく申し渡す。この通り徹底して周知せよ。
寛文元(1661)年6月13日 奉 行
上記の通達が出されたので、わが領地の者はこれを厳守せよ。キリシタンを通報し、捕まえた者には、公的な褒美とは別に、この私からも必ず褒美を与える。 民 部 藤田民部という人物で、この時は領国の奉行だったそうだ
一筆申し入れる。キリシタンの教えを禁ずることは、長年にわたりお達しが出されているが、未だに根絶されていない。ついては、この度、キリシタンを徹底的に取り締まるよう、御公儀から厳しいお達しが出された。よって、この趣旨をよく理解し、わが領地の家臣はもちろん、村の百姓に至るまで、油断なく厳しく改めるようにせよ。恐々謹言。
寛文五(1665)年1月31日
(注1)キリシタン本人と血縁・親族関係にある者のこと。
(注2)日本人で、伴天連たちの世話をした者のこと

文:笠松キリスト教会 北島智宏

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